以前も書きましたが、私は教会で頑張っていた頃、長いこと奏楽奉仕をしていました。
だから初めの頃、「奏楽奉仕者の訓練」みたいなものを受けました。奏楽奉仕者は誘惑を受けやすく、傲慢になりやすいから、ちゃんと訓練しておかなければダメだ、というわけです。
で、はっきり覚えていませんが、何時間かの座学を受けました。
その内容で一つ印象的だったのが、「賛美のいけにえ」という言葉です。ヘブル13章15〜16節からの引用ですね。
要は賛美の歌は「神への捧げ物」であって、自分のためのものではない、ということです。「いけにえ」として捧げるものなのだ、と。
これは、奏楽者の立場だとわかりやすいかもしれません。なぜなら奏楽者は日々(個人的に)練習したり、礼拝前に集まって準備したりと、ある程度のコミットが求められるからです。そういう責任を、「いけにえ」として負っているわけです。
またこれは私の教会だけかもしれませんが、音楽奉仕者はリハーサルで長時間拘束されますし、こっぴどく叱られることもありますから、「いけにえ度」が半端なく高かったです(笑)。理不尽なくらい。
では奏楽奉仕者でない、一般の信徒の立場はどうでしょう。
やはり毎週日曜日に教会に出向き、礼拝に参加して、賛美などするのは「いけにえ」ではないでしょうか。本来なら眠っていられる日曜の朝に、わざわざ教会に行くのですから。
あ、「それが喜びだ」とか「そうしたいんだ」とか言う真面目な人もいるでしょう。「喜んでいけにえを捧げる」という状態ですね。
しかし実際問題として、「賛美」が「いけにえ」なのかどうか怪しいケースもあります。
たとえばこれは以前も書きましたが、賛美が「カラオケ」や「歌謡ショー」みたいになっていることがあります。歌ってストレスを発散するとか、上手に歌って褒められるとか、イベントとしての成功に躍起になるとか、そういう目的がズレたような状態ですね。
もちろんそのあたりの動機の線引きには、難しいものがありますが。
以前「今日はこの教会で思いっきり賛美を捧げるよう導かれて来ました」と言って、たしかに跳んだり跳ねたり叫んだりの大騒ぎをして、スッキリした顔で帰っていった人がいました。私たちの頭の中に、沢山の「?」マークを残して。
またある賛美の後に「人間のものと思えない高音の声が聞こえた」と、何人かが口を揃えて証言したことがありました。天使の声だったのではないか? という話になり、もう一度同じ賛美をしました。録音しながら。
でもその賛美は、天使の声を聞くための「実験」だったのではないでしょうか。「いけにえ」などでなく。
そういうわかりやすいケースでなく、もっと内側の、個人的なものもあるでしょう。
たとえば私のような奏楽奉仕者は、舞台に立って目立つことをしますから、少なからずプライドを持ちやすいです。口では何とでも言えますが、自分自身はそれに気づいています。心の中に何があるのか。
その意味で、「賛美のいけにえ」というのは、教会では頻出ワードの一つだと思いますが、案外難しいものかもしれません。
「いけにえ」とは何でしょう。ただの「行為」でしょうか。それとも「動機」の良し悪しまで含めてジャッジされるものでしょうか。ただの行為であるなら、カラオケや歌謡ショーでも、あるいはとんでもなくグダグダな、声の揃っていない下手な賛美でも、OKでしょう。「やっていさえすればいい」なのですから。
あるいはそこに何らかの「形式」を持ち込むこともあります。
たとえば「聖歌でなければならない」「オルガンでなければならない」「こういう歌い方でなければならない」みたいな制約ですね。さすがにそこまでやる必要はないと思いますが。
その反対に、Hillsongなどの大きな教会が、いわゆるLive Worshipという形で「録音目的の賛美礼拝」あるいは「賛美礼拝の録音」をしますが、これはどこまでが純粋な「いけにえ」で、どこからが「ビジネス」なのでしょう。そのあたりの線引きにも難しいものがあります。
そのあたりの事情は教会によって様々だと思いますが、「賛美のいけにえ」について、時々考えてみるのもいいかもしれません。惰性や習慣でするのでなくて。
賛美のいけにえ、ですね。あんまり聞かない表現ですね。生贄というのは、旧約などを読みますと、許しを請うとき、いろいろ願いを請うとき、ユダヤ神殿に行って、羊などなどを生贄としてささげるというイメージですね。神様に何かお願いするときはタダではありません、金やモノが必要ですよということですね。
返信削除キリスト教会は、罪の許し、いろいろなお願いは、原則タダということになっています。
ミサなどにおけるオルガン演奏は、典礼担当の奉仕活動ですから、神への捧げもの、生贄という捉え方は間違いですね。
奉仕活動は、いえば趣味、道楽、ボランティアですから、気張らずにやるのが一番でしょう。嫌ならやらなければいいんですから。
神父さんの中には、説教をしているけど、言っていることが不勉強、支離滅裂という方もおりまして、こういう典礼を神への捧げもの、生贄だとしたら、神様は本当にかわいそうだと思います。そういう場合は、信徒は寝ていますが。
なるほど、カトリックでは奉仕活動は「いけにえ」とはならないのですね。私が通っていたペンテコステの教会では奉仕活動こそ「いけにえ」だと考えられていました。場所が変わればなんとやら(笑)。
削除ああ、それで思いだしたことがあります。以前見ていたある方のプログで、カトリック**教会第1オルガニストという肩書きで大きな顔写真まで掲載されておられた方がいました。
削除事実なのでしょうし、誇りに思っておられるのだなあ、とある意味感心しておりました。誇りというより、自慢したいのでしょうね。
こういう人はプロテスタント教会にもおられるのでしょうかね。
プロテスタントはうじゃうじゃいると思いますよ(笑)。
削除アメリカのどこそこで学んできた賛美リーダーとか、有名歌手のバックコーラスだったシンガーとか、どこそこの国で教会を20も30も開拓してきた牧師とか、そういう肩書きや功績をアピールするのが好きで好きでたまらないみたいです。