感情的な理由が大きいかもしれませんが、私は「クリスチャン的言い回し」が好きでありません。好きでないから使いません。他人が使っても何も言いませんが、正直モヤモヤします。
何故でしょう。繰り返しますが、たぶん感情的なものが絡んでいると思います。
今回はちょっと、このモヤモヤを吐き出させてもらうかと思います。
ここで私が言う「クリスチャン的言い回し」とは、基本的に「教会用語」と違います。
教会用語とは、「その言葉を使わなければそれ自体を表現できない」言葉です。たとえば「洗礼」とか、「聖餐」とかですね。
そういう用語は使わないわけに行きません。たとえば「洗礼」は、「洗礼」という言葉を使わなかったら、どうやって表現したらいいでしょう。「ほら、あれだよ。大きな水槽に頭まで浸かって、出てくるやつ。牧師や皆に祈ってもらって、正式な教会員として認められるようになる儀式。どう言ったらいいかな、ほら、英語でバプテスマってやつ。あ、教派のバプテストとは関係ないからね。ん? そんなことわかってるって? だよねー」
みたいな感じで、面倒くさい説明をしなければなりません。だから「洗礼」は「洗礼」でいいと思います。そういう用語はどんどん使って下さい(笑)。
私が嫌いなのは、そういう必要な用語類でなく、教会で伝統的に使われている「言い回し」みたいなものです。いろいろな言葉で表現できるけれど、あえてそういう言い回しをする、という類のものです。
たとえば、どんなものがあるでしょう。
最近私が見てモヤモヤしたのは、これです。
「良き交わりとなりますように」
なんで文語体なんですか? あなた普段から文語体で話すんですか?
「今日は良き天候なり」とか?
なんでそこだけ「良き交わり」になるんでしょう。「良い時間になればいいですね」ではダメなんですか。
と、若干言い方が悪いかもしれませんが、私はそんなふうに思いました。皆さんはいかがでしょう。こういうの、自然にスルーできますか?
他にもこんなのがあります。
「恵みが増し加わる」
何でしょう、この奇抜な言い方。単に「増える」でいいじゃないですか。ちょっと気味が悪いと思うのは、私だけでしょうか。
「祝福が注がれる」
祝福というのは液体なのですか? だから「注がれる」と? ならコップでも準備しておいた方がいいですね!(皮肉です)(わかるって)
「福音を宣べ伝える」
これ、文章で書くならいいんですけど、話すときにわざわざ「宣べ伝える」なんて言いますか? 「伝える」って言いませんか?
「感謝します」
これは微妙なラインですが、正式な挨拶文などで使う言葉です。通常は「ありがとうございます」が自然です。あえてこれを使うのは、「クリスチャンらしさ」を狙っているから?
「アーメン」
これは私にとって、あくまで祈りの文言です。日常会話の中で使うものではありません。
時々ツィッターなんかで誰かがいいことを言うと「アーメン♪」とだけリプライする人がいますけど、くすぐったいですね。素直に「いいね」だけすればいいじゃん、と思ってしまいます(すみません、個人的な感想です)。
また、礼拝のメッセージ中に信徒にアーメンと言わせたがる牧師がいますけど、どれだけ承認欲求が強いのでしょう。牧師がなんか言って皆で「アーメン!」って唱えるやつ、ファシズムみたいで嫌いです。はっきり言いますが。
「ハレルヤ」
アーメンと同じような意味合いで、これもくすぐったいです(すみません、やっぱり個人的な感想です)。
☆ ☆ ☆
こういう言い回しが延々と語り継がれているのは、キリスト教界の旧態依然さと無関係でないと思います。
たとえば「良き交わり」なんかは、たぶん昔の言い方をそのまま引き継いできたのでしょうね。それが何十年も続き、とっくに古い表現になっているのに、未だに平気で使われているとしたら、それは「伝統」と言うより「怠慢」ではないかと私は思います。
以前少し話題になりましたが、キリスト教関連の、特に子供向けのグッズが何十年も変わっていない、みたいな話がありました。まったく同感です。「天路歴程」の本とかゲームとか、何十年前からあるのでしょう(今はバイブルハンターとか登場して、状況が変わっているかもしれませんが)。
そういうところも旧態依然と言わざるを得ません。
ビジネス系の啓発本みたいなことを言う気はありませんが、どんな業界にもイノベーションが必要だと私は思います。イノベーションとは「変革」みたいな意味ですね。でもべつに、大それた変革を求めているわけではありません。ちょっとした「気遣い」みたいなものがあったらな、と思っているだけです。
たとえば「良き交わり」なんて言ったら意味が通じないかな、言い換えた方がいいかな、という気遣いです。あるいは「アーメン」なんて言ったら未信者の人が変に思うかな、疎外感を覚えるかな、という気遣いです。あるいは子供向けのグッズが古いな、何か新しい、もっと興味を引くものはないかな、という気遣いです。
「これはこうした方がいいんじゃないかな」という気遣いを皆が少しずつ考えて、それを寛大に受け入れる土壌がありさえすれば、教会は自ずと変わっていくんじゃないかな、と思います。
「言い回し」に対する文句から、随分大きな話題になってしまいました。けれど私が言いたいのは、まあそういうことです。
いつも楽しく拝見しております。
返信削除キリスト教の聖書や証しで、私が気になる言い回しです。
「主にあって」「覚えて」「恵みです」「感謝です」「重荷がある」。普通にはあまり使わないですよね。
あと、「主の臨在」「聖霊充満」なども。
いつも読んでいただいてありがとうございます。
削除おっしゃる通りですね。主にあってとか覚えてとか重荷とか、特殊すぎる言葉を多用されるとくすぐったいです。
聖霊充満! これはちょっとやばい系ですね(笑)。
私が常々気になっている言葉が、私が参加している教会だけかもしれませんが、ミサの際の聖書朗読、福音朗読は司祭が行うが、旧約と書簡などは、朗読者が行う。私以外の朗読者は、朗読した後、必ず神のみ言葉ですとう言葉で締めくくるのだ。私は、神に感謝という言葉で締めくくる。旧約の例えば創世記は神の言葉か?パウロ書簡は神の言葉か?違うでしょ。どうも、伝統的にそのように言い慣わされてきているようで、気分が悪い。
返信削除典礼責任者は、何も言わないので、そのままにしているが、気になるのだ。
私が参加するミサでは「神に感謝せよ」というセリフが多いですが、「神のみ言葉です」という場合もあるのですね。伝統や習慣に固執するのでなく、適宜見直してほしいものですね。
削除こんにちは。
返信削除いきなり話はずれますが、
私の友人(女性)が、バス停でバスを待っていたところ、知らない男性がニヤニヤ笑いながら彼女の近くに来て全身を眺め回したそうです。
不快に思った彼女は、その男に向かって
「主の祈り」
を唱えたそうです。口語訳で…。
天にまします我らの父よ…。
男は無言で去って行きました…。
口語訳で宗教用語を語られるのは、色んな意味で慣れないですよね…。
ま、変態避けにはなります。
後でみんなで笑いました‼
なるほど(笑)。
削除そういう撃退法があるなら、仰々しい言い回しや文語体にも価値がありますね。それにしてもそのご友人に、何事もなくて良かったです。「宗教=変な人」という偏見もありそうで、ちょっと複雑ではありますが・・・!
生まれながらにクリスチャンという人はいないわけですから周りから何らかの影響を受けて入信するという過程をたどるのでしょうが私の場合は近くにやたらとその教会用語だか聖句だかノンクリスチャンには非常に不思議だったり異質だったりする言い回しを会った時はもちろん手紙でも散りばめて使う女性がいたのを思い出しました。 彼女は真実の言葉だから相手(私)の心に響くはず、、と思っての言動だったのでしょうが数年後にクリチャンになって以来彼女に関して思うのは”反面教師”以外の何ものでもありません。 やっては行けない、、やらない方がいいの全てのお手本を見せてくれてありがとうございますと今でも感謝しています。 主が全てを益にしてくださるとはこの事でしょうか?
返信削除良い反面教師を持つことができました・・・と喜ぶべきなのかどうか、微妙なところですね(笑)。
削除人を呼ぶとき、「○○しまい」「○○きょうだい」というのもやめてほしいですよね。
返信削除私たちは「主にあって」兄弟姉妹なのですから、と言うのが理由なのですが、ふつうに○○さんで良いでしょ、といつも思います。
外を歩いているとき、遠くから○○しまい!と呼ばれ、恥ずかしい思いをしたことが。クリスチャンでない人が聞いたらヘンなの!ってなりますよね。
人前で兄弟! 姉妹! とか呼ばれるのはさすがに抵抗がありますよね。そこだけでも「さん」で呼んでほしいところです。そのあたりの対応は、基本的なTPOということで全教会に統一してほしいです(笑)。
削除