キリスト教って「奇蹟」や「癒し」が起こるものなの?

2018年1月10日水曜日

「体験至上主義」に関する問題

t f B! P L
「奇蹟」や「癒し」の現状は

 いきなりですが質問です。
 キリスト教的な「奇蹟」や「癒し」、あるいはその他の「超自然的な体験」について、皆さんはどう考えておられるでしょうか。

「もちろん今でもそういうものは起こるんだ」
「いや今はそういう時代ではないんだ」
「正直言ってわからない」

 など、いろいろあると思います。

 私個人はその答えは「とりあえず保留」にしておきたいですね。でも今まで沢山のインチキや勘違いを見てきましたので、態度としては非常に懐疑的です。むしろそういうものは「起こらない」と思っていた方が、健全な気もします。

 たとえば「霊の戦い」をしていたら、遠くから叫び声やドスンドスンいう音が聞こえてきて、これは天使たちが戦っている音だ! と思ったら近所の柔道場の音だった、みたいな勘違いがあります。
 あるいは散々「癒しが起こる」と言っておいて、いざ祈ってみると何も起こらない、なんてのも非常に多いですね。
 賛美していたら体がブルブル震えた、祈っていたら体が痺れたようになった、これは聖霊様の働きだ、というのも聞いたことがありますが、アドレナリンやドーパミンが出すぎただけじゃないでしょうか。もちろん断言できませんけれど。

 その一方で、ごく稀にですけれど、治るはずのない病気が治った、という話もあります。さて、これは「神による癒し」なのでしょうか?

「体験」や「現象」より重視すべきものは

「奇蹟」や「癒し」を考えるうえで大切なのは、「その結果どうなったのか」という視点だと思います。「奇蹟が起こったか起こらなかったか」でなく、「奇蹟が起こった結果どうなったのか」です。

 よく「奇蹟」や「癒し」が起こる理由として、「神の栄光が表されるため」とか「全能の神の存在が認められるため」とかいうのがあります。それはそれで間違いではないと思います。キリストも「私の言葉が信じられないなら、わざを信じなさい」みたいなことを言っていますから(ヨハネの福音書14章11節)。
 ガチガチの無神論者が、神の超自然的な働きを目の当たりにして、信仰に目覚めた、なんていうのはクリスチャン映画によくある展開です。

 ということは、「奇蹟」や「癒し」が起こった結果、誰かが神を信じるようになったり、「神様ってすごい!」という話になったら、それは「神による奇蹟(癒し)」ということになるのでしょう。

 個人的な話ですが、私の親族が昔、癌で手術が必要になりました。その人はクリスチャンではありません。私は当然祈りましたけれど、遠方だったし、急な話だったので、会いには行けませんでした。電話で話すこともできませんでした(そこまで親しくなかった、というのも関係あります)。
 ところが手術の前日、切除範囲を決める検査をしたところ、癌が消えていました。医者も本人も家族も、何がなんだかわかりません。でも喜びました。その後何度か検査をしましたが、今に至るまで、何の異常もありません(嘘のようですが、本当の話です)。
 でも、その人は今も未信者のままです。キリスト教のことなど何も知りません。

 さて、「神の栄光」も表れず、神の存在も認められていませんが、これは「神による癒し」なのでしょうか? だとしたら何のために「癒された」のでしょうか?

 また一方で、ある牧師夫人が、同じような経験をしました。癌で何度か手術を受け、まだ手術が数回必要な状態だったのですが、不思議と癌が消失したのです。何がなんだかわかりません。当然ながら、教会では「主が癒された!」と大騒ぎでしたが。

 でも私は腑に落ちませんでした。上記の親族のことがあったからです。この牧師夫人が「癒された」のが「神の御業」だとしたら、私の親族のは何だったのだろう、と。
 それに、その牧師夫人は何度も手術を受けているのです。なんで初めから「癒し」が起こらなかったのでしょうか? それだけ神様は意地悪なサディストなのでしょうか?

 あるいは、「クリスチャンは特別なんだ」と思われるでしょうか。
 でも癒されることなく亡くなっていくクリスチャンは大勢います。私も教会で散々「癒し」を祈られ、宣言され、それでも亡くなった方を少なからず見てきました。
「癒し」が起こると言うのなら、なぜ彼らは癒されなかったのでしょうか。「それは神の摂理だ」と言うでしょうか。それなら「癒しは起こる」と言ってはいけません。「癒しが起こるかどうかわからない」と言うべきです。

「全日本リバイバルミッション」の滝元明氏も、晩年は肝臓癌で闘病されました。近い牧師たちが「癒されると信じます」と言っていましたね。でも2015年8月、亡くなられました。すると「癒されます」と言っていた人たちは手の平を返したように「天に召されるのが御心でした」などと言うではありませんか。ずいぶん都合がいいなあと思いましたね。

起こらない方が良かった「すごい体験」

 礼拝中に「天使の羽根が降ってきた」「金粉が降ってきた」「天使の声が聞こえた」という話も聞いたことがあります。
 それで大騒ぎする人たちがいますが、私は「その結果どうなったのか」が気になります。でもそれで未信者が入信したとか、その地域に良いことが起こったとか、そういう話は聞いたことがありません。

 実は「天使の羽根」の人と、コンタクトを取ったことがあります。私はこう勧めました。
「それが神の御業だとはっきり証明されるために、その羽根を遺伝子検査に回すべきです。それでこの世のものでない羽根だとわかれば、すごいじゃないですか」
 でもその人は、「神を試みてはいけません」と拒否しました。
 いや、試みるんじゃなくて、確認するだけなんですけど?
 でも結局、聞き入れてもらえませんでした。
 たぶんあの羽根は大切に保管されているのでしょうけれど、そのへんの鳩の羽根が、偶然窓枠とか誰かの靴とかから落ちただけだったら、どうするんでしょうね。その可能性もあると思うんですけれど。

 またある集会の後で、「天使の声が聞こえた」という話題で盛り上がったことがあります。賛美の最中、聞き慣れた誰の声でもない、高音域の美しい声が、しばらく聞こえていたと言うのです。しかも、数名の人たちが。
 私は聞こえませんでした。私だけでなく、大部分の人は聞こえなかったようです。録画、録音したものも確認しましたが、それらしい音は入っていませんでした。でも聞こえたという人たちは、すごいすごいと盛り上がっています。

 聞こえなかった「負け惜しみ」と思われるかもしれませんが、その時私はこう思いました。天使の声が聞こえたとして、それにどんな意味があるんだろう、と。
 どんなにすごい「奇蹟」を体験しても、「すごかったね」で終わったら意味がない、と思ったのです。
 結局「すごかったね」で終わったのですが。

 ところで、この「天使の声」事件は、どういう結果をもたらすと思いますか? 
 より熱く賛美するようになるでしょうか。
 より教会の結束が高まるでしょうか。
 より一致するようになるでしょうか。

 はっきり言いますが、それがもたらすのは教会の「分断」です。信徒間の「格差」です。聞こえた人は「すごい・霊的だ・レベルが高いんだ」と思われ、聞こえなかった人は「そこまで達していない」と思われるからです。また前者は「自分ってすごい」みたいな信仰自慢に陥るかもしれません。後者は「自分はダメなんだ」と失望するかもしれません。

 それが「結果」だとしたら、そんな「奇蹟」は起こらない方が良かったのです。

本当の「奇蹟」や「癒し」とは

 私は信仰生活において、必ずしも大々的な「奇蹟」や「癒し」が起こらなくていいと思っています。以前はそういうものを求めていましたけれど、今はむしろ要らないとさえ思っています。なぜならそれらは、キリスト教信仰の中心でなく、必須条件でもなく、今まで書いてきたように、間違いや勘違いや本末転倒が多いからです。

 あなたがもし「奇蹟」や「癒し」を熱心に求めているとしたら、それはキリスト教信仰とはちょっと違うものだと知って下さい。キリストの教えの中心は「奇蹟」や「癒し」でなく、シンプルな「愛の実践」だからです。すごく地道なものです。「奇蹟」や「癒し」が起こらなければダメだと思うのは、いわゆる「体験主義」です。

 あるいは、愛を知らなかった者が愛を知り、愛を実践できなかった者が愛を実践できるようになるとしたら、それこそが「奇蹟」であり、「癒し」であるのかもしれません。

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