教会に通っていて避けられないことの一つに「献金」があります。
毎週の礼拝で献金(席上献金)するほか、(教会によって)什一献金があったり、夏季献金や冬季献金(いわゆるボーナス目当てのやつ)があったり、会堂設立(維持)献金や宣教献金があったり、クリスマス献金やイースター献金があったり、その他いろいろあったりします。
皆さんそういうのを真面目に払っているのでしょうか。
教会で頑張っていた頃の私は、自慢じゃありませんが真面目に払っていましたよ。席上献金や什一献金はもちろん、臨時収入があればそれを丸ごと捧げたりしていました。「天に宝を積む」感覚でしたね。天国に献金残高が記されているならば、(10年以上で)何百万とかになっていると思います。でも当時は全然惜しいと思いませんでした(惜しみながら捧げても意味がない、と教えられていたのもあります)。
しかしその教会はカルト化してしまい、なんだかんだ問題を起こして、解散して、なくなってしまいました。じゃあ私が捧げた献金は無駄だったのか? 現実的なところで言えば、無駄だったのでしょうね。信仰的なところで言えば、「あなたの捧げた心は無駄ではありませんでした」とかいう意見もありそうですが。
でも有益だったのか無益だったかどうか、実のところよくわかりません。
教会の「献金」について、私たちはどう考えるべきでしょうか。
たとえばですが、私が教会に通っていなかったら、その何百万はどうなっていたでしょう。
日曜は暇だったでしょうから、出掛けたりなんだりで、結局お金を使っていたのではないでしょうか。それに若かったですから、いろいろ無駄使いしたかもしれません。
そう考えると、何百万というのはさほど大きな損失でないかもしれません。教会という「消費対象」がなく、完全に自分の自由にしていたならば、10年以上で何百万というのは、むしろ少ないくらいかもしれません。
「教会は献金献金うるさいから嫌だな」と思っておられる方がいらっしゃるでしょうか。そういう方は、ちょっとこう考えてみて下さい。
教会を、有料の会員制クラブか何かだと考えてみます。あなたはお金を払ってそこに参加し、いろいろ活動して、余暇を消費します。そこで仲間ができれば、有形無形の援助も受けられるでしょう。何かのコネができるかもしれません。お得な情報を継続的に入手できるかもしれません。それらのメリットと、出費のデメリットを総合的に、冷静に検討してみます。結果メリットの方が大きければ、参加する意義がある、ということになります。
「いやいや献金は信仰の表れだよ。損得で考えるもんじゃない」
と考える方は、それはそれでいいと思いますよ。心のままに捧げて下さい。
ただ一つ、しっかり検討していただきたいのは、その教会(あるいはその牧師)に、本当に献金を捧げる価値があるのかどうか、という点です。おかしな教会じゃありませんか。献金を無駄に使う牧師じゃありませんか。教会会計はしっかりしていますか。表面的に見えなくても、なにか怪しい点がありませんか。
知り合いの教会の牧師は、車を毎年買い換えているそうです。もちろん献金でです。なんでも「客人を送迎するのにオンボロの車では失礼になるから」だとか。でも今の車は1年くらいじゃオンボロになりませんよね。ただの見栄じゃないかと私は思いますが。
もう一つ注意すべきは、「捧げすぎ」です。
ちゃんと貯金できていますか。子供の教育費とか、老後の備えとか、生きていればいろいろ必要になります。そういう必要を削って教会に捧げすぎて、「天に宝を積んでるんだ」とか思っていても、将来困るのは自分です。そうならないようにしましょう。
こういう話をすると、「富に仕えるべきじゃない」みたいなトンチンカンなことを言う人がいます。私が言っているのは「お金をちゃんと管理すべき」ということなんですけどね。まあそう言う人たちが将来困っても、私には関係ないのですが(笑)。
というのが、教会と「献金」に関する私のざっくりした考え方です。
クリスチャンの皆さん、どうお考えでしょうか。
私が所属しているカトリック教会は、毎月の献金(家族単位)ミサ時の献金、あとクリスマス献金などいろいろありますね。毎年1回の信徒総会に会計報告がされます。会計監査も地区からあります。不正はありませんが、問題はあります。毎年総会時に問題を指摘し地区にも対応するようにいいますがなかなか改善されませんね。
返信削除何が問題かといえば、すべてがどんぶり勘定で、複式簿記の観点がないこと、資産管理、資産維持の認識がないことにつきますね。教会所有の会堂、司祭館、車などの減価償却の観点すらなく、積立金として集めている献金を平気で流用し、会堂の補修が必要になったら、そのときに献金を信徒に要請すると無責任ですね。会計担当、役員等に問題を指摘すると、これまでそのようにやってきたから問題がないといいますね。最も地区から問題性を指摘された場合は改善がされますが。
困ったものですね。献金額はすべて任意ですが、困ったものですね。
「これまでもそうだったから」で変化を嫌うのは、教会に限らず組織の常みたいなものですね。それにしても複式簿記や減価償却といった観点は、カトリック教会みたいな規模の組織では必須うというか、当たり前に行われているのだろうと思っていましたが、そうでもないのですね。献金で信徒を縛らない姿勢はたいへん評価できるのですが。
削除例の高校生伝道団体で言われたことですが、
返信削除「みんな自分のためには平気で5千円とか1万円とかの洋服を買うのに、神様への献金は?」
あえて問いかけの形式にしてました。
教会総会で
「若い人が献金してない!」
若者が少ない教会で、かつ私は当時病でほとんど働けない状態でした。
名指しされてる気分で嫌でしたね。
高校生のころなんて、一番遊びたい年頃で、その年頃にアルバイトして5千円、1万円稼ぐのも本当に大変なのに、自分のために使って何が悪いんでしょうか。
月例献金なんて、学生のうちは必要ないと思います。
たまにクリスチャンホームで、子供にはお小遣いからきちんと1/10献金させます!という方を見ますが、それは聖書の言う報酬ではないでしょう。。と思ってます。
そうやって良い子でいれば親から愛されると思った子供は自発的に献金をするのでしょう。
しかしそれは果たして本当に自発的と言えるのでしょうか。
少なくとも私の信じた主は、病で臥せってる人間から500円でも1000円でもむしりとってゆくような方ではないと思っています。
そういう質問形式で子供たちに罪責感を負わせるのは、えぐいやり方ですね。いかにも某団体がやりそうなことですが。
削除もちろん教会を運営するにはお金がかかりますし、運営側はいろいろ苦労があるでしょう。かと言って献金額の多い少ないで信徒を(特に子供を)責めるのはいただけませんね。
WWJD(イエス様ならどうするか?)を提唱するならば、まず自分たちのそういう姿勢について、WWJDを適用すべきでないかと私は思います。
あるキリスト教を批判している元クリスチャンのブログを見つけたのだけど、こんな事を言っていました。
返信削除「礼拝中に献金箱が回ってくるけど、アレは暗に献金を強制している。いくら任意だと言っていたって人目を気にせざるを得ない。神社のように賽銭箱に好きな時に好きなだけ入れるなら理解できるのに。」
なるほどな〜と思いました。未信者とか来ても気まずそうだしね。
でも、私のいた教会は「献金は礼拝において信仰と献身をあらわすものだ。賽銭や募金、寄付など世俗的なものとは違う。」と言っていたのでそれ(賽銭箱方式)ではダメ?なんだろうな。
少ない中から全財産を献金した女性の話の聖書箇所とか言われると、真面目な人は「捧げすぎ」って概念は無くなる可能性もある。
たしかに献金袋(箱)が回ってくると、「捧げる / 捧げない」の選択を迫られますよね。その意味で選択を強要していると思います。本当に「自由献金」であるならば、賽銭箱形式にすべきだと思います。片栗粉さんのコメントで気づきました。ありがとうございます!
削除余談ですが、例えばルカ12:33で「天に宝を積め」と翻訳されている箇所ですが、原語から直訳すると「天に積め」とは書いていないんですよね。むしろ、「古びない、尽きない富を、天に持て」、見たいな感じですね。
返信削除そのような富は天から地へ、神から人へと与えられる、神の恵みの祝福の事であって、地から天へと捧げられる奉納物ではない訳です。
天から恵みを与えられた者が、その天からの恵みを地上でそれを必要としている人たちと分かち合うことを言っている訳で、要するに、神が人を恵んで憐れまれるように、人が人に憐れみと恵みをほどこすことが、神の前に心から富むことであると、そういう教えなのだと・・・。
・・・それが、いつの間にか、「人間が献金をして天に宝を積もう!神はそれをお喜びになる!」みたいな解釈になる辺り、教会の組織の中に律法主義が深く根付いてしまっていることを思います。銭を天に投げても、地に落ちて帰って来るだけなのに、それをすることで神が喜んでいると思っているというのは、信仰深さというより、むしろ無知で滑稽だとさえ思えてきます。
現在のいろいろな種類の献金は、要は教会という組織を維持するための方便に過ぎないのではないかな、と私は思います。
削除もちろん献金そのものは、神への捧げ物という考え方で良いと思います。でも「捧げないと◯◯になる」「捧げれば祝福される」みたいな脅迫になっているのが現状だと思います。おっしゃる通り、信仰深さとは関係ありませんね。
献金はあくまで「教会維持費」で、それ以上のものではありません。新興宗教系プロテスタントは韓国の影響を受けているせいか、「献金額=信仰心」となる傾向があります。
返信削除もっともこれはプロテスタントだけではなく、新興宗教系の団体はどこも同じです。創価学会はいうにおよばず、天理教でも表棟梁のセリフは「お尽くし(献金をお供えとかお尽くしという)は命のつなぎ」です。これは要するに「献金しないと死ぬぞ」という脅迫でしかありません。
これなら真如苑開祖伊藤真乗のほうがまだ好感がもてます。
「貧乏人は創価学会へいけ!
中流は立正佼成会!
金持ちだけが真如苑に来ればいいんだ!!!」
伊藤開祖のほうが本音を率直に言ってくれるので、かえって被害を出しにくいといえます。
他宗教の話は今後ご遠慮いただければと思います。よろしくお願い致します。
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