教会に捧げる「献金」はどう考えるべきですか?

2018年9月30日日曜日

教会生活あれこれ

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 教会に通っていて避けられないことの一つに「献金」があります。

 毎週の礼拝で献金(席上献金)するほか、(教会によって)什一献金があったり、夏季献金や冬季献金(いわゆるボーナス目当てのやつ)があったり、会堂設立(維持)献金や宣教献金があったり、クリスマス献金やイースター献金があったり、その他いろいろあったりします。
 皆さんそういうのを真面目に払っているのでしょうか。

 教会で頑張っていた頃の私は、自慢じゃありませんが真面目に払っていましたよ。席上献金や什一献金はもちろん、臨時収入があればそれを丸ごと捧げたりしていました。「天に宝を積む」感覚でしたね。天国に献金残高が記されているならば、(10年以上で)何百万とかになっていると思います。でも当時は全然惜しいと思いませんでした(惜しみながら捧げても意味がない、と教えられていたのもあります)。

 しかしその教会はカルト化してしまい、なんだかんだ問題を起こして、解散して、なくなってしまいました。じゃあ私が捧げた献金は無駄だったのか? 現実的なところで言えば、無駄だったのでしょうね。信仰的なところで言えば、「あなたの捧げた心は無駄ではありませんでした」とかいう意見もありそうですが。

 でも有益だったのか無益だったかどうか、実のところよくわかりません。
 教会の「献金」について、私たちはどう考えるべきでしょうか。

 たとえばですが、私が教会に通っていなかったら、その何百万はどうなっていたでしょう。
 日曜は暇だったでしょうから、出掛けたりなんだりで、結局お金を使っていたのではないでしょうか。それに若かったですから、いろいろ無駄使いしたかもしれません。
 そう考えると、何百万というのはさほど大きな損失でないかもしれません。教会という「消費対象」がなく、完全に自分の自由にしていたならば、10年以上で何百万というのは、むしろ少ないくらいかもしれません。

「教会は献金献金うるさいから嫌だな」と思っておられる方がいらっしゃるでしょうか。そういう方は、ちょっとこう考えてみて下さい。

 教会を、有料の会員制クラブか何かだと考えてみます。あなたはお金を払ってそこに参加し、いろいろ活動して、余暇を消費します。そこで仲間ができれば、有形無形の援助も受けられるでしょう。何かのコネができるかもしれません。お得な情報を継続的に入手できるかもしれません。それらのメリットと、出費のデメリットを総合的に、冷静に検討してみます。結果メリットの方が大きければ、参加する意義がある、ということになります。

「いやいや献金は信仰の表れだよ。損得で考えるもんじゃない」
 と考える方は、それはそれでいいと思いますよ。心のままに捧げて下さい。

 ただ一つ、しっかり検討していただきたいのは、その教会(あるいはその牧師)に、本当に献金を捧げる価値があるのかどうか、という点です。おかしな教会じゃありませんか。献金を無駄に使う牧師じゃありませんか。教会会計はしっかりしていますか。表面的に見えなくても、なにか怪しい点がありませんか。

 知り合いの教会の牧師は、車を毎年買い換えているそうです。もちろん献金でです。なんでも「客人を送迎するのにオンボロの車では失礼になるから」だとか。でも今の車は1年くらいじゃオンボロになりませんよね。ただの見栄じゃないかと私は思いますが。

 もう一つ注意すべきは、「捧げすぎ」です。
 ちゃんと貯金できていますか。子供の教育費とか、老後の備えとか、生きていればいろいろ必要になります。そういう必要を削って教会に捧げすぎて、「天に宝を積んでるんだ」とか思っていても、将来困るのは自分です。そうならないようにしましょう。

 こういう話をすると、「富に仕えるべきじゃない」みたいなトンチンカンなことを言う人がいます。私が言っているのは「お金をちゃんと管理すべき」ということなんですけどね。まあそう言う人たちが将来困っても、私には関係ないのですが(笑)。

 というのが、教会と「献金」に関する私のざっくりした考え方です。
 クリスチャンの皆さん、どうお考えでしょうか。

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