今回はちょっと、「進化論」と「創造論」について書きたいと思います。
皆さんの教会は「創造論」推進派ですか。それとも「進化論」でオッケー派ですか。
そしてあなた自身は、どのように考えていますか。
これはアメリカではずっと議論されている問題です。裁判にまでなりました。アメリカでは公教育が進化論を教えていて、ファンダメンタルな教会群がそれに反対しているからです。彼らは反進化論(創造論)を主張しています。
進化論 vs 創造論、という構図です。
日本では、聖霊派系の教会群が創造論を主張しています。と言っても日本では絶対数が少ないので、その声は非常に小さく、まったく相手にされていませんが。
創造論者の主張は「聖書の記述はすべて正である」というものです。
だから「神が6日間で世界を創造した」というのを文字通り信じています。すなわち何もなかった空間に光ができ、闇ができ、大空ができ、大洋ができ、地面ができ(以下略)、というのを1週間足らずで神がやった、と信じているのです。
そんな創造論者が指摘する、進化論の大きな問題点は、「猿が人間になるはずがない」というものですね。「生物は種にしたがって造られたのだから、猿は猿、人間は人間なのだ」と。
でも「猿が人間になった」というのは、進化論の主張を簡略化しすぎた表現です。あまり正確ではありません。
進化論は、何かを断言するものではありません。生命のなりたちを探求する「試み」であり、科学です。研究の途上なので沢山の穴があり、欠点があります。そして現段階の仮説として、「突然変異が生命進化の鍵ではないか」と推測しているわけです。と私は理解しています。
だから「進化論者は猿が人間になったと言っている」というのは、正確ではありません。
さすがに、猿が人間になるというのはおかしい気がしますね。
でもだからと言って、進化論が全否定されるわけではありません。実際、細胞レベルの突然変異は常に起こっていますし、形質が大きく異なる個体が生まれることもあります。これは進化の「可能性」を示唆していて、その可能性自体は否定できません。猿の一件がおかしいからって、それで全部がダメとは言えないのです。
「進化論は科学的に証明できない」と創造論者は言いますが、では逆はどうでしょう。創造論は科学的に証明できるのでしょうか? できません。
創造論のズルいのは、「神の力」「創造の御業」というマジックワードを使うところです。
Q「神が6日間で天地万物を創ったのですか?」
↓
A「そうです。聖書にそう書いてありますから」
↓
Q「ではそのプロセスはどういったものだったのですか?」
↓
A「それは神の創造の力です」
↓
Q「その力とはどういったものなのですか?」
↓
A「それは神のみが知るところです」
創造論者は進化論の「穴」を指摘しますが、それを言うなら創造論こそ「穴」だらけです。わからないことは全部「神の力」で済ませていますから。まったく科学的でなく、同じ土俵に立っていると言えません。
私が思うに、「進化論 vs 創造論」の本当の問題点は、この「同じ土俵に立っていない」という点です。進化論が「科学的探求」であるのに対して、創造論が「信仰の表明」だからです。
科学と信仰がぶつかり合っても、そもそもベクトルが違いますから、結局「話にならない」のです。
ある病院での話です。
入院患者のAさんは、某学会の熱心な信徒です。毎朝ベッドで1時間以上、念仏(?)を唱えています。
ところが大部屋なので、他の患者さんたちが迷惑していました。
「念仏を唱えるのはいいけれど、短めにしてほしい」
皆でそうAさんにお願いしました。
それを聞いたAさんは、激怒しました。
「信仰の自由を奪う気か。俺が祈れば皆に良いことがあるのに、なぜ邪魔するんだ。俺はどんなに止められても、祈るのをやめない」
そんな感じで、まったく話になりませんでした。理屈も通りません。
進化論 vs 創造論の議論を見ると、よくこのAさんのことを思い出します。
私のいた教会は聖霊派ではありませんでしたが、創造論を主張しています。進化論は完璧ではなく、問題点が多数存在するのだとよく言っていました。でもよく考えれば創造論も完璧な主張とは言えないと思います。
返信削除今は分からなくても、いつか信じられるようになると言われ続けてきました。でも学校で進化論に慣れ親しんでいるせいもあって、どうしても創造論を信じることは出来ませんでした。それは今も同じかもしれません。しかし、何が本当なのかは誰にも分からないのだから議論してもどこにも着地しないのでは?と考えています。進化論を信じようが創造論を信じようが勝手ですが、それを他の人に押し付けるのはやめてもらいたいというのが本音です。
教会によっては、クリスチャンなら創造論を信じるべき、みたいな明確な圧力がありますね。個人の考え方より教会として一致して信じましょう、みたいな。
削除でも進化論か創造論かは、信仰生活とも教会生活とも、直接関係ないはずですよね。
よく考えれば、創世記の人類創造までの創造プロセスは、
返信削除目撃者ゼロですよね。
人間、いないんだから。
確固とした科学的証明も証拠もないし。
なぜ信じられるのでしょうかね。
親父、爺さま、先生の言うことには、
仮に無駄はないとしても、
全て正しいというわけでもなかろうに。
どうして創世記の著者編集者は、
自分の生まれるはるか遠い昔のことを、
今見てきたかのように語れたのか、
それをユダヤ族は自分たちの歴史として、
豪語できるのか、誇りにできるのか。
そして、それを完全に事実だと喜々として全面的に受け入れる
福音派を名乗る新興宗教系クリスチャンこそ、
実はいい面の皮というものではないのでしょうかねぇ。
今後の科学の発展で何か解明されると面白いですね。
削除創世記は人の経験から記されたのではなく、神が預言者を通して明らかにされた記録です。
削除創世記はエジプトを脱出したモーゼが啓示を受けて記録しました。
新旧約聖書は同じ神がその時代ごとに生きる預言者に啓示されたので首尾一貫しています。 問題は偽預言者も存在することです。
創世記が書かれたのはバビロン捕囚の時代だと考古学的、歴史学的に考察されています。モーセが書いたというのは根拠がありません。証明することもできません。モーセが書いたと信じるのはあなたの信仰の自由ですが、それを事実として認めることはできません。
削除人間って自分に都合のいい理解をしがちだからね。
返信削除教会に行ってる人は、皆基本的に創造論を教えられていると思う。
だからか「進化論は穴だらけで単なる仮説に過ぎない」って言ってる人(クリスチャン)が大勢いる。創造論とどっちもどっちってよく聞かれる。
とりあえずそれは間違い。進化論はニュートン力学と同じくらい事実として確立してる。化石が捏造だとか、年代測定法がウソだとか、アレコレ言われても揺るがないレベル。
だから「科学」として世界に認められてるんだよ。
だけど、そうすると、アダムとエバの創造はどうなるのってなっちゃう。実際、クリスチャンの科学者はコレ結構悩んでるんじゃないかな?突き詰めるとかなかな深いかも。
あ、それから、なんで創造論がID論なんてモノまで作って科学を装っているかっていうと、アメリカにおいては公立学校で特定の宗教を教えられないから。宗教じゃなくて科学ですよと主張せざるをえないってのがほんとのところみたい。
おっしゃる通り、「科学vs信仰」みたいな不毛な争いになっていると思いますね。どうにも決着しない議論というか。アメリカなどの西欧圏はなんでも白黒はっきりしたいようなので、裁判にまで発展したのですが、それでも決着しないという先の見えなさがあります。
削除私はイエスを信じる身ですが、科学的には創造論よりも進化論のほうが信憑性は高いと思います。
返信削除そのことで葛藤を感じたことはありませんでした。聖書は科学の本ではなく、考古学の本ではない。聖書に科学を求めているのは人間のほうであって、神ではない。神が聖書で伝えたかったのは別のことでしょう。
神の言葉は人間によって聞かれ、人間によって宣べ伝えられる。神の言葉は、当時の人間の世界観、人間観、神話の言葉を用いて語られた。もし、神がいるとして、神がどの時代にも属さないような抽象的な言葉で語られたとしたら、宣べ伝える預言者も聴衆も、まったく理解できず、心に響かなかったでしょう。
聖書で描かれる世界は大部分が神話であり、フィクションでしょう。その意味で、相対化されてしかるべきだと思います。私が知る限り、創世記の楽園追放も、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなどの族長の存在も、モーセによる出エジプトも、フィクションだと明らかされているはずです。
では、聖書は全くのおとぎ話なのかというと、そうではありません。
聖書が伝えたいのは、人間の卑小さ、弱さ、罪や悪に対する無力。それにも関わらず、善き社会、善き人間に憧れ、目指そうとする人間の真実でしょう。
私たちは、どんな世界が善き世界で、どんな人間が善き人間かを知りながら、自分の無力や弱さに落胆しつつもがいているでしょう。それは、本来あるべき社会や、本来あるべき自分から「墜ちた」ということであり、失われた「楽園」を取り戻そうとする試みではないでしょうか?
私はイエスにおける神の存在を信じますが、たとえ聖書の大部分がフィクションだとしても、私は恐れません。イエスのエピソードが伝えられるところでは、必ず彼に従おうとする人々が興るからです。イエスは生きており、人間を生まれ変わらせる。彼が世界を治めたもうゆえに、人間は決して見捨てられているのではない。私が神を信じるのは、聖書が科学的、考古学的に真実だからではなくて、イエスが人間を生まれ変わらせる力があることを信じるからです。
どこかの神学者が、聖書の一字一句を盲信して律法化することを「書物としての教皇」と呼びました。
もともと、ローマ・カトリックの教皇崇拝に対して「聖書に帰れ」というスローガンのもとにプロテスタントは誕生したわけですが、聖書を絶対視するあまり、「イエスにおける神の救い」が霞んでしまっては、「教皇」と同じではないか? 聖書が教皇になってしまっているのではないか?ということですね。
聖書を振りかざしながら、誰も癒さないし、誰も救わないとしたら、それは「イエスにおける神」を信じているのではなく、聖書という名の「教皇」を信じているのでしょう。
Mac Winです。違う意見を。私は学生時代、進化論をいろいろ学んで「コリャ自然法則だけでは無いわー。」と思うに至りクリスチャンになりました。そういう人もいますので。大事と思うのはその辺で論争してもしゃーないかなと。ちなみに教会の人たちは進化論なのでその話題は流して黙ってます(笑)。
返信削除ちなみに、コメントはやはりiPad,iPodではだめでPCでしかできないようです。
たしかに、進化論も(少なくとも現段階では)馬鹿げた感じがしますね。
削除一方で創造論も根拠が弱く、また「天地創造の記述そのものがフィクション」という説もありますから、なんとも難しい話になってしまいます。
論争そのものがあまり意味がない、というのが冷静な意見だと思いますね。
聖書に書いてあることを絶対視することは、聖書の偶像化であり、聖書という書物を神としてあがめ奉ることですね。カトリックでは、聖書と聖伝と言い方で、聖書の絶対化を避けてきたわけですね。教皇の絶対化ではないですね。聖伝とは何かというと、最近の例では第2バチカン公会議の決定がそれにあたりますね。公会議の決定によって教理は変化するというわけですね。進化論は教理として肯定されているのが現状ですね。宇宙の創造、地球の創造の話は神話だ、お話だ、そのお話の意味していることを考えようというわけですね。
返信削除三位一体の教理と同じく、公会議によって決められていくのが教理ですから、その時代時代の解釈や考え方、科学の発展によって、変わっていくものですよね。
削除私の言葉が足りませんでした。私は今のローマ・カトリックの教皇をとても尊敬しております。
返信削除今のユダヤ人はイエスを十字架へ追いやったユダヤ人ではないし、今のカトリックはルターが罵倒したカトリックではない。昔、過ちを犯したからといって、今も罪人であるかのように語るのは避けるべきでした。
むしろ、もしイエスが現代に現れたとしたら、もう一度イエスを十字架に磔るのは、「聖書に忠実」を自負するプロテスタントかもしれません。
神の前で義しいのは、過ちを犯したことがないかのように自分たちの義しさを誇る人々ではなく、過去の過ちを認め、小さくなって神の前で悔い改める「放蕩息子」たちなのでしょう。
創造論に関しましては、アメリカの最先端の科学を研究する科学者には創造論者が多いと聞いたことがあります。なぜ、常識では完全に相容れないものが
、一人の人間の内で同居することができるのでしょう?
振り返って見れば、近代科学は西欧が世俗化した時代においてではなく、むしろキリスト教が支配的だった時代に誕生しました。
初期の科学者は、無神論的な動機から自然を観察したのではなく、信仰的な動機から自然を観察しました。彼らは、自然から創造者の意図や計画に触れようと試みたのです。
西欧に比べて、はるかに精神的に自由な風土であった日本において、なぜ近代科学が誕生せず、キリスト教でガチガチに縛られていたヨーロッパで、なぜ近代科学が隆盛を極めたのか?科学を内面から推し進めた力や動機は何だったのか?
哲学者のニーチェは、ヨーッパ人に徹底的に合理性を追求する傾向を与えたのはキリスト教だと述べました。キリスト教は、「神の真理は、人間の感覚を越えた先にある。人間は感覚をアテにせず、肉体の欲求をできるだけ抑えて、真理を認識しなければならない」と教えました。結果、ヨーロッパ人に「とにもかくにも真理を! 全てを犠牲にしても真理を!」と、真理に対する誠実さを植え付けました。
ところが、キリスト教によって植え付けられた真理への誠実さが、今度はキリスト教そのものや聖書に向けられるようになります。結果、ヨーロッパ人の合理性がキリスト教や聖書を徹底的に検証し、その説得力や史実性を解体していくことになりました。これがヨーロッパにおける「神の死」のあらましです。
現在のヨーロッパは、キリスト教を文化の母体としながら、他のどの地域よりも世俗的だと思うのですが、まさしくそれはキリスト教のせいであり、歴史的な必然だった、というのがニーチェの予言でした。
真摯でわかりやすい論考をありがとうございます。
削除キリスト教は科学の発展に寄与した一面と、一方で退けた一面もあったかと思います。いずれにせよ近代科学とキリスト教諸国の関係は、切っても切れないものでしょうね。
それにしても、現代のキリストを十字架につけるのはプロテスタントかもしれない、というのはその通りかもしれません。