「奇蹟」や「癒し」の現状は
いきなりですが質問です。
キリスト教的な「奇蹟」や「癒し」、あるいはその他の「超自然的な体験」について、皆さんはどう考えておられるでしょうか。
「もちろん今でもそういうものは起こるんだ」
「いや今はそういう時代ではないんだ」
「正直言ってわからない」
など、いろいろあると思います。
私個人はその答えは「とりあえず保留」にしておきたいですね。でも今まで沢山のインチキや勘違いを見てきましたので、態度としては非常に懐疑的です。むしろそういうものは「起こらない」と思っていた方が、健全な気もします。
たとえば「霊の戦い」をしていたら、遠くから叫び声やドスンドスンいう音が聞こえてきて、これは天使たちが戦っている音だ! と思ったら近所の柔道場の音だった、みたいな勘違いがあります。
あるいは散々「癒しが起こる」と言っておいて、いざ祈ってみると何も起こらない、なんてのも非常に多いですね。
賛美していたら体がブルブル震えた、祈っていたら体が痺れたようになった、これは聖霊様の働きだ、というのも聞いたことがありますが、アドレナリンやドーパミンが出すぎただけじゃないでしょうか。もちろん断言できませんけれど。
その一方で、ごく稀にですけれど、治るはずのない病気が治った、という話もあります。さて、これは「神による癒し」なのでしょうか?
「体験」や「現象」より重視すべきものは
「奇蹟」や「癒し」を考えるうえで大切なのは、「その結果どうなったのか」という視点だと思います。「奇蹟が起こったか起こらなかったか」でなく、「奇蹟が起こった結果どうなったのか」です。
よく「奇蹟」や「癒し」が起こる理由として、「神の栄光が表されるため」とか「全能の神の存在が認められるため」とかいうのがあります。それはそれで間違いではないと思います。キリストも「私の言葉が信じられないなら、わざを信じなさい」みたいなことを言っていますから(ヨハネの福音書14章11節)。
ガチガチの無神論者が、神の超自然的な働きを目の当たりにして、信仰に目覚めた、なんていうのはクリスチャン映画によくある展開です。
ということは、「奇蹟」や「癒し」が起こった結果、誰かが神を信じるようになったり、「神様ってすごい!」という話になったら、それは「神による奇蹟(癒し)」ということになるのでしょう。
個人的な話ですが、私の親族が昔、癌で手術が必要になりました。その人はクリスチャンではありません。私は当然祈りましたけれど、遠方だったし、急な話だったので、会いには行けませんでした。電話で話すこともできませんでした(そこまで親しくなかった、というのも関係あります)。
ところが手術の前日、切除範囲を決める検査をしたところ、癌が消えていました。医者も本人も家族も、何がなんだかわかりません。でも喜びました。その後何度か検査をしましたが、今に至るまで、何の異常もありません(嘘のようですが、本当の話です)。
でも、その人は今も未信者のままです。キリスト教のことなど何も知りません。
さて、「神の栄光」も表れず、神の存在も認められていませんが、これは「神による癒し」なのでしょうか? だとしたら何のために「癒された」のでしょうか?
また一方で、ある牧師夫人が、同じような経験をしました。癌で何度か手術を受け、まだ手術が数回必要な状態だったのですが、不思議と癌が消失したのです。何がなんだかわかりません。当然ながら、教会では「主が癒された!」と大騒ぎでしたが。
でも私は腑に落ちませんでした。上記の親族のことがあったからです。この牧師夫人が「癒された」のが「神の御業」だとしたら、私の親族のは何だったのだろう、と。
それに、その牧師夫人は何度も手術を受けているのです。なんで初めから「癒し」が起こらなかったのでしょうか? それだけ神様は意地悪なサディストなのでしょうか?
あるいは、「クリスチャンは特別なんだ」と思われるでしょうか。
でも癒されることなく亡くなっていくクリスチャンは大勢います。私も教会で散々「癒し」を祈られ、宣言され、それでも亡くなった方を少なからず見てきました。
「癒し」が起こると言うのなら、なぜ彼らは癒されなかったのでしょうか。「それは神の摂理だ」と言うでしょうか。それなら「癒しは起こる」と言ってはいけません。「癒しが起こるかどうかわからない」と言うべきです。
「全日本リバイバルミッション」の滝元明氏も、晩年は肝臓癌で闘病されました。近い牧師たちが「癒されると信じます」と言っていましたね。でも2015年8月、亡くなられました。すると「癒されます」と言っていた人たちは手の平を返したように「天に召されるのが御心でした」などと言うではありませんか。ずいぶん都合がいいなあと思いましたね。
起こらない方が良かった「すごい体験」
礼拝中に「天使の羽根が降ってきた」「金粉が降ってきた」「天使の声が聞こえた」という話も聞いたことがあります。
それで大騒ぎする人たちがいますが、私は「その結果どうなったのか」が気になります。でもそれで未信者が入信したとか、その地域に良いことが起こったとか、そういう話は聞いたことがありません。
実は「天使の羽根」の人と、コンタクトを取ったことがあります。私はこう勧めました。
「それが神の御業だとはっきり証明されるために、その羽根を遺伝子検査に回すべきです。それでこの世のものでない羽根だとわかれば、すごいじゃないですか」
でもその人は、「神を試みてはいけません」と拒否しました。
いや、試みるんじゃなくて、確認するだけなんですけど?
でも結局、聞き入れてもらえませんでした。
たぶんあの羽根は大切に保管されているのでしょうけれど、そのへんの鳩の羽根が、偶然窓枠とか誰かの靴とかから落ちただけだったら、どうするんでしょうね。その可能性もあると思うんですけれど。
またある集会の後で、「天使の声が聞こえた」という話題で盛り上がったことがあります。賛美の最中、聞き慣れた誰の声でもない、高音域の美しい声が、しばらく聞こえていたと言うのです。しかも、数名の人たちが。
私は聞こえませんでした。私だけでなく、大部分の人は聞こえなかったようです。録画、録音したものも確認しましたが、それらしい音は入っていませんでした。でも聞こえたという人たちは、すごいすごいと盛り上がっています。
聞こえなかった「負け惜しみ」と思われるかもしれませんが、その時私はこう思いました。天使の声が聞こえたとして、それにどんな意味があるんだろう、と。
どんなにすごい「奇蹟」を体験しても、「すごかったね」で終わったら意味がない、と思ったのです。
結局「すごかったね」で終わったのですが。
ところで、この「天使の声」事件は、どういう結果をもたらすと思いますか?
より熱く賛美するようになるでしょうか。
より教会の結束が高まるでしょうか。
より一致するようになるでしょうか。
はっきり言いますが、それがもたらすのは教会の「分断」です。信徒間の「格差」です。聞こえた人は「すごい・霊的だ・レベルが高いんだ」と思われ、聞こえなかった人は「そこまで達していない」と思われるからです。また前者は「自分ってすごい」みたいな信仰自慢に陥るかもしれません。後者は「自分はダメなんだ」と失望するかもしれません。
それが「結果」だとしたら、そんな「奇蹟」は起こらない方が良かったのです。
本当の「奇蹟」や「癒し」とは
私は信仰生活において、必ずしも大々的な「奇蹟」や「癒し」が起こらなくていいと思っています。以前はそういうものを求めていましたけれど、今はむしろ要らないとさえ思っています。なぜならそれらは、キリスト教信仰の中心でなく、必須条件でもなく、今まで書いてきたように、間違いや勘違いや本末転倒が多いからです。
あなたがもし「奇蹟」や「癒し」を熱心に求めているとしたら、それはキリスト教信仰とはちょっと違うものだと知って下さい。キリストの教えの中心は「奇蹟」や「癒し」でなく、シンプルな「愛の実践」だからです。すごく地道なものです。「奇蹟」や「癒し」が起こらなければダメだと思うのは、いわゆる「体験主義」です。
あるいは、愛を知らなかった者が愛を知り、愛を実践できなかった者が愛を実践できるようになるとしたら、それこそが「奇蹟」であり、「癒し」であるのかもしれません。
私の住んでいる近くにほんみち教団の大神殿があります。昔、見学会があり参加しました。信者以外は敷地内には入れませんが。千畳敷の大広間で教団の方が奇跡を話されました。教組が戦時中に敗戦を予言し、そのため治安維持法で投獄された、それは事実です。予言は当たり、教組は奇跡により無事に釈放された、素晴らしいというような講話でした。敗戦を予想した人は多かったでしょうが、大阪大空襲を見た母がこの戦争は負けると思ったと言っておりましたが、人に言うと投獄されるので言わなかったとのこと。投獄されて生き残ったのも確かに奇跡でしょう。敗戦を予想し、予言して獄死している人が多数いるでしょうから。
返信削除昔、マルタ島観光で、奇跡の教会を見学しました。多数のまつば杖や車いすが奉納されていました。ここで祈って、立てるようになった人が感謝を込めて奉納したとのことでした。
ルルドやファティマにも行きましたが、奇跡が起きたのだろうと思いましたね。ルルドもファティマも現在は奇跡に対する感謝の奉納物は全て撤去されておりましたが。
どちらも一大観光地になっており、まるでテーマパークのようではありましたが、それでもルルドの大聖堂の一角でおこなわれていた早朝のミサに行くと奇跡が起きお不思議ではないような気持ちにはなりましたが。
ルルドやファティマに行かれたのですね。私もいずれ訪れたいと思っています。大聖堂の早朝ミサなどぜひ一度は見たいですね。
削除たしかルルドの泉をテーマにした映画がありましたね。癒しを受けるために訪れた一行のうち、たいして信心深くない人だけが癒されて、みんな複雑な心境になる、という話だったと思います。
おそらく誰もが意識的にか無意識的にか、信仰に進んだ人が癒される、敬虔な人が奇蹟を体験できる、みたい思っているのではないでしょうか。
聖書で、悪魔がイエスを誘惑する場面がありますね。悪魔が「この高所から飛び降りてみろ。天使がおまえを支えてくれるだろう」と言ったところ、イエスは「神を試みてはならない」と言いました。
返信削除ここは、「奇跡は神の自由によるものであって、人間の都合で神をコントロールしようとしてはならない」という意味かと思われます。
つまり、孫悟空が筋斗雲を呼び寄せるように、神の力を呼び寄せることができるなら、神は人間の主人ではなく、奴隷ではないか。神を人間のパシリや小間使いにしてはならない、ということだと思います。
奇跡と呪術は違いますね。呪術は、「お金もちになりたい、病気や不幸から解放されたい、幸せになりたい」といった人間の都合に神を振り向かせるために、たくさんの功徳や苦行、寄付や生け贄、宗教儀礼を行うことです。神をコントロールするための、人間の試みですね。
他方、奇跡は神の自由なのですね。「ぶどう園の労働者の譬え」が示しているように、神が奇跡を起こしたい時に、起こしたい人に起こすのですね。奇跡を待ち望む人は、自分の願いとうりにならないとしても、善で愛なる神が自分を見捨てることはないと確信して待つのですね。
そもそも、神や奇跡は存在するのでしょうか?
これは、わかりません。ただ、人間の認識や科学も世界のすべてを解明できるわけではない、というところで留めておきましょう。
哲学者のカントが著書「純粋理性批判」のなかで、人間の認識能力の限界、科学的認識の限界を明らかにすることによって、間接的に神や奇跡が存在する余地を残そうとしました。
人間は自分の身体によってしか世界を認識できない。私たちが経験している世界は、「世界そのもの」ではなく、自分の身体によって認識された「限りでの」世界なのですね。だから、もし、人間の身体構造が変わったとしたら、経験する世界も、全く違うものとなる可能性がある。犬や猫などが経験している世界は、人間の経験している世界の劣化版なのではなく、全く違う世界を経験している。
科学とて、それがどれほど合理的なものであろうとも、人間の身体によって認識された「限りでの」世界であって、世界そのものではない。事実、人間の認識によって新しい事実が発見されれば、これまで科学的な真実とみなされてきたことすら、再検証にさらされる。
このことから、人間の経験している世界が絶対ではない、自分の経験している世界が絶対ではない、と結論づけることによって、神や奇跡の存在、異常体験を主張する他者の経験を「信じる」余地がでてくるわけですね。
新約聖書でのイエスの癒し物語を分析した本で興味深いものとしては、ちくま学芸文庫の「治癒神イエスの誕生 山形孝夫 著」があげられると思います。
イエスの癒し運動を、「病気や不幸=罪=神から見捨てられている=コミュニティからの排除」といった、当時のユダヤの慣習によって排除された人々を再びコミュニティへと包摂する試みとして分析しています。
この分析からすれば、超常現象的な奇跡ではなくても、病気や不幸に見舞われた人々が、コミュニティから追い出されず、むしろ大切にされ、医療や福祉の恩恵にできるかぎり少ない負担で与れるとしたら、こうしたことも「奇跡」と呼んでよいのではないでしょうか?
イエスの生涯全体のメッセージからすれば、まさに地上における「神の国」とは、そのようなものだと思うのです。
まさにおっしゃる通りだと思います。
削除悪魔の「飛び降りてみろ」という挑戦に対する「神を試みてはならない」というシンプルな答えが、「奇蹟」に対する考え方を示しているのだと思います。すなわち奇蹟の主体は人間でなく神であり、人間の事情や都合に左右されるものではない、ということです。
記事では濁して書きましたが、私の考えはだいたいそんなところです。
またキリストが行った「癒し」も、誇張された表現であり、本当は「社会から排除された人々に救いの手を差し伸べた」という意味合いではなかったかと、最近は考えるようになりました。
奇蹟だ癒しだと言っている人たちが相当「的外れ」なんだという話になりますが。
昔、教会の礼拝に参加していた経験を持つ者です。
返信削除牧師の話す神様の言及というものがかなり抽象的でわからなかったのですが、もっとわからなかったのが、fuminaru Kさんが冒頭でおっしゃる”超自然的”という言葉です。
fuminaruさんに質問なのですが、超自然的の超ってなんだと思います?
「超自然」を辞書で調べますと、
削除「自然界の法則をこえた、理論的に説明のつかない神秘的なもの」
という説明がされています。
申し訳ありませんが、それ以上は何ともお答えできないです。