クリスチャンは叱られないと成長できないのですか?

2018年8月12日日曜日

教会生活あれこれ

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 私の牧師はよく怒る人でしたね。

 礼拝の前とか、何かのイベントの前とかは特にピリピリしていました。何かうまく行かないことがあると、瞬間湯沸かし器みたいに怒鳴ったり、舌打ちしたりです。私たち信徒はそういうのが嫌で嫌で、集会の前になるとよく牧師を避けたものです。もちろん避けられない立場の人もいましたが(たとえば私のことですね笑)。

 まあとにかくいろいろなことで怒られました。なんであんなに怒られることがあったのでしょう。今思うと不思議なのですが、とにかく、皆しょっちゅう怒られていました。

 たとえばなんですが、賛美の練習をするじゃないですか。歌う人や、楽器を演奏する人、映像や音響や照明を扱う人など、いろいろな奉仕者が集まります。で、本番の礼拝さながらの練習をします。うちはそういうリハーサルに、1時間も2時間もかける教会でした。

 で、リハーサルが始まります。すぐに牧師の注意? 指導? が入ります。歌声が小さい、リズムの取り方が鈍臭い、楽器の音がどうのこうの、曲と曲の合間が長い/短い、パワポのページ切り替えが遅い、誤字がある、照明の色のセンスが悪い、音響のバランスがどうのこうのと、まあありとあらゆる点で叱られます。単に注意されるんじゃありませんよ。怒鳴られたり、舌打ちされたり、溜息をつかれたりします。誰もいい気分じゃありません。

 下手すると会堂内が暑いとか寒いとかで叱られます。だったら空調の温度を自分で変えればいいでしょう? と思うかもしれませんが、牧師に言わせれば、そういうのは「信徒の方で察するべき事柄」だそうです。信徒を何だと思ってるんでしょうね。召使いでしょうか。奴隷でしょうか。まあそんなところだったと思います。

 多くのクリスチャンの方は想像できないかもしれませんが、私の教会生活とは、あるいはクリスチャン生活とは、そういうものでした。

 なぜ牧師はそんなに怒るのか? 牧師自身の説明によると、それは「訓練のため」でした。
 私たち信徒を成長させるためには、厳しく指導しなければならない。時には怒鳴って叱りつけなければならない。そうしないと私たち信徒は理解しないし、改善しない。だから牧師は涙をのんで、時に心を鬼にして、「仕方なく」私たちを厳しく扱っているのだ。本当はこんなことしたくないんだ・・・。
 と、まあそんな説明でした。本当かどうか知りませんけれど。また、「仕方なく怒っている」ようには見えませんでしたが。

 あくまでその牧師の言い分ですが、人間には「褒められて伸びる部分」と、「叱られて伸びる部分」とがあるそうです。だから褒めるだけじゃ人は成長しない、叱ってあげないとダメだ、というわけですね。それだって叱るための口実にしか聞こえませんけれど。

 皆さんの教会は、というか牧師はいかがでしょうか。よく怒る人ですか。怒らない人ですか。不機嫌な人ですか。褒めてくれる人ですか。

「牧師先生も人間だから」という理由で、牧師のあれもこれも「許してあげなさい」と言う人がいます。あなただって欠陥があるでしょう? なぜ牧師だけを責めるのですか? というわけです。

 でも、何にしても限度があると思いますね。許せることと、許せないこととがあります。「クリスチャンなら何でも許すべきだ」と言う人がいますけれど、そういう人は「許し」について勉強し直して下さい。それまでは何も発言しなくていいです。

 自分のこととして考えてみればわかると思いますが、厳しく怒鳴られることで成長するなんて、まずありません。怒鳴られたら怯えて萎縮するか、こっちも怒るかです。そして二度と怒鳴られないようにしようとあれこれ考えるだけです。でもそれって、「成長」じゃありません。

 あるいは私がこういうことを書くと、ある人々はこんなふうに言うでしょう。
「彼は牧師にパワハラされたのを根に持って、過剰に反応してるんだ。だから客観性を欠いている。彼が言っていることは、だいたいが言い過ぎなんだ。牧師の立場というものがわかってないよ」

 なかなか面白い意見ですね。私が普通の頭じゃなくなってる、だから話を聞かなくていい、というわけですよ。

 じゃあ逆に聞きますけど、いったい誰がその被害を訴えればいいんんでしょう。誰が「客観的に」それを見たのでしょう。それが「過剰な反応」かどうか、誰にわかるのでしょう。自分たちで言わなければ、いったい誰が代弁してくれるのでしょう。

 それに私の頭がおかしくなっているとしたら、「それだけの被害を受けた」という証拠ですよね。違いますか。私が一人で勝手に狂ったのですか。

 そういうことを言ってくるのは、だいたい同類の牧師たちです。信徒を奴隷のように使い、権力を振るう輩です。
 彼らは信徒が声を上げるのを許しません。反抗するのを許しません。自分の座を守るためなら、誰かを脅すのも、嘘をつくのも厭いません。

「そんな人はキリスト教の牧師とは言えません」と良識ある人々は言うでしょう。その通りだと思いますね。牧師とは言えません。

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