キリスト教の礼拝に行くと必ず「賛美」の時間があって、みなで合唱することになります。
聖歌や讃美歌、ゴスペル、この時期で言えばクリスマスキャロルなど、まあキリスト教は「歌」と関係が深いです。だからクリスチャンを長くやっていると、ある程度歌が上手くなることが多いです。
私も音楽の授業は苦手でしたが、教会で歌うのは(慣れたので)特に抵抗ありません。鼻唄まじりに仕事をすることさえあります。上手じゃありませんけど。
でも中には、歌が嫌いな人もいます。
知り合いも「教会に行くのはいいけど、歌わなきゃいけないのが嫌だ」みたいなことを言っていました。嫌な人には苦痛ですよね。礼拝の賛美は、どの教会も最低20分くらいは掛かりますから(長いところはもっと)、確かに辛いものがあります。
そんな人のために、ここで幾つか、礼拝で歌わなくて済む裏技(?)を紹介しましょうか。
歌わなくていい裏技① 何かの奉仕をする
たとえば奏楽、音響、パワポ操作などの奉仕をすれば、歌わなくて済みます。
歌わなくていい裏技② 賛美が終わった頃に入る
礼拝が始まって30分くらいしてから入れば、たぶん歌わなくて済みます。
歌わなくていい裏技③ 歌声が大きい人の近くに座る
口パクで済みます。
歌わなくていい裏技④ 最前列の端に座る
ここは意外と注目されません。みんなから後頭部しか見えませんから、歌っているかどうかもわかりません。
半分冗談なのですが、良ければお試し下さい。
ちなみに私は新しい教会に行くことが多いですので、よく②を使います。賛美が嫌なのでなく、あまり気づかれずに入りたいからですね 笑
もう一つ関係ない裏技ですが、礼拝が始まってから教会に入り、終わる寸前に出れば、ほとんど誰にも声を掛けられずに済みますよ 笑
☆ ☆ ☆
よく「賛美の中に主が住まわれる」という聖句を引用して、「賛美は心を込めて、力の限り歌わなければならない」みたいなことを言う人がいます。全力で歌え、それが礼拝だ、というわけです。
でも「歌を歌え」と明確に命じているのは、旧約聖書です。新約聖書はそこまで厳しいことを規定していません。イエスも礼拝で大事なのは「霊とまこと」だと言っています。場所や形式は重要じゃないんだよ、と。ということは、歌うことは礼拝の絶対条件ではないはずです。
私に言わせれば、礼拝のために時間を作って、教会まで行って、幾らかの献金を捧げて、その時間(1時間くらいでしょう)神様に心を向けるなら、それで十分です。立派な礼拝です。歌が上手いか下手か、歌うか歌わないか、そういうのは本質ではありません(もちろん歌っていいんですよ)。
むしろ歌が上手いと、カラオケみたいに盛り上がってしまい、礼拝だか何だかわからなくなる恐れがあります。よく大声で歌って上手なのをアピールする人とか、気持ち良くなっている人とか、頼まれもしないのにハモリの部分を大声で歌って主旋律を邪魔する人とかいますが、そういうのはカラオケでやってくれです。
でもプロテスタント教会の一部では、誰が歌っているか、誰が歌っていないか、誰が上手か、なんてことが殊更気にされる傾向にあります。面倒くさいですね。もっと自由でいいと思いますし、もっと放っておかれていいと思います。それにそうやって他人のことを気にしている本人は、礼拝に心を向けているのでしょうか。
礼拝警察なんて、要りません。
というわけで、賛美は必ず歌わなければならないものではありません。何なら歌詞を目で追うだけでもいいですし、呟くだけでもいいです。みなの歌声に耳を傾けるのもいいでしょう。
その時間を心安らかに過ごすことの方が、よっぽど大切だと私は思います。
みなさん たいへんごぶさたしております。スマイルです。
返信削除賛美というテーマ、賛美のジャンルだとかいろいろ切り口がありますが、賛美を歌わなきゃいけないんですか? という問いについて、スマイルはろう者という視点から「うーん」と考え込まざるを得ません。もっと正直に言うと、ろう者は音程が取れませんし聞こえませんからリズム感もわからない。年配のろう者は音楽に忌避的な感情を抱き、手話であっても賛美をするのは嫌いだと思っていらっしゃる方も。聞こえないからということに加えて聴者、聞こえる人に合わせるように強制された体験があるからです。
歌詞を目で追うだけでもいいですし、呟くだけでもいいです。みなの歌声に耳を傾けるのもいいでしょう
これで十分ではないでしょうか。
でもスマイルはろう者だけど挑戦したいからどなたか聴者の声に合わせてアコースティックギターで讃美歌集の歌を弾いてみたいなと思うこともあります。聖霊派の集会で聞かれるような盛り上がったような独りよがりのうるさいだけの音楽ではなくて、みんなとじっくり分かち合えるような歌を。
スマイル
要するに同調圧力というのが嫌いですねえ。スマイル
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