どこかの教会に属し、おおむね礼拝を守っていらっしゃる方に、ちょっと質問したいのですが。
あなたがちょうど教会の玄関あたりにいて、近くに誰もいなくて、すぐ呼べる人間もいない時、もしホームレスの方が来られたら、どう対応しますか。汚れた服装の、ガリガリに痩せた、あまり近づきたくない臭いを放つその人が、あなたにこう懇願したらどうしますか。
「どうか千円でいいから、いや五百円でいいから恵んでほしい。それで、今日やっと何か食べることができる」
ただその人の顔は赤く、吐く息に明らかにアルコール臭が混ざっています。目は虚ろで、まだ酔っているのがわかります。あなたが善意でお金を渡しても、この人はきっと、アルコールを買えるだけ買ってしまうでしょう。
さて、あなたならどうしますか。
以前の私なら、間違ってもお金はあげません。
「お金をあげたらどうせ酒を買うんでしょう。意味がないから、酔いを覚まして出直してきなさい」
みたいなことを言って、冷たく追い払うと思います。それが結局は本人のためになるのだ、と信じて。
私の牧師も、それと同じ考え方をする人でした。お金をあげるくらいなら、アルコール依存症の治療ができる専門医を紹介する方がずっとマシだ、みたいに言うでしょう。その方が合理的だし、有効だし、お金を無駄にしないで済む、と。
しかし今の私は、それとは違う対応をすると思います。断言できませんが、お金をあげる方向で考えるでしょう。そのお金でお酒を買われたとしても、それは相手の問題であり選択だからです。相手の行動を決めたり制限したりする権利は、私にはないでしょう。
『レ・ミゼラブル』のミリエル神父を私は見習いたいです。銀の食器を盗んだジャン・ヴァルジャンを許しただけでなく、銀の燭台まで差し出した人です。神父はこう考えたでしょうか。
「こいつは銀の食器や燭台を売って、どうせロクでもないことに金を費やすのだろう。無駄だ無駄だ。何もやらずに追い出した方が、こいつのためだ」
本当にそう考えたのなら、『レ・ミゼラブル』は序盤で早々に終わっていたと思いますね。
知り合いの教会は、上野公園で毎週1回、ホームレスの方々に炊き出しをしています。集まった人たちに短く賛美を聞かせ、メッセージを聞かせたら、あたたかいカレーライスやうどんなどを提供するのです。完全に無償です。彼らはこう考えるでしょうか。
「こんな奴らに食べ物を与えたって、甘やかすだけだ。それより世の中の厳しさを教えてやった方が、こいつらのためだ」
そういうのは全部、強者の理論です。今の私はそう思います。
「◯◯なんて無駄だ」「◯◯したって意味がない」「◯◯なんて何の生産性もない」というのは、いかにも資本主義的な合理性です。それが悪いとは言いませんよ。でもそれが全てになってしまうと、世の中ずいぶん窮屈だと思います。「生産性がある/ない」で全てが分けられ、後者は切り捨てられてしまうからです。
以前、某議員が「LGBTは生産性がない」なんて暴言を吐きましたね。自分が「生産性のない側」に回った時、潔く自決してくれるのでしょうか。だいいち生産性の有無なんて、いったい誰が決めるのでしょう。よくわかりません。
今年も「24時間テレビ」は障害者を使って「感動ドラマ」を展開したようですが、そこにはどんなメッセージが込められているでしょう。ハンデを乗り越えて、一生懸命に感動を提供してくれる障害者以外は必要ないよ、というメッセージではないでしょうか。つまり、感動を生産できない障害者は不要だ、ということです。他のメッセージがあるなら拝聴させて下さい。
それはさておき、これは単に私個人の理想かもしれませんが、キリスト教会は、社会的弱者に優しいところであってほしいです。困っている人に無条件に手を差し伸べるところであってほしいです。無駄かどうかとか、生産性があるかないかとか、そんなこと関係なしに、動くところであってほしいです。
それが聖書に書かれているイエスの思いではないかな、と私は思います。以前の自分の耳を引っ張って、そう言って聞かせてやりたい(笑)。
さて最初の質問に戻りましょう。
アルコールを飲むだけで何の生産性もなさそうに見えるホームレスの方が、教会の入り口でささやかな助けを求めてきたら、あなたならどうしますか。
あ、べつに正解とかありませんよ(笑)。
成果主義、生産主義による分配か、必要主義による分配か、どちらの主義に立つかの問題ですね。典型例は「ぶどう園の労働者」の譬えのように、1日働いた労働者と1時間働いた労働者と同じ賃金を与えるかということですね。
返信削除成果分配ならノーで、必要分配ならイエスですね。イエスの教えは必要分配です。
教会の前にいる乞食から金をくれと言われたら与えますね。我も我も来られたら逃げますね。昔、インド旅行をした際に、乞食から金をくれと言われたましたが、場所と状況、相手の人数等などを考えて渡す、渡さないを判断するのに苦労した思い出があります。
たしかに、相手が1人の場合と2人以上の場合で話は変わるでしょうね。できることに限度がありますから。「良きサマリヤ人」も、暴漢に襲われて倒れていたのが1人でなく10人だったら、あそこまで手厚いことはできなかったでしょう。必要分配のほかに、需要と供給のバランスも大いに関係あると思いますね。
削除おおむね礼拝を守っているものです。
返信削除おそらく私ならお金を渡す方向で考えます。渡す渡さないの2択なら。
酒臭いとかは飲んでいるとかあまり気にしないかな。
お金を渡しても飲まれてしまうかもということがどうしても気になるなら、弁当でも
買って渡すかな。
状況が許せば、中に入ってもらい、話を聞きたいところですが。
それは周りの教会のメンバーがどう考えるか次第かな。
私はきっとそう考えますが、
これが一般的なクリスチャンの反応のように勝手に思っています。
が、もしかして私だけずれていますかね?
ありがとうございます。
削除私の知り合いのクリスチャンにも、そういう親切な方が多いです。おそらくホームレスの方が来られたら、皆なんらかの手助けをしようとすると思います。
ただ最近は、かつての私のような合理性・経済性でものを考える人も少なくないようです。クリスチャンであっても。
街中を歩いている最中に声をかけられれたので、ご質問のように玄関先でどうのという事ではありませんが、私の場合、ホームレスの人に助けを求められたとき、一緒にスーパーに行き必要なもの(食べ物とか衣服とか新しい靴とか)をかごに入れてもらい、私がお金を払い、彼に物品をすべて渡しました。
返信削除丁度、その時はクリスマスの季節で、寒い冬の最中だったので、ふろにも入りたいだろう、夜に凍え無くても良いように、などと考え、ビジネスホテルの一室を3泊程度できるように手配し、宿泊料を支払い、当座の食費のためにいくらかの現金を渡しました。そのホテルで彼と再会した時、明らかにお酒の匂いがしました。その時は残念でした。
その後、彼が実家に帰りたいというので高速バスのチケットを買ってあげ、バス停で別れましたが、その数時間後、バスの乗車券を売ってしまい、このままでは帰れないので、迎えに来て欲しいとの電話がありました。
その時点で、私としては、申し訳ないが、あとは自分で何とかしてくださいと言って電話を切り、それ以来彼とは会っていません。全部で5万円位の出費でした。
ホームレスを助けることは、その場でその人の金銭的・物理的必要を満たすことでは、有意義な結果は実現しないという事を痛感させられた結果となりました。そもそも、助ける側が有意義だと思う結果を、ホームレスの側は実は最初から望んでいなかった、というのが、私の体験です。教会ぐるみで二年間くらい助け続けたホームレスの人が、最後は、「お前らなんか偽善者だ」と一方的に言われて絶交された、なんてこともありました。
ホームレスの人も、自分の状況の根本的な変革を望むのであれば、専門的知識と組織だった援助が出来る人に助けを求めないと、助ける側、助けられる側、双方が傷ついてしまう結果になりかねない、というのが私の感想であり、体験談です。
今後ホームレスの人に助けを求められる事があれば、少なくとも、自分一人の力(或いは一教会の善意)などで助けてあげられる、なんていう思い上がりだけは避けようとと思います。
ありがとうございます。
削除まさに「良きサマリヤ人」を実践されたのですね。立派な行いだと思います。それだけに、そのような結果になってしまったことが残念でなりません。でも同時に、それが現実でもあると思います。生易しいことではありませんよね。
おっしゃる通り、援助者側の価値観が、必ずしも被援助者側のニーズと合致するとは限りません。時として一方的な「押し付け」になってしまうことがあるかもしれません。何が大切なのか、何が本当に有効なのか、一概には言えないでしょうね。ですからおっしゃる通り、「自分がこの人を助けるんだ」というのは思い上がりに過ぎないと思います。
おそらく一番合理的な解決法は、一時的にお金をあげることでなく、専門機関に繋げていくことでしょうね。ただそれを本人が望んでいないから、そもそもホームレス状態になっているのだとは思いますが。
本当に難しい問題です。
とはいえ、ご質問に直接お答えするのであれば、ご指摘のような状況の場合、私としては、現金を渡すのではなく、そのホームレスの人と一緒に必要なものを買いに行く、という事をすると思います。本当に何かを必要としているのなら、その必要を満たしてあげられますし、お酒目当てで来た人は、「そんならいい」と退散してくれます。
削除本心は助けたくないのに助けるような偽善が良いのか、本心は助けたいのに助けない偽悪が良いのかという問題でもありますね。
返信削除助けたいから助ける、助けたくないから助けないというのが、偽善、偽悪出ない方が良いのかというのも問題ですね。
どういう行為をしているかは他人からは分かりますが、どういう思いでやっているかは本人でなければ分かりませんね。
キリスト教でいう、信仰か行為か、信仰義認論にかかわってきますね。