昨日は某プロテスタント教会の礼拝に参加させていただきました。
感想はいろいろありますが、一つ挙げるとすると、若い人が少なかったことです。8割くらいが高齢な方々で、2割近くが成人の方々、残りの1割未満が若い人、といった感じでしょうか。割とコンテンポラリーな曲が歌われていましたが、明らかに聖歌の方が盛り上がっていました。
その光景はなんとなく、今後の日本社会を示唆しているようでした。映画『トゥモローワールド』の世界というか。
その意味で、若い人は「希望」なんだなあと思いました。あ、成人以降の方はやっかまないで下さいね。私ももちろん成人以降ですから(笑)。
そういう若い人が少ない教会はさほど問題にならないかもしれませんが、教会の若者たちの恋愛、というのは割と扱いの難しいものです。特に私が通っていた教会は若者だらけでしたから、すごくリアルな問題でした。気づくとこっちで、いつの間にかあっちで、恋愛沙汰が起きているといった具合です。そのたびに当該の若者たちが牧師に呼び出され、いろいろ処分されるわけです。もちろんバレないケースだってあったでしょうが。
皆さんの教会は、いかがでしょうか。
たぶんカトリックでは、そういうことはあまり問題にならないと思います。カトリックでは恋愛沙汰が起こらない、という意味ではありませんよ。起こっても教会の大問題として扱われることはない、という意味です。その点プロテスタントは、個人の問題に介入し過ぎる傾向があると思います。良く言えばそれだけ「愛深い」のかもしれませんが。私は「余計なお世話」としか思いませんけれど。
私の教会のいわゆる「若者の恋愛対策」の一つは、「忙しくさせること」でした。
奉仕を沢山させて、イベントを沢山企画して、若者たちを「教会漬け」にするわけです。すると連日遅くまで教会の皆と過ごすことになりますから、恋愛機会は自然と減ります。デートしたくても、物理的にできません。
実際にはそれでも恋愛沙汰がありましたから、何にでも抜け道はある、ということですが。
もう一つの対策は「純潔の誓い」でした。
然るべき時期がくるまで恋愛しません。神様に導かれるまで恋愛しません。交際は結婚が大前提で、神様のゴーサインが出るまでしません。自分たちはそうやって「純潔」を守ります。というような「誓い」を、若者たちにさせるのです。
若者たちは教会の皆の前で、その「誓い」を宣言して、誓約書みたいなものにサインして、牧師の祝福を受けて、さあこれから皆で団結して「純潔ロード」を歩みましょう、ということになります。
ご丁寧に「純潔の指輪」が用意されて、若者たちは結婚するまでそれをはめ続ける、という教会の話も聞いたことがあります。
これは異様な光景でしょうか。あるいは感動の瞬間でしょうか。
いずれにせよ「純潔の誓い」は、いわゆる相互監視社会の到来です。あいつ恋愛してないだろうな、こいつ誰とLINEしてんだ、あの2人は妙な雰囲気じゃないか、みたいな勘ぐりや詮索が始まるからです。「若者+誓い」というシチュエーションの神聖さでカモフラージュされていますが、要はそういうことです。
またもう一つの対策は、若者たちの交際が「牧師の承認制」あるいは「牧師の勧め制」だったことです。
もし交際したい相手ができたら、牧師のところに行って相談しなければなりません。そして許可してもらわないと、交際できません。実際に相談に行く若者がいたかどうかは知りませんが(笑)。
あるいは牧師から「この人がいいんじゃないか」と提案されて、それを受けるかどうかという話になります。もっとも牧師に提案されたことを断ることができるのか、というのが若者にとって切実な問題になりますが。
しかしいずれにせよ、この方法は今の時代では人権侵害ではないかと思います。交際相手や結婚相手を自由に決められないのは、昭和初期頃まででしょう。
若者の恋愛というのはほとんど自然現象みたいなものですから、まわりが止めようと思って止められるものではありません。『ロミオとジュリエット』を見て下さい。強力に反対されればされるほど、命を懸けることになってしまいます。大人にとって愚かなことでも、彼らにとっては死ぬほど価値があるのですから。
もちろん「だから若者たちに正しい教育を施さなければなりません」という話になるのですが、何が「正しい」かは、大人の方もよくよく考える必要があるでしょう。
先日、といっても8月のことですが、某プロテスタント教派でユースキャンプがあったようです。教会の若い子を送り出す大人たちが、「悪い虫がついたらどうしよう」みたいなことを話していましたね。隣で黙って聞いていた私は、その子に幸あれ、と人知れず願っていました(笑)。