今回は、読者の方からいただいた体験談をお送りします。ブログ「クリスチャン・スイトピーの日記 2」を運営しておられる、スイトピーさんの体験です。
視覚障害を持っておられるスイトピーさんは、カルト化教会でどのような扱いを受けたのでしょうか。障害者であることは、カルト的牧師にとってどのような意味や価値があるのでしょうか。その具体例が盛り込まれた、貴重な体験談になっていると思います。
ではさっそく始めましょう。
(本文はスイトピーさんが書かれた記事を、私フミナルが許可を得て編集したものです。)
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「神の栄光の子供たち?」
スイトピーさんの体験談
私は2000年2月から2006年10月までの約7年間、ある教会に通いました。
私は視覚障害があるのですが、その教会の牧師は当初、私をあたたかく迎え入れてくれました。
「あなたを見ているだけで、神様の愛を感じます」
「障害があっても、困難があっても、主を礼拝しに来られるのは素晴らしいですね」
「あなたが毎週礼拝に来て、神様を賛美している姿が、証になっているんですよ」
また礼拝の最中、牧師はよく私の名前を出しました。
「この子はうちの教会の看板娘です」
「目が見えなくても、神様を信じて、こんなに明るく生きてるんですよ!」
私は初めのうちは嬉しかったのですが、次第に違和感を持つようになりました。今思うと、ラブシャワーだったのかもしれません。
私と同じように教会に来たばかりの人や、障害を持っている人、病気の人も、最初のうちはよく褒められました。特に障害のある私たちは「神の栄光の子供たち」と呼ばれて、何か特別なもののように扱われました。ある伝道集会に視覚障害の知人を何人か誘った時など、牧師は嬉しそうにこう言いました。
「すばらしいですねぇ! 今日は、前の方に神の栄光の子供たちが並んでますね!」
視覚障害者が来ていることを殊更感動的に演出しようとしているのがわかって、私は嫌な気分でした。
そうやって特別扱いされるのに、なぜか人並みの配慮を受けることはできませんでした。
たとえば点字聖書の件です。
私たち視覚障害者が使う点字聖書は、どうしても巻数が多くなります。新約だけで8巻、旧約を入れると30巻以上になります。礼拝中に全部手もとに置いておくわけに行きませんから、会堂内の本棚に置かせてもらい、礼拝前に必要な巻だけ取りに行く、という形にしていました。
でも途中から置き場所がなくなったと言われて、物置にしまわれていました。以降、教会で聖書を読むことができなくなりました。
またあるときは「手話を覚えてもらって、聴覚障害の人と話せるようになってほしい。子供たちの特別賛美の時、手話賛美もしてほしい」と言われました。
でも視覚障害のある私が、聴覚障害のある人と手話で話すのは無理があります。触手話や指点字もありますが、やはり難しいです。だからその要請はお断りしました。すると牧師は私を責めるのでした。
「バリアフリーの教会を作りたいと言ったのは、あなたでしょう?」
たしかにバリアフリーな教会を私は願っていました。でもそれは牧師も同じだと信じていました。どうやら私の勘違いだったようです。
結局それ以上何も言えなくて、私は無理にハイテンションになって、笑顔で手話賛美をしました。
教会は祈祷会や聖書研究会もやっていましたが、終わるのが夜10時過ぎでしたので、私は一人のときは出席しませんでした。不審者が出ることもあり、怖かったからです。
するとある姉妹からこう言われました。
「信仰があったら(一人でも)来れるでしょう?」
そのことを牧師に訴えたら、逆に責められてしまいました。
「彼女は愛を持って言ったんですよ。何でそんな受け取り方をするんですか。私がもしそう言われたら、信仰を持って、頑張って行くようにしますよ」
私の安全など、考慮されないのでした。
どんな危険を冒してもやり抜くのが「信仰」だと、牧師たちは考えているようでした。そういう彼らが実際にどれだけ危険を冒しているのか、わかりませんけれど。
結局私たち障害者は、牧師に利用されていたのでした。
「うちの教会は、障害者や病人を積極的に受け入れています。そして彼らに活躍の場を与えています。愛の教会なのです」
そういうアピールのために、特に私は広告塔として利用されたのでした。考えてみれば沢山の証をし、沢山の奉仕をしました。牧師の言う「神の栄光の子供たち」とは、いったいどういう意味だったのでしょうか。
その教会は2006年の秋、牧師の信徒虐待が表面化し、大勢の脱会者が出ました。私もその時期に脱会して、今に至っています。
私はその教会で褒められたり、雑に扱われたり、「看板娘」と言われたり、証を強要されたり、「神の栄光の子供たち」と言われたり、不信仰だと責められたりしました。でもつらい気持ちを切り捨てて、笑顔を作り続けました。今思うと、そうせざるを得ない状況に(牧師によって)追い込まれていたのだと思います。
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以上になります。
障害者を利用したいわゆる「感動ポルノ」の、非常に露骨なケースではないでしょうか。
「障害者たちの頑張る姿」を使って感動を提供しようとする、『24時間テレビ』みたいな企画がありますが、この教会(牧師)もそれと同じようなものだと思います。障害者を利用し、消費しているのです。
本文中に「うちの教会は、障害者や病人を積極的に受け入れています」という表現がありますが、障害者は「受け入れる」対象ではありません。自然にそこに「いる」だけです。だから「受け入れる」という言い方は、内と外、こっち側とあっち側、みたいな区別(あるいは差別)の表明に他なりません。
そういうことを知らない、学ばない教会が、障害者にとって居心地のいい場所であるはずがないな、と私は思うわけです。
もちろん障害の種類や程度に応じて、様々な対応や配慮が必要になります。一般的な教会にそこまで高度な専門性を求めるべきでもないでしょう。でも最低限の思いやりがあって然るべきですし、そういう隣人愛を実践するのが、教会なのではないでしょうか。
スイトピーさんは教会で沢山辛い思いをされたと思います。10年以上経った今もまだリハビリと回復の途中にあるということは、それだけ傷が深く、カルト化教会の闇が深かったということです。同様の被害がなくなると共に、スイトピーさんがより回復していけるようにと願うばかりです。この体験談がそのお役に立てれば、幸いです。
体験談をお寄せ下さったスイトピーさん、ありがとうございました。
※スイトピーさんはカルト化教会脱会後のご自身のリハビリと回復の過程を、ブログ「クリスチャン・スイトピーの日記 2」に綴っておられます。こちらも併せてご覧いただけたらと思います。
※当ブログでは、皆さんからの体験談を随時募集しています。投稿をお考えの方はお気軽にメール下さい。
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