教会政治の話になると、私の牧師はほとんど必ずこんなことを言いました。
「神の国は民主主義なんかじゃない。神権政治だ。だからこの教会も、神の統治に完全に従わなければならない」
そこで思い出すのが旧約の士師記の時代です。王がなく、預言者を通して語られる神の言葉を頼りに、それぞれの部族が自立的に暮らしていた時代です。真の統治者は人間にあらず、神である、というわけですね。
それはいかにも「聖書的」だと、私たち信徒は思いました。
「神ご自身が統べ治める教会」
なんと心地よい響きでしょう。
だから私たちはすぐ「アーメン」と同意して、牧師の言う「神権政治」を受け入れました。
で、どうなったかと、「牧師の独裁」です。
結局のところ、神の御心を代弁するのは牧師なのですから。
「神が新会堂を求めておられる」
「海外のこれこれのカンファレンスに参加するよう導かれた」
「キッズミニストリーのためにマイクロバスを買うよう主が願っておられる」
「偉大な神の器を送迎するのに、安い車では駄目だと主に叱られてしまった」
そのたびに無茶な献金を強いられました。中には借金までした信徒もいました。
とにかくお金のかかる「神の御心」でした。私たちは什一献金を当然のように捧げていましたが、トータルでは什二とか什三とか捧げていたと思います。
でもその「神の御心」に、誰が疑いを向けられるでしょう。「本当ですか?」なんて尋ねれば、牧師室に呼び出されることになります。
それに古参の信徒の中にも、「牧師先生が一番神様の声に敏感なのだ」みたいな擁護をする人が何人かいました。だから「牧師先生の言葉は神の言葉だ」みたいな共通認識が教会全体に出来上がっていくのでした。その中で疑いを口にすれば、「不信仰だ」とか、「疑う者は祝福を受けられない」とか、まあ散々に言われてしまうわけです。酷いと「悪魔の手先」扱いです。
そういう教会のコミュニティで生きようとする限り、「牧師の言葉=神の言葉」を受け入れねばなりません。
でもキリスト教の歴史をみてみますと、いくつかの公会議で正統教義が決められてきた事実があります。三位一体も公会議で認められた概念です。
そういうことを考えますと、神は一方的に何かを押し付けるやり方はしないのではないでしょうか。むしろ人々が集まって、話し合って、ぶつかったり歩み寄ったりしながら、何かを決めていくプロセスを尊重される気がします。その意味では、教会はむしろ議会政治なのではないでしょうか。
神権政治なんて、幻想に過ぎません。神の名を騙る牧師の、独裁政治の方便です。神権政治を主張する牧師がいたら、ぜひこの記事を思い出して下さい。そして私たち信徒が何も知らずに耐えてきた歳月を、考えてみて下さい。どうぞ、同じ被害に遭いませんように。
本文を見て、牧師の独裁で周囲を振り回すそれも台風のごとく。時間、金銭、プライベートもなくなる。牧師も、外見をつくろって、いい人のように見せかける。しかし中身は疑うことだらけだな。
返信削除私たちが知っている民主主義は西欧から始まりました。それも、とりわけ「神の絶対性」を強調するカルヴァン派の流れから始まりました。
返信削除なぜ、「神の絶対性」という「唯一神の独裁」を思わせるようなことが、民主主義を押し進めてきたのでしょう?
これは歴史の逆説ですが、「神だけが絶対」であるがゆえに、全ての人間は罪人で悪を内包しており、不確実で信頼にあたいせず、誰も特権的な立場を与えられてはならない、ということと関係があるのです。
つまり、人間の誰しも有限で変わりやすく、不確実であるがゆえに、永遠で絶対な神の代理を人間に与えることは「偶像崇拝」であると。人間には職能に応じて役割が与えられるが、責任に応じた結果がだせなければ、容赦なく引きずり降ろされるし、降ろされるべきである、と。
サムエル記の「神は、民が王を求めることを好まない」という記述も、人間に対する偶像崇拝の危険性を懸念したものと思われます。どんな有能な王でも、気まぐれな人間である以上、後に暴君に変わるかもしれず、仮に名君で終わったとしても、世襲による次の王も名君になるとはかぎらない。
たいてい誤解されておりますが、キリスト教は性善説をとらず、性悪説をとります。神は人間を善なるものとして創造された。しかし、人間は悪魔の誘惑によって楽園を追われ、悪を行わざるおえず、自分や他者の罪の汚泥のなかでもがきながら、失われた楽園を臨んでユートピアや理想を描き、求めつつ生きる。これがキリスト教における人間観であろうと思われます。
それゆえ、キリスト教に由来する民主主義は、徹底した人間に対する不信に根ざしております。人間の偶像化を避けるため、いつでも権力の座から引きずり降ろすことができるようにしておくこと。これが、私たちが生きている民主主義社会の原風景です。
キリスト教を知らない私たちが民主主義を考える場合、いつも素朴な性善説に立っております。「人間は善なるものであるがゆえに、より多くの人が社会の意思決定に参加すれば、より善なる社会になる」と。
しかし、ドイツの政治学者のカール・シュミットは「民主主義の最終的な帰結は独裁に至る」と言ってヒトラーの政権を擁護しました。「神の絶対性」によって相対化されない「民主的」な自由は、強くてカリスマ性のある指導者の独裁を求める。「神の絶対性」によって相対化されない人間の自由は、常にアイドル(偶像)を求める。事実、ヒトラーの政権に抵抗したのは、キリスト教のなかでもカルヴァン派の流れを汲むグループでした。
現在の国際政治を見ても、政治指導者の偶像化が問題になっております。人が「神の絶対性」を忘れ、自分たちを神の位置に置いたとき、世界は中世に戻ります。
神だけが正しくて、人間は全て間違っている。しかし、正しい神は聖霊によって万人に真理を語らせる。このことが、徹底した人間不信に関わらず、誰も差別せず、全ての人の意見に耳を傾けなければならないという民主的平等の態度を養いました。矛盾しているようですが、そうではありません。民主主義というのは、人間の善性への信頼ではなく、人間に真理を語らせ、善を行わせる神の聖霊への信頼だったのです。