そのクリスチャン的言い回し、なんとかなりませんか

2018年8月16日木曜日

教会生活あれこれ

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 感情的な理由が大きいかもしれませんが、私は「クリスチャン的言い回し」が好きでありません。好きでないから使いません。他人が使っても何も言いませんが、正直モヤモヤします。
 何故でしょう。繰り返しますが、たぶん感情的なものが絡んでいると思います。

 今回はちょっと、このモヤモヤを吐き出させてもらうかと思います。

 ここで私が言う「クリスチャン的言い回し」とは、基本的に「教会用語」と違います。
教会用語とは、「その言葉を使わなければそれ自体を表現できない」言葉です。たとえば「洗礼」とか、「聖餐」とかですね。

 そういう用語は使わないわけに行きません。たとえば「洗礼」は、「洗礼」という言葉を使わなかったら、どうやって表現したらいいでしょう。「ほら、あれだよ。大きな水槽に頭まで浸かって、出てくるやつ。牧師や皆に祈ってもらって、正式な教会員として認められるようになる儀式。どう言ったらいいかな、ほら、英語でバプテスマってやつ。あ、教派のバプテストとは関係ないからね。ん? そんなことわかってるって? だよねー」

 みたいな感じで、面倒くさい説明をしなければなりません。だから「洗礼」は「洗礼」でいいと思います。そういう用語はどんどん使って下さい(笑)。

 私が嫌いなのは、そういう必要な用語類でなく、教会で伝統的に使われている「言い回し」みたいなものです。いろいろな言葉で表現できるけれど、あえてそういう言い回しをする、という類のものです。
 たとえば、どんなものがあるでしょう。
 最近私が見てモヤモヤしたのは、これです。

「良き交わりとなりますように」

 なんで文語体なんですか? あなた普段から文語体で話すんですか?
「今日は良き天候なり」とか?
 なんでそこだけ「良き交わり」になるんでしょう。「良い時間になればいいですね」ではダメなんですか。
 と、若干言い方が悪いかもしれませんが、私はそんなふうに思いました。皆さんはいかがでしょう。こういうの、自然にスルーできますか?

 他にもこんなのがあります。

「恵みが増し加わる」

 何でしょう、この奇抜な言い方。単に「増える」でいいじゃないですか。ちょっと気味が悪いと思うのは、私だけでしょうか。

「祝福が注がれる」

 祝福というのは液体なのですか? だから「注がれる」と? ならコップでも準備しておいた方がいいですね!(皮肉です)(わかるって)

「福音を宣べ伝える」

 これ、文章で書くならいいんですけど、話すときにわざわざ「宣べ伝える」なんて言いますか? 「伝える」って言いませんか?

「感謝します」

 これは微妙なラインですが、正式な挨拶文などで使う言葉です。通常は「ありがとうございます」が自然です。あえてこれを使うのは、「クリスチャンらしさ」を狙っているから?

「アーメン」

 これは私にとって、あくまで祈りの文言です。日常会話の中で使うものではありません。
 時々ツィッターなんかで誰かがいいことを言うと「アーメン♪」とだけリプライする人がいますけど、くすぐったいですね。素直に「いいね」だけすればいいじゃん、と思ってしまいます(すみません、個人的な感想です)。

 また、礼拝のメッセージ中に信徒にアーメンと言わせたがる牧師がいますけど、どれだけ承認欲求が強いのでしょう。牧師がなんか言って皆で「アーメン!」って唱えるやつ、ファシズムみたいで嫌いです。はっきり言いますが。

「ハレルヤ」

 アーメンと同じような意味合いで、これもくすぐったいです(すみません、やっぱり個人的な感想です)。 

☆ ☆ ☆

 こういう言い回しが延々と語り継がれているのは、キリスト教界の旧態依然さと無関係でないと思います。

 たとえば「良き交わり」なんかは、たぶん昔の言い方をそのまま引き継いできたのでしょうね。それが何十年も続き、とっくに古い表現になっているのに、未だに平気で使われているとしたら、それは「伝統」と言うより「怠慢」ではないかと私は思います。

 以前少し話題になりましたが、キリスト教関連の、特に子供向けのグッズが何十年も変わっていない、みたいな話がありました。まったく同感です。「天路歴程」の本とかゲームとか、何十年前からあるのでしょう(今はバイブルハンターとか登場して、状況が変わっているかもしれませんが)。
 そういうところも旧態依然と言わざるを得ません。

 ビジネス系の啓発本みたいなことを言う気はありませんが、どんな業界にもイノベーションが必要だと私は思います。イノベーションとは「変革」みたいな意味ですね。でもべつに、大それた変革を求めているわけではありません。ちょっとした「気遣い」みたいなものがあったらな、と思っているだけです。

 たとえば「良き交わり」なんて言ったら意味が通じないかな、言い換えた方がいいかな、という気遣いです。あるいは「アーメン」なんて言ったら未信者の人が変に思うかな、疎外感を覚えるかな、という気遣いです。あるいは子供向けのグッズが古いな、何か新しい、もっと興味を引くものはないかな、という気遣いです。

「これはこうした方がいいんじゃないかな」という気遣いを皆が少しずつ考えて、それを寛大に受け入れる土壌がありさえすれば、教会は自ずと変わっていくんじゃないかな、と思います。

「言い回し」に対する文句から、随分大きな話題になってしまいました。けれど私が言いたいのは、まあそういうことです。

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