「断食」ならぬ「断教会」の勧め

2018年1月29日月曜日

「神の導き」に関する問題

t f B! P L
「神の導き」を捏造してしまう理由は

 前回は クリスチャンの結婚って、「神の導き」なんですか? という記事でしたが、ちょっと続きを書きたいと思います。

「神の導きならば◯◯しましょう」みたいなことを言う人がいて、私に言わせれば完全に勘違いしているのですが、それは彼らのせいではありません。教会でそう教えられているからです。
 彼らの指導者(多くは牧師)が「神の導き」を連発するので、彼らの判断基準も「神の導き」になってしまうのです。
 だから何かするにしてもしないにしても、

「それは神の導きなのですか?」
「神に祈って、ちゃんと答えを得たのですか?」
「神からのゴーサインはあるのですか?」

 みたいなことを、牧師に問われるのですね。だから信徒は、それが「神の導き」であると証明しなければなりません。それで一生懸命祈ったり、聖書を読んだり、ディボーションしたり、賛美したりして、導きかどうか見極めようとします(導きを求めて賛美する、というのもよくわからない話なんですが)。

 でも、正直なところ、神様からのアンサーがズバッと語られるわけではありません。
 だから聖書を読んでいて感動した箇所とか、祈っていて心に感じたこととか、日常の中でふと閃いたこととか、夢で見たこととか、そういうのを「神からの啓示だ」「導きだ」「語りかけだ」と決めつけてしまうのです。ほとんど「捏造」だと思うのですが。
 でもそうでもしないと、いつまで経っても「神の導き」を確認できないのですね。時間とともに焦りが出てきて、「何でもいいから答えを得ないと」という追い詰められた心理になっていきます。そして結果的に、「神の答え」をこじつけてしまうのです。

「神の導き」とはそもそも何なのか、というふうには考えないのですね。

 ある時、教会で宣教旅行が計画されました。詳細は省きますが魅力的な企画で、大勢が参加を希望しました。でも牧師はこういう参加条件を付けました。
祈って導かれた人だけが参加して下さい。遊びではないので
 さて、どうなったと思いますか。
 皆で「神の導き」の捏造合戦です。

「聖書のこの箇所が示されました」
「行くように語られました」
「昨日これこれこういう出来事がありました。これは行けというサインだと信じます」
「ロバの子でも神は用いられると書いてあります。私はロバのようなものです。でも信仰によって・・・(以下略)」

 単純に行きたいって言えばいいんじゃないかな、と私は思いましたが、そう言えないのは彼らのせいではありません。前述の通り、牧師からそう指導されているからです。そういう教会では、何でも「導き」を絡めないと、二進も三進も行かないのです。

人はどうしても環境に左右されるので・・・

 聖書には「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」という言葉があります(コリント第一・15章33節)。悪友を持つと自分も悪くなる、ということですね。簡単に言えば。

 これを教会にも当てはまります。すなわち「導き」を強調する教会に通うと、「導き」ばっかり言うクリスチャンになります。変な教会に行くと、変なクリスチャンになります。環境の力は馬鹿にできません。

 だからどういうクリスチャンになるかは、どういう教会に行くかに左右されます。あるいは、どういう牧師に教えられるか、に。
 人は良くも悪くも、環境や人に影響され、染まっていくものです。だから「染まらないように」と頑張るよりは、「こういうふうに染まりたい」と意識を変えて、自ら環境を選びに行った方がいいかもしれません。

 以前、と言っても10年以上前の話ですが、高校時代の同級生が、突然連絡してきました。久しぶりに会いたいと。さほど仲良くなかったので不思議でしたが、行ってみて納得。ア◯ウェイにすっかりハマっていて、私を巻き込もうと企んでいたのです。
 おかげでファミレスで小一時間、ア◯ウェイの素晴らしさを聞かされる羽目になりました。最後はケンカ別れになりましたが(笑)。

 高校時代はまともな人でしたが、まあいろいろ事情があったのでしょうね。それにしても人間とは変わるものです。それを実感した出来事でした。

 ア◯ウェイと言えば、ある宣教師夫人もハマっていました。
 だいぶ前の話ですが、健康食品か何かのサンプルが、その夫人から送られてきました。手紙が添えられていて、商品の素晴らしさが力説されています。なぜか「怪しいものではありません」という台詞も繰り返されていて、逆に怪しく感じましたが(笑)。

 教会で生き生きと奉仕していた青年が、結婚して献身して、地方の山奥の祈祷施設の管理人になりました。でも数年後に再会したらすっかり参ってしまっていて、見る影もなかったです。詳しくわかりませんが、よほど過酷な生活だったのでしょう。掛ける言葉がありませんでした。

 環境が、人を変えるわけです。

 だから「神の導き」ばっかり言う人たちも、そういう教会でガッチリ教え込まれているのですね。ほとんど洗脳だと思うのですが。

 そういう人たちと「導き」について論じ合っても、論理的な話になりません。こっちが「論理」で話を組み立てても、向こうは「信仰」で話を組み立てますから。論理vs信仰。そもそも土俵が違います。パウロ的に言ったら「空を打つ拳闘」みたいなものですね。こっちも向こうも互いに空を打っているだけ、というエアーボクシング(笑)。

 そういう人たちは断食も熱心にやるのですが、食事を抜くより、教会そのものを抜いた方が良いと私は思います。1ヶ月くらい教会に行かないで、断食ならぬ「断教会」をしてみるわけです。たぶん見方や考え方が変わると思います。いかがでしょうか(やらないか笑)。

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