クリスチャンは生産性のあることしかしないのですか?

2018年8月31日金曜日

教会生活あれこれ

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 どこかの教会に属し、おおむね礼拝を守っていらっしゃる方に、ちょっと質問したいのですが。

 あなたがちょうど教会の玄関あたりにいて、近くに誰もいなくて、すぐ呼べる人間もいない時、もしホームレスの方が来られたら、どう対応しますか。汚れた服装の、ガリガリに痩せた、あまり近づきたくない臭いを放つその人が、あなたにこう懇願したらどうしますか。
「どうか千円でいいから、いや五百円でいいから恵んでほしい。それで、今日やっと何か食べることができる」
 ただその人の顔は赤く、吐く息に明らかにアルコール臭が混ざっています。目は虚ろで、まだ酔っているのがわかります。あなたが善意でお金を渡しても、この人はきっと、アルコールを買えるだけ買ってしまうでしょう。
 さて、あなたならどうしますか。

 以前の私なら、間違ってもお金はあげません。
「お金をあげたらどうせ酒を買うんでしょう。意味がないから、酔いを覚まして出直してきなさい」
 みたいなことを言って、冷たく追い払うと思います。それが結局は本人のためになるのだ、と信じて。
 私の牧師も、それと同じ考え方をする人でした。お金をあげるくらいなら、アルコール依存症の治療ができる専門医を紹介する方がずっとマシだ、みたいに言うでしょう。その方が合理的だし、有効だし、お金を無駄にしないで済む、と。

 しかし今の私は、それとは違う対応をすると思います。断言できませんが、お金をあげる方向で考えるでしょう。そのお金でお酒を買われたとしても、それは相手の問題であり選択だからです。相手の行動を決めたり制限したりする権利は、私にはないでしょう。

『レ・ミゼラブル』のミリエル神父を私は見習いたいです。銀の食器を盗んだジャン・ヴァルジャンを許しただけでなく、銀の燭台まで差し出した人です。神父はこう考えたでしょうか。
「こいつは銀の食器や燭台を売って、どうせロクでもないことに金を費やすのだろう。無駄だ無駄だ。何もやらずに追い出した方が、こいつのためだ」
 本当にそう考えたのなら、『レ・ミゼラブル』は序盤で早々に終わっていたと思いますね。

 知り合いの教会は、上野公園で毎週1回、ホームレスの方々に炊き出しをしています。集まった人たちに短く賛美を聞かせ、メッセージを聞かせたら、あたたかいカレーライスやうどんなどを提供するのです。完全に無償です。彼らはこう考えるでしょうか。
「こんな奴らに食べ物を与えたって、甘やかすだけだ。それより世の中の厳しさを教えてやった方が、こいつらのためだ」

 そういうのは全部、強者の理論です。今の私はそう思います。

「◯◯なんて無駄だ」「◯◯したって意味がない」「◯◯なんて何の生産性もない」というのは、いかにも資本主義的な合理性です。それが悪いとは言いませんよ。でもそれが全てになってしまうと、世の中ずいぶん窮屈だと思います。「生産性がある/ない」で全てが分けられ、後者は切り捨てられてしまうからです。

 以前、某議員が「LGBTは生産性がない」なんて暴言を吐きましたね。自分が「生産性のない側」に回った時、潔く自決してくれるのでしょうか。だいいち生産性の有無なんて、いったい誰が決めるのでしょう。よくわかりません。

 今年も「24時間テレビ」は障害者を使って「感動ドラマ」を展開したようですが、そこにはどんなメッセージが込められているでしょう。ハンデを乗り越えて、一生懸命に感動を提供してくれる障害者以外は必要ないよ、というメッセージではないでしょうか。つまり、感動を生産できない障害者は不要だ、ということです。他のメッセージがあるなら拝聴させて下さい。

 それはさておき、これは単に私個人の理想かもしれませんが、キリスト教会は、社会的弱者に優しいところであってほしいです。困っている人に無条件に手を差し伸べるところであってほしいです。無駄かどうかとか、生産性があるかないかとか、そんなこと関係なしに、動くところであってほしいです。

それが聖書に書かれているイエスの思いではないかな、と私は思います。以前の自分の耳を引っ張って、そう言って聞かせてやりたい(笑)。

 さて最初の質問に戻りましょう。
 アルコールを飲むだけで何の生産性もなさそうに見えるホームレスの方が、教会の入り口でささやかな助けを求めてきたら、あなたならどうしますか。

 あ、べつに正解とかありませんよ(笑)。

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