「祈りの定義は何か」みたいな難しい話でなく、もっと実際的・現実的な話として、「祈り」とは何でしょう。クリスチャンとして、私たちはどんなふうに「祈り」に向き合うべきでしょうか。
と言っても「祈り」に関しては、教団教派によっていろいろあるでしょうね。教派の違いが色濃く現れそうです。
たとえばカトリックのミサに出ますと、祈りの定型文(?)がいくつか用意されています。ミサの最中、それらを然るべきタイミングで、皆で声を合わせて唱える感じです。定型文そのものが「祈り」なのですね。ザックリした感想で申し訳ありませんが、カトリックは「形式」を重んじるスタイルのようです。
ところがプロテスタントの福音派、聖霊派あたりになりますと、逆に「形式的な祈りなど意味がない」となります。そして自分たちの言葉で、自由に、時に叫んだり泣いたりしながら、ドラマチックな祈りをします。
こちらは「形式」のほとんど対極で、個々の「自由と情熱」が重んじられるようです。
教会と言っても、いろいろ違うのですね。
ではそういう公の場の祈りでなく、個人的な、もっと生活に密着した場面での「祈り」は、どんなものでしょうか。
すみませんがカトリックの方の「個人的な祈り」には詳しくありませんので、ここはプロテスタントの一部の話になります。
福音派や聖霊派では「個人的な祈り」が重要とされています。個々が「祈りの習慣」を身につけて、「霊的成長」をしていかなければならない、と。だから「毎日最低1時間は祈ります」とか、「早起きして仕事前に集中して祈ります」とか、「朝昼夜の決まった時間に祈ります」とか、そういうふうにしている人もいます。
「毎日教会員1人1人の名前を挙げて祈っています」なんて人もいますね。大変だなあとしか思わないのですが。
ところでそういう「祈りの習慣」を確立している人たちは、素晴らしい信仰者なのでしょうか。毎日何時間も祈っているから、すごく「霊的」なのでしょうか。
はっきり言いますが、「祈り」はどれだけ習慣化しているか、どれだけ時間を掛けているか、が重要なのではありません。
たとえば「神様、◯◯して下さい」という「お願い系の祈り」を延々とする人がいますけれど、それで「霊的成長」を遂げるんですか? だったら巣鴨のとげぬき地蔵を毎日参拝しているおばあちゃんたちなんて、とんでもなく「霊的」になっているんじゃないでしょうか。
あるいは感情を込めてドラマチックに祈れば「霊的成長」をするんですか? だったら俳優や詐欺師の皆さんは毎日情熱的な演技をしているでしょうから、すごく「霊的」になっているはずです。
念のため書いておきますが、とげぬき地蔵を参拝するおばあちゃんも俳優も詐欺師も、ただの喩えですよ。彼らが「霊的なクリスチャン」だと言っているのではありません。当たり前ですが。
それはともかく、
時間を掛けているから「信仰的」だ、情熱を掛けているから「霊的」だ、真剣に取り組んでいるから「敬虔」だ、というのは、幻想に過ぎません。私たちが「そう思いたい」だけです。実際には、どれだけ神様に「お願い」したって、「霊的」に成長なんてしません。教会員全員の名前を挙げて祈るからって、何か特別な力を帯びるのではありません。
では「祈り」とは何かと言うと、私が思うに、「形式的な祈り」と、「形式的でない祈り」とがあります。
前者はたとえば「主の祈り」です。マタイによる福音書6章、あるいはルカによる福音書11章において、キリストが「こう祈りなさい」と明言しているものですね。毎週の礼拝で唱えている人も多いでしょう。
他にも教派によって、定型文的に唱えられている祈りがいろいろあると思います。たとえば使徒信条とか。そういうのは全部「形式的な祈り」ですから、然るべきタイミングで、唱えたらいいと思います。
さて後者は「形式的でない祈り」ですが、これは神様に自由に「お願い」したり、「とりなし」たりするものではありません。もっと活動的なものです。
話が変わるようですが、たとえば皆さんは日曜日、教会に向かっている途中で急病人に遭遇したら、どうするでしょうか。救護するでしょうか。あるいは無視して教会に向かうでしょうか。
「日曜礼拝は何よりも優先しなければならない」と信じる人たちは、きっと平気で無視するでしょうね。でもキリストがその場にいたら、たぶん礼拝なんて放っておいて、救護すると思います。なぜなら人を助けることも礼拝の一部だからです。
「祈り」も同様です。
たとえば「神様、あの人のために◯◯して下さい」と祈るのも結構ですが、だったら「あの人」のために何かしたらいいと思います。もちろんできること・できないことがありますから、無理しなくていいんですよ。ただ、祈るくらいに心が動いているなら、その心を実際に行動に表した方がいいんじゃないですか、という話です。その方が、相手にも伝わります。
時々「あなたのために祈ってます」と言う人がいますけれど、私はあまり感心しません。「祈るだけですか?」と思うからです。ちょっと意地悪かもしれませんが(笑)。
「祈り」とは宗教的な行為である前に、実際的・現実的な行為であるべきです。
つまり誰かのために心を動かすから、結果的に何かの行動に出る、という種類のものです。教会に篭って何時間も祈ったって意味がありません。それで「霊的だ」とか言うのは、ただの自己満足です。厳しいことを言うようですが。
詳細を忘れてしまったのですが、ある地域で感染症が流行した際、「癒し」を祈るのは宗教行為ではない、と言った人がいます。じゃあ何が宗教行為かと言うと、具体的な感染対策をしたり、患者を看病したりすることだと。その通りではないでしょうか。
「自分はたくさん祈っている。立派なクリスチャンだ」と思っている人は、その時間を使って、誰かのために何かをした方がいいのではないかな、と私は思います。
いますね。あなたのために祈ってますクリスチャン。そして祈るだけで(本当に祈っているのかも微妙ですが)、何もしない。こういう輩は、まず信用してはいけませんね。
返信削除Fuck
本当に祈っているかどうか微妙、というのは確かに。「祈ってます」のほとんどは、挨拶か社交辞令じゃないかと思います。
削除もちろん、本当に祈る人もいるでしょう。でも私からしたら、それだって微妙なんですけれど。
あなたのために祈ります、祈るね、祈っていますなどとよく言われましたが、結局その人が何かしてくれたかと言えばそうではありませんでした。むしろ私を責めることの方が多かったような気がします。そもそも祈っているのかすら分からないのでちっとも嬉しくありません。とにかく長時間祈ることが良しとされていて、どれくらい祈った?1時間は祈らないとダメだよとよく言われましたが聖書に長時間祈れなんて書いてあるのでしょうか。私の教会では「祈り会」というものが毎週ありまして(私はほとんど行きませんでした)とにかく長い時間声を出して祈るというものです。感極まってくると絶叫します。でもふたを開けてみれば自分の願望だらけです。○○してくださいのオンパレード。結局信仰も自分の願いを叶える道具でしかないんだなと思います。
返信削除「あなたのために祈ります」と言われたら虫唾が走ります。私の話を聞いてくれて、励ましてくれるノンクリスチャンの友人の方がよっぽど心強いと今では思います。
「1時間は祈らないとダメだよ」の根拠を教えてほしいですね。時間を掛ければいいんですか? たくさん祈るからいいんですか? という話です。祈りについてキリストが何と言っているか、そういう人たちは聖書を読み直すべきだと思います。
削除ツラノトレーニングスクールの吉田みほこいわく4時間の祈りでやっと霊的打ち破りが始まるそーだ。1時間なんてなんのその。。。(笑) 聖書的根拠教えてほしい。長い間、気づかずにいたけど案外聖書にない事ばかり聞かされて思い込んでたけれど、聖書は引いてもいけないけど、足してもいけないってこと案外クリスチャン自身が知らないのかもしれない。。。
削除聖書を毎日読んでいるはずのクリスチャンがその内容を無視している、というのはよくあることですね。
削除MacWinです。私も同意見ですね。「祈ってます」と言うのは相手がその言葉を必要としてない限りわざわざ言う必要はないと思っています。全てとは言いませんが、半分ぐらいは自己アピール、もしくは社交辞令かと。そういう薄っぺらい交わりに偽善っぽさを感じて何年か前に福音派から某教団に転会しました。愛とか神の家族とか簡単に言うけど中身が無いから余計に痛かったです。
返信削除おっしゃる通り、わざわざ「祈ってます」なんてアピールする必要ありませんね。社交辞令的に使うのが通例になっているかもしれませんが、そういう通例はいっそ廃止していただきたいです。
削除クリスチャンって日常生活における実際的や現実性を帯びた納得解のある祈りの説明力に関しては抽象的観念的で乏しいですが、教会の中でのイベント関連では祈りの一致みたいなのがあり、具体性があるようにみえるっていうこの”差”を作るメカニズムってかなりずるいですし耐えられないですね。
返信削除本当は教会以外の自分の私生活の中でどうやって現実性のある祈りをやっていくかを教えてもらいたいのに、教会のイベントだけを重視するクリスチャンに対して、このような差って何なんですか?っと問いかけたら、「だめでしょ!!祈らなきゃ!!!」という見当違いな答え(本当は叱られましたが)が返ってきて教会に行かなくなった者です。
教会で嫌な思いをされたのですね。
削除見当違いな答えを返され、しかも叱られたとあっては、行かなくなるのも当然かと思います。
教会は嫌な思いをしてまで行くものではありませんから、どうぞご自分の時間を大切になさって下さい。
「祈っていますよ」よりも、相手の立場だったらどういう言葉だと気持ちが少しでも和らぐのか。力になれることがあるかを考える。そして、自分に出来る具体的な行動を取る。相手の状況によって、どういう支援がどの程度必要かも異なると思いますが。
返信削除クリスチャンの一部が、「まだ救われていない人たち」と上から目線に見ている、ノンクリスチャンの方が、例えば被災者や困っている人に、よほど寄り添う気持ちを持っているんじゃないの?とも思います。
余談ですけれど、私は使徒的教会から離れた後、近所の教会を見学するなかで、「1日どれだけ祈っているか」についてのマウンティング合戦を目の当たりにしました。
「家族が寝静まってから異言で1時間祈ります」教会員1
「私も異言で時間を忘れて祈ります。そうしないと生活できません」教会員2
その後何人かが自分の話をした後、牧師が言いました。
「そうですか。皆さん、ガジマ先生は人が亡くなった時に8時間祈られるのだそうです。私たちはどうでしょうか。人が亡くなったら直ぐに葬儀の手配をしないと、という風に考えるのではないでしょうか。
また、アメリカの牧師さんで、聖書にあるとおり、祈る時は部屋の奥まったところで祈るために、クローゼットで何時間も祈りを日々積まれた方もいます。その方の祈りはどんどん聞かれているんです。だから皆さんもどんどん祈りましょう」牧師
先日、fuminaru様が書いていらした、牧師がズレているケースなのかな、と。
その教会内では永遠の文化祭が続くだけで、その中にいることが幸せな人にとってはそれで良いのかもしれないな、と思います。
ただ、その教会では近所の小学校の門の前で教会学校のビラを配っているのですが、たまに来る子どもいても定着しないのは、自分たちに中身が無くて世間からズレまくっているからだ、とは気づかないんでしょうね。
祈りのマウンティング合戦は見ていてキツイですえね。結局自分がどれだけ頑張っているか、霊的か、というのを自慢しないと、気が済まないのでしょうね。
削除「たくさん祈れば願いがかなう」というのは、実は神様を利用することに他なりません。お金を入れてボタンを押せばジュースが出てくる、というのと同じだからです。
でた、行いの信仰。神の恵みを報酬と思っている信者。カリスマ牧師(ガジマ)のように8時間祈れば生き返る、何時間祈ればがんが治るなどと聖書にない約束と契約を用いて信徒をたぶらかすのやめてほしい。祈りを自分たちの欲の道具にするカリスマ牧師、神様に対する恐れはないのだろうか?
削除何時間祈ればいい、何日断食して祈ればいい、などと根拠のないことを平気で主張する輩がいますよね。まさに神に対する冒涜だと私は思います。
削除次のような証しを聞いたことがあります。
返信削除「私は再発の可能性が高い癌になったが、『必死の祈り』が聞き届けられ奇跡的な回復を遂げました。また、仕事のことで追いつめられ悩んでいたとき『必死の祈り』の後で奇跡的な解決が与えられました。振り返るとひたすら主に委ねざるを得ないとき、一心不乱に祈ることで不思議な勝利が与えられてきました。」
これに対しては、「神の力を信じて熱心に祈る姿勢は素晴らしい」、「自分の願望が叶った場合は必死の祈りだったとする結果論にすぎない」、「必死で祈ったから願いが叶ったのだと本人がそう信じて喜んでるのだからそれでいいではないか」等いろいろな意見があると思います。
私はこういう証しを、信仰熱心だとか無害だとはとても考えられないです。逆に、時には破壊的に人を傷つけるものだと思います。
「必死の祈りは勝利に繋がるがそうでない祈りは敗北を招く」・・この考え方からは必然的に、人生の不幸や困難の原因は不信仰や不熱心だということになります。
病気や事故で苦しんでいる人や心や体に生まれつき障害を持っている人たちを失敗だと決め付けて、それが回復しないのは不信仰だと言っているのと同じです。
とてつもなく傲慢で、神を冒涜している姿勢ではないでしょうか。
「信仰は努力ではない」と言いながら、「一生懸命祈ったからこうなった」と言う人がいますね。矛盾しているのに本人が気づいていない、というパターンです。
削除それと信仰を「勝利か敗北か」の二元論で考えるのも、その手の教会の人たちの悪い癖だと思います。これこれで勝利した、これこれで敗北した、というのはあくまで主観の問題ですから。それを神の視点だと言い張るのは、おっしゃる通り傲慢であり、神に対する冒涜だと私も思います。
先日父親に重い病気が見つかってだいぶ落ち込んでいますが、そのことをとある教会員に打ち明けると一言「祈ります」と言われました。励ましているつもりで私を傷つけてるって気づいてるんでしょうか。せめて身体を気遣う言葉の一つでも欲しかった。打ち明けてしまった私が馬鹿だったなぁと今では思います。
返信削除身内の方のご病気、それも重度とのこと、心よりお見舞い申し上げます。さぞお辛いことと思います。詳細はわかりませんけれど、少しでも快方に向かわれることを願ってやみません。
削除クリスチャンがなすべき隣人愛の一つに「病床を見舞う」というのがあります。「祈ります」の言葉だけでなく、実際に足を運び、心を使うのが本来ではないかな、と私は思います。