天国、地獄、よみ、煉獄
プロテスタントの方であれば「天国」、「地獄」、「よみ」について教会で聞いたことがあると思います。カトリックの方であれば、そこに「煉獄」も加わるようですが、いずれにせよ、「死後の世界」についての話です。
時々「天国を見てきた」「地獄を見てきた」と言う人がいます。それぞれ詳細な描写をして下さっています。天国に自分用の宮殿が用意されていた、なんて人もいます。それが本当かどうか知りませんし、確かめようもありませんが。
あるいは、確かめられないから、いろいろ言えるのかもしれませんが。
臨死体験と天国(あるいは地獄)
それと関係あるかないか微妙ですが、「臨死体験」をされた方々がいます。短時間であれ「死亡」して、その間魂が肉体を離れ、いわゆる「死後の世界」を見てきた、という体験です。それが天国なのか地獄なのか、よみ(ハデス)なのか煉獄なのかわかりませんが、とにかく「どこか」に移動した(あるいは移動したと感じた)ようです。これはけっこうな数の報告があるそうなので、臨死体験自体は、「ある」ようです。
臨死体験には、ある程度共通性が認められています。
たとえば欧米では「強い光を見た」「神の存在を感じた」という臨死体験が多いとのこと。しかも居心地が良かったようで、「これなら死はもう怖くない」と言う人が多いと聞きます。
ということは、そこはよみなのでしょうか。あるいは天国なのでしょうか。そして現在一般的にイメージされる「天国観」が、結局は正しいのでしょうか。
でも話はそう簡単ではありません。
たとえば日本では、「大きな川を見た」「先に死んだ身内に会った」という臨死体験が多いそうです。一方でインドでは、「閻魔の審判を見た」というのが多いとか。
つまり、臨死体験には地域差があるのです。
ということは、天国にも地域差があるのでしょうか。人は死んだ地域によって、それぞれ違うところに行くのでしょうか。でもそれだと、キリスト教的「天国観」と整合性が取れません。皆同じところに行くはずですから。
そもそもの話ですが、臨死体験は脳の知覚システムの(一時的な)異常だという説もあります。本当はどこにも行っていないのに、あたかも不思議な場所にいるかのように脳が勘違いしている、という。
それなら、臨死体験に地域差があるのも考えやすいです。日本には文化的に「三途の川」や「お彼岸」のイメージがありますから、臨死状態で「川」や「死んだ身内」を見るのは、ありそうです。欧米にはキリスト教文化的な「天国」のイメージがありますから、臨死状態で「光」や「神の存在感」を感じるのも、やはりありそうです。
つまり、文化的にもともと持っている「死後のイメージ」が、臨死状態で想起されるのかもしれない、ということです。
であるなら、臨死あるいはそれに近い状況で「天国(あるいは地獄)を見た」という証言は、信憑性が低いことになります。
臨死体験を否定しているのではありませんよ。臨死によって「見た」とする光景が、個人が持っている「死後のイメージ」の投影かもしれない、という話です。宗教的な天国(あるいは地獄)ではなくて。
余談ですが、最近リメイクされた映画『フラットライナーズ』も臨死体験をテーマにしています。
死後の世界に魅せられた医学生たちが、内密に臨死実験を行います。人為的に心停止を起こし、数分後に蘇生させる、という超危険な実験するわけですが、なんて馬鹿な人たちでしょう(笑)。
ともあれ、彼らはそれぞれ個別の「死後の世界」を見てきます。皆ちがうのですね。やはりそれぞれの心配事やトラウマが、そこに投影されていたのです。天国でも地獄でもなく。
結局映画では、死後の世界が何なのかはわからないままでした。
まあ、ただの映画の話なんですけどね。
天国と地獄の「歴史」
クリスチャンの方なら、天国や地獄の存在を、割と自然に信じていると思います。詳しくわからないにしても、そういうものは「ある」と。
そして死後に「主の裁き」があるから、地上ではできるだけ敬虔に生きよう、悪い裁きを受けないように生きよう、下手して地獄に行かないようにしよう、みたいに考えます。
でも聖書を見てみると、いわゆる天国(千年王国か新天新地かといった区別がありますが)に関する記述は、少ないですね。イザヤ書とエゼキエル書、各福音書、黙示録あたりでしょうか。ダニエル書にもちょっとあるかな。
でもそれらを総合しても、はっきり「これ」とわかることはほとんどありません。地獄にしても、よみにしてもそうです。というか、地獄などはほとんど記述がありません。「火と硫黄」くらいです。
カトリックが採用する「煉獄」は、プロテスタント的には「よみ」に近い概念ではないかと思います。天国と地獄の中間、冷静と情熱の間、みたいな感じです(すみません後者は冗談です)。
人は死んだら煉獄に行って、生前の罪の重さに従って、苦行をします。そしてある程度認められるとレベルが上がり、最終的に天国に行けます。というのが煉獄のイメージですね。ダンテが『神曲』において具現化しました。仏教的な地獄にもちょっと似ています。
でも天国にしても、地獄にしても、よみにしても、煉獄にしても、後付けで神学化されたものです。少なくともキリスト教初期の人たちは、そういう認識はしていませんでした。煉獄に至っては中世後期にできた概念です。
だから天国にも地獄にも、その時代その時代の考え方が反映されている、ということです。そして時代とともに変遷してきました。たとえば中世では「地獄に堕ちちゃいかん」と恐れる人が大勢いたようですが、反対に近年の欧米では、そんな心配をする人は少なくなったようです。罪意識が変わってきたのかもしれません。
原理主義的な人は、今考えられている天国や地獄を「絶対的なもの」と信じていますが、そういう変遷を経てきたものなので、絶対的とは言えません。今後も変わっていく可能性があります。
だから流動的に考える余地を残しておいた方がいいのかな、と私は思っています。
天国や地獄にこだわってもロクなことがない
天国や地獄をやたら強調する教会、牧師がいますが、注意した方がいいです。
なぜなら天国も地獄も「脅し」の材料になるからです。
こういう教会生活をすれば天国に行けますよ、これだけ奉仕すれば天国でいい思いができますよ、こういうことをしたら地獄に堕ちますよ、という報酬あるいは恐怖を提示されたら、疑って下さい。いくら口で「あなたのため」と言っても、結局はあなたを利用したいだけかもしれませんから。
また信仰の動機が「〇〇したら天国に行ける」とか「××したら地獄に堕ちてしまう」とかいうものなら、あまり褒められたものではありません。結局自分がいい思いしたいだけでしょ、という話になりますから。
つまり、天国や地獄にこだわりすぎるとロクなことがない、ということです。大雑把な言い方ですが。
はい、それでは今日の結論。
天国とか地獄とか、そんなこと難しいことは放っておいて、今日すべきことをしましょう(これだけ書いておいてそこかよ笑)。
煉獄に関しては、西洋では「神曲」のイメージが一般化していますね。ついでに言えば、地獄も天国もですが。一般的にはプロテスタント教会では最後の審判まで眠りについているのが死後のイメージでしょうね。カトリックでは、2審判制度になっていて、黄泉に下らずに天国に直行する人がいるが、直行する人以外は黄泉に下る。ここで煉獄グループと地獄グループに分けられる。地獄グループは地獄に直行する。煉獄グループは火による清めを受けて修行する。もっとも、寒い地方の人は火は冷たい火で凍らされる、暑い地方の人は火は熱いとイメージしているそうですが・・清めを受けて修行する故人を援助するためにミサでは祈りを捧げる。無事修行を終えた故人は、最後の審判の時に天国の扉が開くのを待っている、ということになりますね。
返信削除日本的に言えば、修行者が冷たい滝に打たれたり、燃えさかるたき火の中をくぐるというようなイメージの修行をしているということでしょう。
以下は、日本の仏教各派の死後の世界観の資料ですので、何かの参考にしてください。
主要7宗派の出版物に見られる霊魂観と死後の世界
●主要7宗派の出版物に見られる霊魂観と死後の世界
※微妙な言説があるので、誤解を避けるため詳細は本文参照のこと。
※■は宗祖、◆は本尊、霊魂観の印は、○は霊魂に肯定的、×は否定的、△はその他
宗祖と本尊 霊魂観(上段)と「死後の世界」(下段)
高野山真言宗
■弘法大師空海(774~835年)
◆大日如来(総本尊) ○
弥勒菩薩の都率浄土
※霊が浄土へ行くまで49日の中陰(中有)を認める。
天台宗
■伝教大師最澄(767~822年)
◆久遠実成無作(※1)の本仏 ○
阿弥陀如来の極楽浄土
※死者が浄土へ行くまでの49日の中陰を認める。
浄土宗
■法然(1133~1212年)
◆阿弥陀仏(阿弥陀如来) △教義では否定するが、習俗としての霊魂の存在には寛容
阿弥陀如来の極楽浄土
※ただし、極楽浄土で菩薩として修行を積み、さとりを得て仏となり、人々を救うためまたこの世に還ってくる(還相回向)。
※ただちに極楽浄土に往生するので、中有はない。
浄土真宗本願寺派
■親鸞(1173~1263年)※2
◆阿弥陀如来 ×
阿弥陀如来の極楽浄土
※ただし、極楽浄土に往生してさとりを開いて仏となったものは、再び迷いの世界に還ってきて、他の衆生を救うはたらきにでる(還相回向)
※ただちに極楽浄土に往生して仏になるので、中有はない。
真宗大谷派
■親鸞(1173~1262年)※2
◆阿弥陀如来
×
仏の国、さとりの世界、阿弥陀如来の極楽浄土(※)
※浄土とは、死後の世界としての『あの世』でもなく、理想郷でもなく、人間を見失ったものに人間を回復させる仏の世界。
※ただちに仏の国に入るので、中有はない。
曹洞宗
■道元(1200~1253年)
◆釈迦牟尼仏 △ 宗旨では否定するが、習俗としての霊魂の存在を尊重
※研究会では霊は仮に「追憶としての死者の人格」と言えるという見解が出され、教義的には「命の根源」とも言えるされた。
さとりの世界(※)
※2015年8月追記参照
※研究会で「仏国土」「悟りの世界」などが示されたが、研究会内でも合意はなかった(2003年)。その後、2007年刊の複数の書籍で「さとりの世界」と記述。
※宗祖・道元は中有を認めているとの研究報告はある。
日蓮宗
■日蓮(1222~1282年)
◆久遠実成本師釈迦牟尼仏 ○
釈迦のいる霊山浄土(※)
※ただし、死んでも仏に成れず、地獄の苦しみを味わうものもいる。
※本質的には、現世でも死後も変わることなく仏の世界に存在している。※1久遠実成無作(くおんじつじょうむさ)の本仏=釈迦牟尼仏のこと
カトリックの教会に行くようになり、はじめて煉獄なる言葉に触れましたが、なかなか面白い考え方だなあと思いましたね。
削除素人考えですが、煉獄で苦行を積めば天国に行ける、というのは、当時の人々の罪悪感の裏返しのような気がします。すなわち自分たちの悪を認めていて、これでは天国に行けない、では中間層をつくろう、みたいな。
仏教に関する非常に詳細な情報もありがとうございます。
仏教に関してはまったくの素人なのですが、宗派によって様々なのですね。
この前、何かのテレビ番組にお坊さんたちが出演していて、各宗派の違いみたいなものを語っていましたけれど、修行から何から全然ちがうのに驚きました。
キリスト教もプロテスタントやらカトリックやら東方正教会やらで全然違うんですけどね。
教会に通ってた時の話をします。
返信削除その教会の牧師は、主日礼拝や小学生向けのメッセージでも、悔い改めれば天国に行ける、イエス様信じれば天国行ける、悪いことしたら地獄に行く、ということを何度も言ってます。言い方はヤンキーの脅しみたいな感じではありませんが、普通に暖かい感じの言い方で上記のことをよく言ってます。
私には、1度でいいからどうしても会いたかった人がいます。それは、この教会の前主任牧師です。年上や同年代の人のほとんどはその人と面識があり、たまにその人の名前が出てくることがありますが、私は1度もあったことがなく、その牧師にまつわる話を聞くと、常に嫉妬が生まれてました。また、「天国でその人に会えるから」と言われても、「死後じゃ意味ない。ちゃんと自分の目で会いたいのに。」と思ってました。当然できない話ではありますが。
今気づいたことは、当時教会に通ってた私には、天国の存在を信じることができなかったと思います。今もあまり信用してません。
天国も地獄もあまり確証のない話で、かつ与太話ばかりが蔓延しているので、信憑性が低いのは否めませんね。
削除記事にも書きましたが、天国も地獄もあまり気にしない方がいいと私は考えています。
私が学生だったころ、実際に臨死体験を経験した教授から話しを聞いたことがあります。
返信削除彼が経験したのは、フラッシュバックと幽体離脱でした。フラッシュバックとは、いわゆる日本で言われるところの走馬灯のことで、漫画本を後ろのページからパラパラとめくるように、近い記憶から遠い記憶へと流れるように思い出すのだそうです。その際、完全に忘れていた幼少期の細かい記憶もはっきりと思い出すと言っていました。
幽体離脱は、文字通り病室で寝ている自分の姿が見えるという体験ですね。
聖書の話しをしますと、天国は本当は死後の世界のことではないのですね。天国とは神の国のことですが、神の国とは、ギリシャ語の意味では「神の支配領域」のことで、死後生に限定されるものではありません。
実際、イエスは「神の国が近づいたから、悔い改めよ」と言ったのであって、「神の国へ行く」とは言いませんでした。神の国は「行く」ものではなく「苦る」ものなのですね。
昔も今も、「この世」は権力者が圧政を強いたり、富を独占したりして、弱者はいつも貧しく、抑圧されています。しかし、いつか神が「この世」に直接介入して権力者を蹴散らし、病や不幸をもたらす悪の力を滅ぼして、貧困も病も死も悲しみもない「神が直接支配する世界」に「この世」を創り変える、と信じられていました。
「地獄」と訳されているヘブライ語のゲヘナも、「ヒンノムの谷」という意味で、もともとはエルサレムの南にあるゴミ捨て場のことでした。そこでは生活のゴミと共に、重罪で処刑され、正式に埋葬されることのない罪人の遺体も焼却され、昼も夜も火が消されることはなかったと言われています。
イエスの時代のユダヤ人の死生観では、善人も悪人も、死ねば皆等しくシェオール(日本語では陰府、よみ)という死者の国へ行きます。そこで眠りにつくのですが、神がこの世へ介入する「最後の審判」の時に全員よみがえらされ、神の前で義しい人は永遠の安息へ、義しくない人は永遠の刑罰へと分けられる。キリスト教では、最後の審判の時に、イエスが再臨してこの世に介入することになっています。
イエスが、なぜ病を癒したり、死人をよみがえらしたり、悪霊を追い出したりするかというと、イエスは神の国の先駆けだからですね。病や苦しみが癒され、イエスに従って貧しい人々が顧みられているならば、神の国は部分的に「この世」に来ている。イエスが再臨する時に神の国は完全になる。そのとき、イエスを認めなかった人々は神の支配を認めなかったのだから、神の国の外へと追い出される。
理屈としては、こういう話しだろうと思われます。
パウロも含めて、初期のキリスト教徒はイエスの再臨がすぐ来ると思っていました。ところが、待てど暮らせどイエスは来ない。待っている間に亡くなってしまう人も増えてくる。そうすると、多くの人にとってイエスの再臨を迎えるのは、死んだ後ということになる。
こうした意識の変化から神の国、つまり天国が死後の世界として認識されるようになったのだと思います。
私自身は、神や死後生は存在して欲しいと思います。
というのは、この世には、あまりに酷く、理不尽な人生を強いられた人々がたくさんいるからです。世界には、「乞食のラザロ」のような人々がたくさんいます。もっと酷い仕打ちを受けている人もいます。彼らの人生が、酷い仕打ちを受けた「この世」だけで終わるなら、一体何が彼らを慰めるのでしょうか?
この世で何ひとつよいことを経験しないまま、孤独と貧しさのなかで死んだ彼らを何が慰めるのでしょうか?
幼くして病や事故のゆえに死ななければならなかった子供たちや、産まれることも許されなかった子供たちは、何が慰めるのでしょうか?
ムスリムの人々のために仕えながら、ISISのテロリストに殺害され、祖国からも「自己責任だ。売国奴だ。」と 言われ見捨てられた彼らを、何が慰めるのでしょうか?
「神もいない。死後の慰めもない。この世が全て。」という言葉は、恵まれた人間の独善になってしまうことはないでしょうか?
神や死後生をアテにせず、人間の力でこの世の悲劇を解決すべきだと、言われるかもしれません。
しかし、この世の生活が全てであるなら、どうして自分の財産や人生を犠牲にして他者を思い遣ることができるのでしょうか?
実際、「人を助けるべきだ。ただし、私の生活が損を被らない限りでね。」と考える多くの人によって難民が追い出され、偏狭な差別的ナショナリズムが拡大しているではありませんか。
神も死後生も関係なく、善を行う人はいます。しかし、パウロが指摘するように、多くの人にとっては「死後の復活がないなら、食べたり飲んだりして人生を楽しもう。人生は一回きりなのだから」となるほうが自然でしょう。人生が一回しかないなら、他者を押しのけ、弱者を奴隷としてこきつかっても、楽しんだほうが勝ちであり、「得」ということになるでしょう。
イエスは理不尽に殺されました。しかし、「こんな善い人が、こんな仕打ちで終わっていいわけがない」と信じた弟子たちによってキリスト教が誕生しました。
私たち人間が悪であり、この世に悲劇が存在する限り、神も死後の慰めへの希望も、なくなることはないと思います。
おっしゃる通り、神の国は「行く」ものでなく「来る」ものかもしれません。His Kingdom has comeとある通りですね。
削除キリストがそれまでにない価値観を語り、弱者の側に立ち、人々の生き方を変えようとしたことが、まさに「神の国」の(部分的な)到来と考えることができると思います。
よくよく考えてみれば、死んでから「神の国」に行くとしたら、じゃあこの世は苦行でしかないんですか、という話にもなると思います。それよりは、この世界に生きているうちに「神の国」を体験したいですね。
そして死んだあとは「神の慰め」が待っている、とするならば、それこそが「希望」ではないかなと思いました。
これ、すごく共感しました。
削除死後は何もないと考えると、理不尽な死はひたすら恐怖でしかないよね。
しかし「地獄」ってのはヒドイね。洗礼を受けずに死んだら、この世でどんなに善いことをしてようと苦労をしてようと、問答無用に永遠の裁き(焼かれる?)という最悪の苦行を強いられてしまうなんて生まれてきた意味がないでしょ。
最近は「天国」「地獄」という言葉をあまり聞かなくなった感じもするかな。
母が数年前に病気で亡くなったんだけど、教会の人もホスピスに来てたチャプレンも「イエス様の御元に行って安らぐ」と言っていた。
十字架のキリストが罪人に「あなたは私とともにパラダイスにいるでしょう」と言ったのに似てるかな。
「神の慰め」ってこういうことなのかなと思いました。
共感していただいて、ありがとうございます。
削除天国とか地獄とかいう言葉を、脅しのように使うのは良くないですね。
死後のことは正直わかりませんが、私も「神の慰め」を期待したいですね。
私は今だに言われます。「このままだと地獄に行くよ!」って。
返信削除子供の頃に「地獄に行く。」と言われた時は凄く怖かったです。素直に「天国行きたい。」と思ったものです。でも言われ続ける度に「死んだ後に天国に行きたいんじゃなくて、生きてる今を天国にいるのと同じ位平和に過ごしたい。」に変わってきました。
でも向こう側から見たらそんな私でも地獄行きみたいなんですけれど、まぁ別に地獄だろうが何だろうが死んだ後だしどっちでもいいよ(笑)
と流すとめちゃめちゃ怒られます(笑)
たしかに死後のことより、まず生きている「今」が大切ですよね。
削除できるだけ平和に、穏やかに生きられたらいいなと私も願っています。実際にはいろいろありますが(笑)。
それにしても「地獄に行くよ!」って断言するのもすごいですね。その自信がどこからくるのか、知りたいですね。
関係ありませんが、地獄で「永遠に苦しむ」というのが、私にはよく理解できません。永遠に苦しむなら、それは「苦しみ」というより、「そこでの日常」になるんじゃないかと思うからです。ちょっと何言ってるかわからないかもしれませんが(笑)。
いえいえ、何となくですがわかりますよ(笑)
削除私的には行ったら行ったで「住めば都」状態になるのかも?とか色々思います(笑)
とりあえず、天国に行きたい人間が人に対して「地獄に行く」と断言しちゃう心がもう汚ならしいよなぁと常々思ってます(笑)
まとめて地獄で会おうぜ!!(笑)
天国と地獄のこともそうですが、何かを信じる時は1回自分の目で確かめたいのが本音ですが、私がかつて通ってた教会の牧師は自分の目で確かめない方が幸せと、めちゃくちゃなことを言ってました。
削除そういう教育を受けてきた先輩クリスチャンに天国、地獄について言われると、自分の目で見るまで信じることができない自分にとってはこの人達の話を信じることが全くできませんでした。