キリスト教と死後の世界

2018年1月17日水曜日

「天国」あるいは「地獄」の問題

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天国、地獄、よみ、煉獄

 プロテスタントの方であれば「天国」、「地獄」、「よみ」について教会で聞いたことがあると思います。カトリックの方であれば、そこに「煉獄」も加わるようですが、いずれにせよ、「死後の世界」についての話です。

 時々「天国を見てきた」「地獄を見てきた」と言う人がいます。それぞれ詳細な描写をして下さっています。天国に自分用の宮殿が用意されていた、なんて人もいます。それが本当かどうか知りませんし、確かめようもありませんが。
 あるいは、確かめられないから、いろいろ言えるのかもしれませんが。

臨死体験と天国(あるいは地獄)

 それと関係あるかないか微妙ですが、「臨死体験」をされた方々がいます。短時間であれ「死亡」して、その間魂が肉体を離れ、いわゆる「死後の世界」を見てきた、という体験です。それが天国なのか地獄なのか、よみ(ハデス)なのか煉獄なのかわかりませんが、とにかく「どこか」に移動した(あるいは移動したと感じた)ようです。これはけっこうな数の報告があるそうなので、臨死体験自体は、「ある」ようです。

 臨死体験には、ある程度共通性が認められています。
 たとえば欧米では「強い光を見た」「神の存在を感じた」という臨死体験が多いとのこと。しかも居心地が良かったようで、「これなら死はもう怖くない」と言う人が多いと聞きます。

 ということは、そこはよみなのでしょうか。あるいは天国なのでしょうか。そして現在一般的にイメージされる「天国観」が、結局は正しいのでしょうか。

 でも話はそう簡単ではありません。
 たとえば日本では、「大きな川を見た」「先に死んだ身内に会った」という臨死体験が多いそうです。一方でインドでは、「閻魔の審判を見た」というのが多いとか。
 つまり、臨死体験には地域差があるのです。

 ということは、天国にも地域差があるのでしょうか。人は死んだ地域によって、それぞれ違うところに行くのでしょうか。でもそれだと、キリスト教的「天国観」と整合性が取れません。皆同じところに行くはずですから。

 そもそもの話ですが、臨死体験は脳の知覚システムの(一時的な)異常だという説もあります。本当はどこにも行っていないのに、あたかも不思議な場所にいるかのように脳が勘違いしている、という。
 それなら、臨死体験に地域差があるのも考えやすいです。日本には文化的に「三途の川」や「お彼岸」のイメージがありますから、臨死状態で「川」や「死んだ身内」を見るのは、ありそうです。欧米にはキリスト教文化的な「天国」のイメージがありますから、臨死状態で「光」や「神の存在感」を感じるのも、やはりありそうです。
 つまり、文化的にもともと持っている「死後のイメージ」が、臨死状態で想起されるのかもしれない、ということです。

 であるなら、臨死あるいはそれに近い状況で「天国(あるいは地獄)を見た」という証言は、信憑性が低いことになります。
 臨死体験を否定しているのではありませんよ。臨死によって「見た」とする光景が、個人が持っている「死後のイメージ」の投影かもしれない、という話です。宗教的な天国(あるいは地獄)ではなくて。

 余談ですが、最近リメイクされた映画『フラットライナーズ』も臨死体験をテーマにしています。
 死後の世界に魅せられた医学生たちが、内密に臨死実験を行います。人為的に心停止を起こし、数分後に蘇生させる、という超危険な実験するわけですが、なんて馬鹿な人たちでしょう(笑)。

 ともあれ、彼らはそれぞれ個別の「死後の世界」を見てきます。皆ちがうのですね。やはりそれぞれの心配事やトラウマが、そこに投影されていたのです。天国でも地獄でもなく。
 結局映画では、死後の世界が何なのかはわからないままでした。

 まあ、ただの映画の話なんですけどね。

天国と地獄の「歴史」

 クリスチャンの方なら、天国や地獄の存在を、割と自然に信じていると思います。詳しくわからないにしても、そういうものは「ある」と。
 そして死後に「主の裁き」があるから、地上ではできるだけ敬虔に生きよう、悪い裁きを受けないように生きよう、下手して地獄に行かないようにしよう、みたいに考えます。

 でも聖書を見てみると、いわゆる天国(千年王国か新天新地かといった区別がありますが)に関する記述は、少ないですね。イザヤ書とエゼキエル書、各福音書、黙示録あたりでしょうか。ダニエル書にもちょっとあるかな。
 でもそれらを総合しても、はっきり「これ」とわかることはほとんどありません。地獄にしても、よみにしてもそうです。というか、地獄などはほとんど記述がありません。「火と硫黄」くらいです。

 カトリックが採用する「煉獄」は、プロテスタント的には「よみ」に近い概念ではないかと思います。天国と地獄の中間、冷静と情熱の間、みたいな感じです(すみません後者は冗談です)。

 人は死んだら煉獄に行って、生前の罪の重さに従って、苦行をします。そしてある程度認められるとレベルが上がり、最終的に天国に行けます。というのが煉獄のイメージですね。ダンテが『神曲』において具現化しました。仏教的な地獄にもちょっと似ています。

 でも天国にしても、地獄にしても、よみにしても、煉獄にしても、後付けで神学化されたものです。少なくともキリスト教初期の人たちは、そういう認識はしていませんでした。煉獄に至っては中世後期にできた概念です。
 だから天国にも地獄にも、その時代その時代の考え方が反映されている、ということです。そして時代とともに変遷してきました。たとえば中世では「地獄に堕ちちゃいかん」と恐れる人が大勢いたようですが、反対に近年の欧米では、そんな心配をする人は少なくなったようです。罪意識が変わってきたのかもしれません。

 原理主義的な人は、今考えられている天国や地獄を「絶対的なもの」と信じていますが、そういう変遷を経てきたものなので、絶対的とは言えません。今後も変わっていく可能性があります。

 だから流動的に考える余地を残しておいた方がいいのかな、と私は思っています。

天国や地獄にこだわってもロクなことがない

 天国や地獄をやたら強調する教会、牧師がいますが、注意した方がいいです。
 なぜなら天国も地獄も「脅し」の材料になるからです。

 こういう教会生活をすれば天国に行けますよ、これだけ奉仕すれば天国でいい思いができますよ、こういうことをしたら地獄に堕ちますよ、という報酬あるいは恐怖を提示されたら、疑って下さい。いくら口で「あなたのため」と言っても、結局はあなたを利用したいだけかもしれませんから。

 また信仰の動機が「〇〇したら天国に行ける」とか「××したら地獄に堕ちてしまう」とかいうものなら、あまり褒められたものではありません。結局自分がいい思いしたいだけでしょ、という話になりますから。

 つまり、天国や地獄にこだわりすぎるとロクなことがない、ということです。大雑把な言い方ですが。

 はい、それでは今日の結論。
 天国とか地獄とか、そんなこと難しいことは放っておいて、今日すべきことをしましょう(これだけ書いておいてそこかよ笑)。

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