「悪魔」って本当にいるんですか?

2018年2月14日水曜日

「悪霊」の問題

t f B! P L
 今回のお題はこれです。
 悪魔は実在するのか? しないのか?

「そりゃあ聖書に書いてあるんだから、実在するよ」
「あれは象徴的に書かれたものだから、実在しないよ」
 さて、どっちでしょう。ちょっと考えてみましょうか。

悪魔の影響を「治安」で見てみる

 たしかに聖書には悪魔が登場します。サタン、ベリアル、レギオンなどの名前もあります。
 彼ら悪魔は人を誘惑したり、悪い考えを吹き込んだり、人に取り憑いて狂わせたり、病気にしたり、豚を集団自殺に追い込んだりと、いろいろ活躍しています。
 だから聖書を「字義通り」に読むとしたら、間違いなく「実在する」ことになるでしょう。

 ペテロの第1の手紙5章8節によると、悪魔は「食いつくすべきものを求めて歩き回っている」ようです。流行りのゾンビものみたいですね。
 このように悪魔たちが「実際に」方々で活動しているとなると、地域の治安がものすごく悪くなりそうですが、どうなんでしょう。

 日本はどうでしょうか。クリスチャン人口がとっても少ないですから、相対的に悪魔が多い気がします。聖霊派の牧師の方々も、「日本は悪霊に縛られている」「暗闇に覆われている」とおっしゃっていますから、相当多いんじゃないでしょうか。

 でもその割に、日本は治安が良いですね。諸外国に比べて重大犯罪は少なく、テロなどまず起きません。電車の中で居眠りしても荷物を持って行かれません。落とした財布は中身が入ったまま届けられることが多いです。外国人旅行者はよく「日本人は優しい」なんて言ってくれます。

 ではクリスチャンが多い韓国はどうでしょうか。
 ソウルに行ったことがありますが、やたら教会が多くて驚きました。何千という信徒を抱えるメガチャーチも複数あります。人口の30%がクリスチャンですから、単純に考えて10人に3人がクリスチャンです。

 そういう韓国なら、悪魔の働きが弱い気がします。あるいは「神の勢力」が強くて、悪魔が働きづらそうな気がします。
 ところがどっこい、犯罪発生率は日本より数倍高いです。日本に比べたら、まだまだ治安は悪いようです。

 一部のクリスチャンの方々は悪魔を非常に恐れ、日々「戦って」います。けれど、悪魔によって引き起こされる「実害」については、よくわからないわけです。本当に「戦う」必要があるのでしょうか。

「聞く」けれど「見えない」

 私は長年「悪魔は実在する」を信じていました。当然ながら「聖書は字義通りに読むべきだ」とも信じていました。
 けれど最近は、「悪魔は何かの象徴なのかも」と考えはじめています。なぜなら聖書が全て「字義通り」であると、確認できないからです。

 聖書を「字義通り」に読むとしたら、たとえばそこに書かれている「奇跡」も「癒し」も全部「本当に起こったこと」と捉えなければなりません。また現在もそれらが「起こる」と言わなければなりません。

 でも実際、「奇跡」は起こっているのでしょうか。「癒し」は起こっているのでしょうか。「確かに起こっている」と主張する人たちはいますけれど、どこで誰に何が起こったのかというディティールは、全然教えてくれません。だから、確認できません。

「悪魔の働き」も同じです。「悪魔がこんな風に人に取り憑いていた」という話は聞きますけれど、それが具体的にどこの誰なのかわかりません。いろいろ話は「聞く」のですが、「見る」ことができず、確かめることもできません。

 そして確かめられない以上、聖書が「字義通り」かどうかも確かめられない、ということになります。

「聖書を字義通り読む」の限界

「悪魔の存在」を考えるうえで重要なのが、冒頭で紹介した「実在説」と「象徴説」の対立です。
「悪魔は実在する」という立場と、「悪魔は何かの象徴だ」とする立場が、今もぶつかっているわけです。

 聖書を「字義通り」に読んで行くと、前述の通り「確認できない」という壁にぶつかります。そしてもう1つの壁にもぶつかります。
「黙示録」という壁です。

 聖書は概ね「史実的」「物語的」に書かれています。だから読んで意味がわからないということはほとんどありません。
 でも、黙示録は違います。これを「字義通り」に読もうとしたら、大変なことになってしまいます。
 たとえば黙示録には「女」が登場しますが、彼女は太陽を着て、月を足台にして、星を冠にしています(12章1節)。どれだけ巨人なんだよっ(笑)。

 ではどうするかと言うと、黙示録だけは「象徴的」に読みます。
 たとえば「この龍は◯◯を意味する」「この女は◯◯を意味する」「この荒野は◯◯を意味する」みたいに、それぞれ解釈を付けるのです。

 でも、おかしくないですか。聖書は全て「字義通り」読むべきでだ、と言いながら、どうして黙示録だけは「象徴的」に読むのでしょう。最後まで「字義通り」で貫くべきではありませんか。
 このあたりが都合がいいなあと私は思うんですけどね。どうなんでしょう。

悪魔の正体は

 この「聖書は字義通り読む」→「でも黙示録だけは象徴的に読む」という矛盾をクリアする1つの方法として、「聖書全体を象徴的に読む」というのがあります。

 つまり、書かれているストーリーがそっくりそのまま事実なのではなく、多少の脚色や創作が混じっているだろう、という視点で読むことです(聖書が全部作り話だと言っているのではありませんよ)。
 あくまで事実がベースだけど、中には宗教的創作もあるだろう、と考えてみることです。もっとも、事実と創作の境界線は不明瞭なのですが。

 であるなら、悪魔は「人間が根本的に持っている悪意」の象徴だと、読むこともできます。悪魔という存在がどこか外部にいるのでなく、それは人間の心の中にいるのだ、と。あくまで1つの読み方としてですが。

 永井豪の傑作コミック『デビルマン』をご存知でしょうか。
 最近Netflixでリメイクされて好評を得ています。トラウマ必至なのでお勧めできませんが(笑)。

 悪魔(デーモン)が実在する世界の話です。終盤、「悪魔が人間界に潜んでいる」と学者が発表すると、人間たちは疑心暗鬼になって、殺戮を始めます。でもその学者というのがサタン本人なのですね。
 で、可憐なヒロインも殺戮に巻き込まれ、悲惨な最期を迎えます。それを見たデビルマン(主人公)が叫びます。
「お前らこそ悪魔だ」

 これはもちろん創作ですけど、事実を含んでいる思います。

 たとえばですが、キリスト教圏である西欧諸国の歴史を見てみましょう。十字軍、異端審問、魔女狩り、大航海時代の植民地化政策など、まさに殺戮の歴史です。その犠牲となった人たちは「お前らこそ悪魔だ」と思ったかもしれません。

 もちろん西欧諸国だけでなく、世界中で同じようなことが起きてきたのですけれど。

 もしかしたら人間たちの悪行があまりに酷いので、「人間がこんなことをするはずがない。悪魔に操られているのだ」みたいに考えたかったのかもしれません。悪の原因を人間の内部でなく、どこか外部に求めたかったのかもしれません。
「悪魔の存在」という外部に。

 さて、悪魔は実在するのでしょうか。

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