クリスチャンって、「什一献金」を捧げるものなの?

2018年1月31日水曜日

「什一献金」問題

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什一献金を捧げ続け・・・これで良かったの?

 むかしむかし、ではありませんが、あるところに什一献金を捧げているクリスチャンがいました。
 彼は非常に真面目です。毎月収入のキッチリ十分の一を、教会に捧げていました。子供に何か買ってやる余裕はありませんが、「主が第一」なので仕方ありません。

 ところがある日、失業してしまいました。リストラに遭ったのです。やむなく失業手当をもらうことにしました。でも彼は真面目なので、そこからもキッチリ十分の一を教会に捧げます。そして就職活動をしました。が、これがなかなかうまく行きません。

 失業手当は平均給与の7割ほどですから、生活はカツカツです。というか、回りません。月末になると食費に事欠きました。でも礼拝で献金もしたいです(什一献金とは別に)。だから削れるところを削り、毎日節約です。子供の学校の給食費が払えなくなりましたが、これも「主のため」だから仕方ありません。

  何ヶ月かして再就職にこぎつけました。が、以前ほどの給与はもらえません。生活は苦しいままでした(それでも献金だけは律儀に続けるのでした)。

 そんなこんなで、子供が高校3年生になりました。大学に進学したいと言いだします。でも、そんなお金あるはずありません。そうだ、奨学金を借りればいいんだ! 書類を取り寄せてみましょう。なに? 連帯保証人が必要? しまった、頼む相手がいない。

 教会を優先するため、親とも親戚とも関係を断ってきたからです。友人もいません。再就職したばかりで、頼めるような上司もいません。

  というわけで、子供には大学進学を諦めさせ、就職させました。でも、すべてを神様に捧げてきたのだから、きっと報われるはずです。これで良かったんです。富に仕えず、主のみ仕えるとは、こういうことなんです。ハレルヤ!

  と、いうのは私の作り話なのですが、あながちフィクションでもありません。 似たようなケースを時々見るからです。
  さて、皆さんはこういうの、どう思われるでしょうか。
 信仰者としてあるべき姿でしょうか。それともやり過ぎでしょうか。

什一献金の扱われ方は

 教会に通っている皆さんに質問ですが、「什一献金」をされているでしょうか。

  こう書くと、私が什一献金に反対していると思われるかもしれませんが、別に反対はしていません。「どうしても収入の十分の一を捧げたい」と願う人は、そうしたらいいと思います。誰に迷惑を掛けるわけでもないでしょうから(無自覚的に家族に迷惑を掛けているかもしれませんが)。

  また、教会の運営の携わっておられる方は痛いほどわかると思いますが、什一献金は大切な収入源ですね。他に収益事業があるとか、大きな教団に属しているとか、すごいパトロンを抱えているとかでなければ、信徒の什一献金(+礼拝での献金)がほとんど唯一の収入源のはずだからです。
 まさか教会を潰すわけにも行かないでしょうから、「皆で什一献金しましょう」みたいな話になるのは、当然です。

  では次の質問ですが、その什一献金は「義務」でしょうか。
 あるいは「義務」という言葉でなくても、事実上のルールとなっているでしょうか。
 そしてもし義務になっているのでしたら、その「根拠」は何なのでしょうか。

  もし根拠が聖書からでなく、あくまで教会の独自ルールとして、「うちの会員になったら収入の十分の一を会費として払っていただきます」みたいな取り決めをしているのでしたら、それはそれで結構です。 教会に籍を置くための「会費」であると一律に決めているなら、信徒の皆さんは納得して払っているはずでしょう。それぞれが納得して会員になり、什一を払っているなら、何も問題ありません。

 ですが、もし聖書を根拠にしているとしたら、若干問題ではないかと私は思います。

 たぶん旧約聖書のマラキ書を根拠にしているのでしょう(他にもいくつかあります)。
 けれど、 什一献金はそもそも旧約聖書の概念ですね。イスラエル民族の、共同体としてのルールという側面もありました。
 というのは、12部族のうちレビ族だけは土地を持たず、専ら祭司の役割を担っていたので、他の部族と違って収入源がなかったからです。他の11部族が収入の十分の一をそれぞれ捧げ、それを集めてレビ族の生活費に充てていたわけです(11部族のそれぞれ十分の一だから、ちょど1部族分くらいになるのでしょうね)。

 その制度を現代社会にも適用すべきなのか? というのがここで疑問になります。「働き人を支える為だからいいのだ」という意見もあるでしょうが、じゃあ新約聖書の人たちはどうしていたのですか? ある程度は支えられていたでしょうけれど、それが「収入の十分の一だった」という記述はありませんが?
 むしろパウロが言っているのは、「収入に応じて」「可能なだけ」というニュアンスですよね。

「十分の一を捧げなさい」という命令は、新約聖書のどこにもないのです。
 だから「会費」でなく、「聖書に書いてあるから」という理由で信徒に什一献金を課すのは、微妙なところです。

 もちろん、それを「信仰」として解釈するのは、それぞれの教会の自由です。信徒が払ってくれるなら、課せばいいでしょう。でもその場合、「聖書に収入の十分の一を捧げるように書いてあるから」と言うのでなく、「うちの教会はそう解釈しているから」と言うべきです。でないと、フェアでありません。

信仰というより教会政治

 お金の扱い方は人それぞれ、考え方も人それぞれでしょうけれど、教会に捧げる前に、自分の生活を安定させるのが先だと私は思います。今は先の見えない時代ですから、特に、将来に対する備えが必要ではないでしょうか。

 でもこう言うと、「いや、神様を第一とすべきだ」と言ってマタイの福音書6章33節を持ち出す人がいると思います。
 そういう人に、私は逆に尋ねましょう。
「神様を第一にする」とは、お金を払うことなのですか?
 お金を払わないと、神様を第一にできないのですか?

 お金を必要とするのは神様でなく、教会です。
 前述の通り、什一献金が大事な収入源になっている教会があります。そういうところは今更什一献金を廃止するなんてできないでしょう。だからこれまで通り旧約聖書のマラキ書を開いて、什一の義務性・正当性を訴え続けると思います。でも、それは聖書をよく知らない人にとっては詐欺に近いことだと知っておいて下さい。

 というわけで、什一献金は「信仰」の話というより、実は「教会政治」の話なのですね。
 皆さんは、どう考えるでしょうか。

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