今回のお題はこれです。
悪魔は実在するのか? しないのか?
「そりゃあ聖書に書いてあるんだから、実在するよ」
「あれは象徴的に書かれたものだから、実在しないよ」
さて、どっちでしょう。ちょっと考えてみましょうか。
悪魔の影響を「治安」で見てみる
たしかに聖書には悪魔が登場します。サタン、ベリアル、レギオンなどの名前もあります。
彼ら悪魔は人を誘惑したり、悪い考えを吹き込んだり、人に取り憑いて狂わせたり、病気にしたり、豚を集団自殺に追い込んだりと、いろいろ活躍しています。
だから聖書を「字義通り」に読むとしたら、間違いなく「実在する」ことになるでしょう。
ペテロの第1の手紙5章8節によると、悪魔は「食いつくすべきものを求めて歩き回っている」ようです。流行りのゾンビものみたいですね。
このように悪魔たちが「実際に」方々で活動しているとなると、地域の治安がものすごく悪くなりそうですが、どうなんでしょう。
日本はどうでしょうか。クリスチャン人口がとっても少ないですから、相対的に悪魔が多い気がします。聖霊派の牧師の方々も、「日本は悪霊に縛られている」「暗闇に覆われている」とおっしゃっていますから、相当多いんじゃないでしょうか。
でもその割に、日本は治安が良いですね。諸外国に比べて重大犯罪は少なく、テロなどまず起きません。電車の中で居眠りしても荷物を持って行かれません。落とした財布は中身が入ったまま届けられることが多いです。外国人旅行者はよく「日本人は優しい」なんて言ってくれます。
ではクリスチャンが多い韓国はどうでしょうか。
ソウルに行ったことがありますが、やたら教会が多くて驚きました。何千という信徒を抱えるメガチャーチも複数あります。人口の30%がクリスチャンですから、単純に考えて10人に3人がクリスチャンです。
そういう韓国なら、悪魔の働きが弱い気がします。あるいは「神の勢力」が強くて、悪魔が働きづらそうな気がします。
ところがどっこい、犯罪発生率は日本より数倍高いです。日本に比べたら、まだまだ治安は悪いようです。
一部のクリスチャンの方々は悪魔を非常に恐れ、日々「戦って」います。けれど、悪魔によって引き起こされる「実害」については、よくわからないわけです。本当に「戦う」必要があるのでしょうか。
「聞く」けれど「見えない」
私は長年「悪魔は実在する」を信じていました。当然ながら「聖書は字義通りに読むべきだ」とも信じていました。
けれど最近は、「悪魔は何かの象徴なのかも」と考えはじめています。なぜなら聖書が全て「字義通り」であると、確認できないからです。
聖書を「字義通り」に読むとしたら、たとえばそこに書かれている「奇跡」も「癒し」も全部「本当に起こったこと」と捉えなければなりません。また現在もそれらが「起こる」と言わなければなりません。
でも実際、「奇跡」は起こっているのでしょうか。「癒し」は起こっているのでしょうか。「確かに起こっている」と主張する人たちはいますけれど、どこで誰に何が起こったのかというディティールは、全然教えてくれません。だから、確認できません。
「悪魔の働き」も同じです。「悪魔がこんな風に人に取り憑いていた」という話は聞きますけれど、それが具体的にどこの誰なのかわかりません。いろいろ話は「聞く」のですが、「見る」ことができず、確かめることもできません。
そして確かめられない以上、聖書が「字義通り」かどうかも確かめられない、ということになります。
「聖書を字義通り読む」の限界
「悪魔の存在」を考えるうえで重要なのが、冒頭で紹介した「実在説」と「象徴説」の対立です。
「悪魔は実在する」という立場と、「悪魔は何かの象徴だ」とする立場が、今もぶつかっているわけです。
聖書を「字義通り」に読んで行くと、前述の通り「確認できない」という壁にぶつかります。そしてもう1つの壁にもぶつかります。
「黙示録」という壁です。
聖書は概ね「史実的」「物語的」に書かれています。だから読んで意味がわからないということはほとんどありません。
でも、黙示録は違います。これを「字義通り」に読もうとしたら、大変なことになってしまいます。
たとえば黙示録には「女」が登場しますが、彼女は太陽を着て、月を足台にして、星を冠にしています(12章1節)。どれだけ巨人なんだよっ(笑)。
ではどうするかと言うと、黙示録だけは「象徴的」に読みます。
たとえば「この龍は◯◯を意味する」「この女は◯◯を意味する」「この荒野は◯◯を意味する」みたいに、それぞれ解釈を付けるのです。
でも、おかしくないですか。聖書は全て「字義通り」読むべきでだ、と言いながら、どうして黙示録だけは「象徴的」に読むのでしょう。最後まで「字義通り」で貫くべきではありませんか。
このあたりが都合がいいなあと私は思うんですけどね。どうなんでしょう。
悪魔の正体は
この「聖書は字義通り読む」→「でも黙示録だけは象徴的に読む」という矛盾をクリアする1つの方法として、「聖書全体を象徴的に読む」というのがあります。
つまり、書かれているストーリーがそっくりそのまま事実なのではなく、多少の脚色や創作が混じっているだろう、という視点で読むことです(聖書が全部作り話だと言っているのではありませんよ)。
あくまで事実がベースだけど、中には宗教的創作もあるだろう、と考えてみることです。もっとも、事実と創作の境界線は不明瞭なのですが。
であるなら、悪魔は「人間が根本的に持っている悪意」の象徴だと、読むこともできます。悪魔という存在がどこか外部にいるのでなく、それは人間の心の中にいるのだ、と。あくまで1つの読み方としてですが。
永井豪の傑作コミック『デビルマン』をご存知でしょうか。
最近Netflixでリメイクされて好評を得ています。トラウマ必至なのでお勧めできませんが(笑)。
悪魔(デーモン)が実在する世界の話です。終盤、「悪魔が人間界に潜んでいる」と学者が発表すると、人間たちは疑心暗鬼になって、殺戮を始めます。でもその学者というのがサタン本人なのですね。
で、可憐なヒロインも殺戮に巻き込まれ、悲惨な最期を迎えます。それを見たデビルマン(主人公)が叫びます。
「お前らこそ悪魔だ」
これはもちろん創作ですけど、事実を含んでいる思います。
たとえばですが、キリスト教圏である西欧諸国の歴史を見てみましょう。十字軍、異端審問、魔女狩り、大航海時代の植民地化政策など、まさに殺戮の歴史です。その犠牲となった人たちは「お前らこそ悪魔だ」と思ったかもしれません。
もちろん西欧諸国だけでなく、世界中で同じようなことが起きてきたのですけれど。
もしかしたら人間たちの悪行があまりに酷いので、「人間がこんなことをするはずがない。悪魔に操られているのだ」みたいに考えたかったのかもしれません。悪の原因を人間の内部でなく、どこか外部に求めたかったのかもしれません。
「悪魔の存在」という外部に。
さて、悪魔は実在するのでしょうか。
私は、キリストにとっての本当の敵とは何だろうか?と考えたことがあります。
返信削除それはユダヤ教でもなければ、イスラムや仏教でも、神道でもない。
私にとっての結論は、キリストの最大の敵は「最大多数の最大幸福」という道徳原理だということです。
「最大多数の最大幸福」というのは、イギリスの功利主義の哲学者ジェレミー・ベンサムが提唱した道徳原理のことです。
それは、「より多くの人の幸福を最大にすることは、道徳的に正しい」という意味です。誰がこのことに反対するでしょうか。みな納得し、賛成するでしょう。だれもがより多くの人を幸せにすることは正しいと思うでしょう。
ところが、その「多くの人の幸せ」がユダヤ人の虐殺だったらどうでしょう? クリスチャンがライオンに喰われることだったらどうでしょう? 在日朝鮮人の虐殺だったらどうでしょう? 生活保護受給者の保護を打ち切ることだったらどうでしょう? 障害者の虐殺だったらどうでしょう? 人種的マイノリティを奴隷として用役することだとしたらどうでしょう?
不適切な言葉だということを承知の上で言えば、「多くの人の幸せ」が「社会のお荷物の抹消」にあるとすれば、その「多くの人の幸せを最大化」するべく努力することは、道徳的に正しいのでしょうか?
これまで述べてきたことは、過去の歴史で実際にあったことであり、今の社会にとってもたびたび問題になることです。「最大多数の最大幸福」は、多数決を旨とする市民社会の基本原則になっています。
キリスト教が「みんなを幸せにする」宗教だと思われているとしたら、それは半分正解ですが、半分間違いでしょう。
キリスト教は「背負う」宗教です。イエスが述べるように、キリスト者は社会の最も小さき人々を担い、彼らに仕えなければなりません。神の意志は、たとえ多くの人にとって不都合だとしても、小さき者とされた人々を「背負え」と命じる宗教なのです。自分たちの幸せのために他者を排除しようとする人々からは「国賊、売国奴」と呼ばれるでしょう。しかし、キリスト者は「社会の敵」と呼ばれた人々を背負うべく召されている。それは、イエス自身が十字架を背負うまでに、神にとっての「お荷物」である我々を担われた、という信仰に由来するのです。
悪魔は存在するのでしょうか? しかし、悪の力は、逆らいようがないほど強力な力で存在します。
悪魔は誘惑します、「人間は、人間自身のことを第一としたときに、幸せになれる。平和になれる」と。
私たちは、人間を第一にして、より安心、安全、便利、快適な社会をつくろうとしてきました。そのひとつの結実が、2度の世界大戦であり、ホロコーストでした。今も、「人間自身のために」互いに「お荷物」になるやいなや、処分しあったりしています。
日本で買える安価な商品も、途上国の人々が、どんな劣悪な境遇で生産しているかを知ったなら、豊かな商品とサービスで生活を支えている自分を社会の悪と無縁な存在とは思わないでしょう。
日本の豊かな社会が、どれだけの末端の人々の貧しさ、苦悩、絶望、孤独によって支えられているのかを知ったなら、自分が社会の悪と無縁な存在とは思わないでしょう。
私たちは、みな善い人であろうとします。しかし、なぜ「善のために」人を傷つけてしまうのでしょう? 私たちはみな平和を望みます。しかし、なぜ「平和のために」戦争を支持するのでしょう? なぜ、人間は自分たちが望み、理想とすることの真逆の結果を招いてしまうのでしょう?
イエスはペテロに叫びました、「サタンよ退け。あなたは神を思わず、人のことを思う。」
悪魔とは、人間自身のことでしょう。しかし、人間は、自分の悪を認め、過ちを悔い改めることができる。その意味で、人間は悪の支配に完全に服しているわけではない。
人間に可能性があるとすれば、それは自分の中の悪を直視して目を離さないこと。自分が悪を犯しうる存在だということを認めて警戒を怠らないことでありましょう。自分の、あるいは人間の限界とその悪を認めたときに、クリスチャンであろうとなかろうと、その人はキリストを認めたのです。
キリスト教で「義人にして罪人」と言われる所以です。
深い考察をありがとうございます。
削除確かに現代社会は(あるいは我々は)功利主義を旨とし、キリスト教はその逆を旨としていますね。
私たちは善を願いながら(あるいは悪を行わないようにしながら)も、意識的にか無意識的にか功利主義的になっており、弱者や少数層を平気で切り捨てていると私も思います。クリスチャンかどうかに関わらず、「義人」とは程遠い存在なのですね。そのことは認識しなければなりません。
「善」を願うのであれば、まず自分の中の「悪」を認めなければならない、ということかもしれません。その意味でも、悪魔は私たちの中にこそ存在するのだと思います。
カトリックでは、準秘跡として祓魔式というのがあります。「この式は特別な任命を受けて司祭によって、また教会の定めに従って慎重に行わなければなりません。」まあ、所謂エクソシストだね。映画にも出てくることがありますね。
返信削除公式見解では悪魔はいることになっている、というわけですね。
「悪魔がいることになっている」ということと、「悪魔がいる」事とは違うわけで、神父さんもそのあたりは微妙に使い分けていますね。
つまり、「私としては、悪魔は存在しないと考えているが、存在するということになっている。」というわけですね。
仏教では、お釈迦様は母親の脇の下から生まれて、赤ん坊の状態で「天上天下、唯我独尊」と言ったことになっているわけで、
どの坊さんも「脇の下から赤ちゃんが産まれるわけがない、産まれてすぐにしゃべれるわけがない」と考えているが、「お釈迦様はそうではない、ということになっている」
「・・・ということになっている」これが信仰、信心、信じることだ、というわけですね。
神父さんも説教の中で「悪魔、悪霊とされるものは、もともとは、悪い空気、病原体が空気感染されたものが、悪魔、悪霊と考えられてきました。」というようなことは常日頃おっしゃっておるわけですね。信者も、本当はそういうものだと了解した上で、「悪魔が・・とか、悪霊が・・・」とか言っているわけですね。そういうのが信仰なのですよ。
たしかカトリックには公認のエクソシストがいるのですよね。
削除でもやはり内部的には、「悪魔はいることになっている」という扱われ方になっているのでしょうね。
宗教的建前は建前として尊重しながらも、実際の現場ではそういうことに構う機会がない、ということかもしれません。
いずれにせよ、悪魔悪魔と強調するのはいかがなものかと私は思っています。
>お釈迦様は母親の脇の下から生まれて
返信削除これは、簡単です。古代の文学表現で、「特別な人」を表現する文学手法として古代では一般的な表現です。
近代以前では、「事実をありのままに新聞記事のように書く」というのは、行われていなかったんですよ。ヨシュア記などもその事を踏まえて読まないと侵略戦争の勧めになってしまします。
私達は、信仰の形態・有無に関わらず「近代」の色眼鏡で理解しがちです。
その意味では、専門家としての「職業宗教家」は大切ですね。
自称・専門家は問題ですが(;´Д`)
キリストの誕生秘話(処女受胎、天使による告知)にもそのような宗教的創作が働いていそうですね。「特別な人」「神の子」という印象付けには必要だったのかもしれません。
削除ユダヤ教の思想では、「罪」は男系で子孫に「相続」されるとされていることをベースに考えて、キリスト教ではイエス様は「罪」を相続していない神の子としている。それを表現として処女懐胎という物語にしている。
削除今の所の私の理解です。
「罪なき神の子イエス」がメッセージの核心!
「罪」も近代以前では共同体の連帯責任の意味だから、現代の個人的な不道徳とは意味が違う。
以上、信仰発展途上の者の理解です。反論・ご批判ございましたら謙虚な気持ちで、拝読したいと思います。
おっしゃるとおりですね。当時のバラモン教ではカースト制度から王族は脇の下から生まれるとされていました。賤民は足の下から生まれるともされていましたね。
返信削除お釈迦様が生まれた当時はそれが常識だったというわけですね。
お釈迦様が菩提樹の下で修行をしていると、悪魔がやっていろいろ誘惑をしたことも常識ですね。
この関係というのも、イエスが修行しているときに悪魔の誘惑を受けるというのもそっくりですね。
その当時の常識、文学的表現といっても同じですが、常識、文学的表現を是として(よろしいですよ)としていることを「・・・ということになっている」ことを認めるのが宗教のあり方ですね。
一言で言えば、昔と今とは違うんだ、というわけですね。昔は侵略戦争は是であったが、今は違うんだ、というわけでしょう。
悪魔に関しても、昔は存在したが、今は存在しない、というわけでしょう。
以前、ある神父さんが、「悪魔のささやき」に関して、「悪魔のささやき」のせいで、そんな行動を行ったと、「つまり悪魔の誘惑」に負けたと考えると、誘惑に負けた人は悪魔のせいにできて救われた気になるんだ・・・ということを話していたのを思い出しますね。
記事の最後にも書きましたが、この「悪魔のせいにできる」という感覚が、人間には必要なのかもしれません。
削除「自分はこんな酷い人間ではない」「人間とはそこまで悪い存在でははい」ということを証明したいがため、「悪魔の誘惑」を都合よく使うというか。
おっしゃっていることは理解できるのですが、「クリスチャンであろうとなかろうと、その人はキリストを認めたのです。」というのは飛躍しているように思えますが。
返信削除私の発言に対するご意見だと思われますので、返答いたしますと、私の書いたものはある問いを前提にしています。
削除その問いとは、「イエスを知らず、イエスの言葉も聞いたことがなくても、イエスに従うということは可能か?」という問いです。
それに対して私は「可能」と考えておりますので、ご指摘いただいたような表現となったわけです。
マタイ25章の、最後の審判のときにキリストが羊と山羊を分けるというところを見てみましょう。そこには「全ての国民を集める」とあります。そこにはクリスチャンもノンクリスチャンもいるでしょう。しかし、イエスはクリスチャンが神の国に入るとは言わずに「最も小さい人々を大切にした者が入る」と言いました。イエスを神として信じ、福音に仕え、多くの奇跡を起こしたクリスチャンでも、最も小さい人々を大切にしなかったのなら、イエスを大切にしなかったのであり、神の国から追い出さされるのです。逆に、イエスとは無関係でも、最も小さい人々を大切にしたノンクリスチャンは、イエスを大切にしたのであり、彼らが約束の御国へと招かれるのです。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」マタイ7・21―
また、「善きサマリヤ人の譬え」ルカ10・25―を見てみましょう。サマリヤ人とは、ユダヤ教を母体としながらも、異教の文化と混ざってしまったがゆえに、正統な仕方でヤハウェに仕えていないとユダヤ人から見なされ、忌み嫌われていた人々です。イエスは、弱っている人を助けたなら、サマリヤ人でも神の前で義しいと言っています。
このサマリヤ人を、正統を自負するクリスチャンが嫌うエホバの証人やモルモン教徒にしてみましょう。たとえ異端でも、他者を憐れむことを惜しまないならば、何もしないクリスチャンよりも彼らのほうが神の前で義しいのです。
パウロは、ローマ書で、律法がなくても、その良心で律法を満たしている異邦人がいると言いました。
これらのことから、たとえ聖書を知らず、キリストを知らなくとも、その良心のゆえにキリストに従う生き方をするノンクリスチャンがいるのではないでしょうか?
自分の悪がもたらす結果に戦慄し、人間の悪がもたらす結果に戦慄し、「もう、こうゆうことは止めにしよう」と悔い改めて、他者のために生きるノンクリスチャンがいるでしょう。他者の痛みや悲しみが自分のことのように感じるために、他者のために心を痛めている優しいノンクリスチャンがいるでしょう。彼らはノンクリスチャンで、キリストと縁がなくとも、潜在的なクリスチャン、「無名のキリスト者」であって、その誉れは「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれる日に明らかにされる」ローマ2・16でしょう。
クリスチャンは、キリストとその言葉を知る機会を与えられたのだから、恐れおののくべきです。「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」ルカ12・47―。クリスチャンだからといって有利な立場にあるのではありません。むしろ、ノンクリスチャンよりも、もっと厳しい立場にあるのです。
飛躍しているのではと思った匿名の者です。詳細な説明を戴きありがとうございます。あなたのおっしゃることが本当によくわかりました。
削除「悪魔」という存在が最初から聖書の世界にあったわけではないでしょう。
返信削除神の意志に反抗する意思を「サタン」と呼び(それもなぜかバラモンか何かの魔神を差す“セイタン”と語呂の部分で結びついてしまった)それが長い歴史の中でキャラクター化されていったんでしょうね。ベルゼブブやバアルなど聖書に登場する人にあらざるもので特定の名称を与えられているものはたいてい「サタン」というよりは「デーモン」つまりよそ様の土着の神々です。キリスト教はその潔癖性ゆえそれらのものと共存する道は最初からない。敵対するのみです。しかしそれらデーモン諸氏が悪魔としてのサタンと結び付けられるのはファンタジックすぎます。中世の暗黒時代にキリスト教は真にお粗末なライトノベルにされてしまっています「引き下がれ、サタン」という言葉は悪魔という架空の存在に向けられたものではなく、ペトロの中にあった人間側の意見に対して向けられたものであり、ねっとりと翻訳をさかのぼってみると「ペトロよ、神の御子に対してサタンするな。お前の“サタンする”を引っ込めろ(サタンは神に逆らうことを差す動詞)」というニュアンスのほうが強くなってきます。神の意志に対して何かしら言い逆らったり、逆にこちらから神に指図すらしてしまうような哀しい自由意志(実際にはその自由とみなされているなにかが兄弟を裁いてしまう)をサタンと呼ぶのであって、それをキャラクター化、可視化して、人類の側から攻撃を加えることを可能にしようとした。それは完全な思考停止の逃げです。この思考がどれだけ多くのキリスト者を害悪に駆り立ててきたことか。神の御心に逆らう人間の心の働きを弱さとして認めず、キャラクター化して分離することで、自分の中から追い出したことにするそのふざけた論法は、はたから見ていて物凄く胡散臭いし、警戒感を抱きます。「悪から離れなさい」と言われてそうするよう努力したところでそもそも人間が悪によって生かされているんです。主の贖いにすべてを賭けることと自分自身が人間として成長することとは全く別のことだとしなければならない。さもなくば、努力が実らないからと言って、誰かを教会の中で小突くことになる。声を大にして言いたい。安易にモノをキャラクター化するなと
なるほど、「サタンするな」というニュアンスは知りませんでした。ありがとうございます。そのニュアンスのキャラクター化、可視化が「悪魔」の正体だというのは、だいぶ納得できるお話ですね。
削除中川健一牧師の3分でわかる聖書入門で、「悪魔は本当に存在するのですか?」の質問に対しての答えは「悪魔は存在する」です。悪魔は存在しないと思わせることが悪魔の策略とのことです。(回答する立場として悪魔は存在しないとは言えないでしょうが)悪魔は存在するとするならば、悪魔は人間自身なのでしょうか?自分は善人であると思っている人は悪魔の策略に落ちているのでしょうかね。
返信削除その動画は見たことがありませんが、どういう論理展開で「実在する」と言っているのでしょう。ちょっと見てみますね。
削除