クリスチャンは神様に委ねればハッピーになれるんですか?

2018年8月23日木曜日

教会生活あれこれ

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「神に委ねる」というクリスチャン的ワードがあります。「神に委ねて生きる」とか、「◯◯の問題を神に委ねる」とか、「試験の結果を神に委ねる」とか、クリスチャン生活のいろいろな場面で使われています。もちろん教団教派によって違いがあるでしょうが。

 皆さんは現在、神に何か委ねているでしょうか? 単に言葉だけでなく、リアルな心情として、何かを神に「委ねている」でしょうか?

 私自身は、正直なところで言えば、委ねることはしていません。
 神を信頼していないわけではありませんよ。そうでなく、どこか無責任なことに思えるからです。

 たとえばなんですが、誰かが難しい問題を抱えているとします。
 何でもいいんですが、そうですね、緊張するとシャックリが止まらなくなる牧師、がいるとしましょう。
 礼拝説教の時間になると、彼は必ずシャックリを連発してしまって、5分くらい話せません。だから信徒らは説教のたびにたっぷり5分間、牧師のシャックリを聞かされることになります。それも毎週(笑)。

 でも牧師本人にとって、これは笑い事ではありません。真剣に悩み、祈り、リラックスする手法をいろいろ試して、でも結局うまく行かなくて、ほとんど毎週シャックリ地獄に陥ってしまいます。だんだん鬱っぽくなってきました。

 で、牧師は祈ります。神様、どうかこのシャックリ病を退けて下さい、と。
 それをSNSにも書いてみました。するとこんなリプライがありました。

「神様に委ねて下さい! すべてのものが与えられますから!」

 皆さんだったら、こんなふうに言われたらどう思われますか。ちなみに私はとんでもなくモヤモヤします。だって、真剣に悩んでいる人に「委ねれば解決します」なんて、無責任にも程があるからです。

 だいいち、「神に委ねる」とは具体的に何なのでしょう。真剣な悩み事が目の前に迫っているのに、なかったことにするのですか。神が解決して下さると信じて、思い切って講壇に立てというのですか。それでまたシャックリ地獄だったらどうするのですか。信仰が足りない、とでも言うのですか。あるいは神の解決方法は人間の思惑を越えている、とでも言うのですか。どちらも詭弁にしか聞こえませんが。

「神に委ねる」ことを否定するつもりはありません。でもそんなふうに無責任に「神に委ねなさい」と言い放つべきではない、と思うわけです。それが信仰だ、と言い張るのはべつにいいんです。何を信じるかは人それぞれですから。でもそれを他人に押し付けるべきではありません。

 自分が「これだ」と思うことと、他人に「これだよ」と勧めることは、全然違うのですね。同じキリスト教であっても。

 真剣に悩んでいる人がいるならば、いきなり信仰を持ち出すべきでありません。まずは話を聞いて、何であれ受け入れるべきです。そうでないと何も始まりません。
 それはごく当たり前のことなのですが、とかく信仰が絡むと、見えにくくなるのかもしれません。だからクリスチャンは聖書の勉強より前に、そういった人間関係の基本を肝に命じておくべきだと私は思います。

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