「MeToo」とブルー・クリスマス

2017年12月25日月曜日

キリスト教系時事

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2017年のクリスマス

 今日はクリスマスですね。
 おそらく多くの教会は、既に大きなイベントを終えて、一息ついておられるのではないでしょうか。今日は家族や友人とゆっくり過ごすという方が多いかもしれません。
 あるいは事情があって現在は教会に通っておられない方、カルト問題に関心のある未信者の方、なども当ブログを読んで下さっていると思います。それぞれのところで、思い思いのクリスマスを過ごされたら良いなと思います。
 クリスマスなんてしないよ、という方も、それはそれで全然構いません。
 何であれ、この1年の終わりを、穏やかに過ごしていただけたらと願っています。


MeTooの拡大

さて、今年私が注目した出来事の1つは「MeToo」です。それまで被害を公表できなかったセクハラや性犯罪を、被害を受けた方々が「私も」と勇気を持って告発する、という動きです。米ハリウッドから始まり、瞬く間に各界に広がっていきました。今なお広がり続けています。

 私はキレイ事が好きではありません。嘘っぽいからです。だからこの「MeToo」によって、人々の人権意識が本当に変わるとは思っていません。
 でもこの動きそのものが、様々なハラスメントや暴力、犯罪の「抑止力」になれば良いと思っています。実際、何年も何十年も前のハラスメントを告発されて、既に何人もの著名人が失脚しています。そのように自分の立場が脅かされるとなれば、誰もが犯行をためらうようになるでしょう。つまり、報復があれば犯罪も減る、ということです。
 それで結果的に、もうちょっと住みやすい世界になればいいな、と思います。だから私は「MeToo」を応援しています。

 この「MeToo」に背中を押されて立ち上がったのは被害者(主に女性)ばかりでありませんでした。主に男性によるものですが、「HowIwillChange」(私はどうやって変えていくのか)という動きも起こっています。そして被害者をどう守るのか、そもそも被害をどう防ぐのか、社会全体の意識をどう変えていくのか、といった議論がなされるようになりました。

 これは、「声を上げるのは被害者だけではない。その被害は社会全体の問題なのだから」という意思表示に他ならないと私は思います。セクハラや性犯罪は、被害者だけの問題でもなく、まして一部の加害者だけの問題でもない、ということですね。
 今後、そのような議論がさらに深まっていけばいいなと思います。

クリスマスどころじゃない

 そのような被害に遭われた方にとって、時節とは残酷なものかもしれません。
 自分がどれだけ辛くても、苦しくても、クリスマスや正月は正確にやって来て、世界は楽しげな雰囲気になるからです。

 小学校の頃の話です。
 親友のお母さんが、交通事故で突然亡くなってしまいました。その知らせが届いたちょうどその時、私はその親友と一緒にいました。だから彼が受けたショックを目の当たりにして、子供ながらに言葉を失いました。
 母の死を知った彼は1人、部屋に篭りました。でも窓からその様子が見えます。買ってもらったばかりのロボットのオモチャを、彼はじっと眺めていました。
 しばらくして、そんなこと何も知らない別の友人たちが、元気にしゃべりながら現れました。遊びに来たのです。家の前で大騒ぎしている彼らに、私は無性に腹が立ちました。それどころじゃないんだぞ、と。

 今年はちょうどこの「MeToo」とクリスマスが重なる形となりました。被害に遭われた方は、クリスマスと聞いても「それどころじゃない」と思われるかもしれません。被害を告発した方、告発しようと考えている方は特にです。クリスマスのことなど構っていられない、というのが正直なところかもしれません。

 それを聞いて「なんてことを言うんだ、クリスマスを祝わないなんて」と怒りだすクリスチャンがいないことを私は願います。いたらクリスチャン云々の前に、人間としてどうかしていますから。

キリスト教会はそこにどう関われるのか

 さて本題です。
 キリスト教会は、あるいはクリスチャンは、この「MeToo」あるいは「HowIwillChange」に、どのように関わることができるでしょうか?
 皆さんも良かったら考えてみて下さい。以下は私の考えです。

第1段階
 まず、教会内でセクハラや性犯罪が起こらないようにしなければなりません。教会を誰にとっても安全な場所にしなければなりません。
「教会でセクハラだと? そんなことあり得ないだろう!」と言う幸せな人がいるかもしれませんが、私の知る限り、一部の教会群は、この段階を既にクリアできていません。

 一昔前(もしかしたら現在も)のカトリックを見ればわかりますが、教会はどうしても閉鎖空間になりやすく、そこで様々なセクハラ・性犯罪が歴史的に行われてきました。プロテスタント教会も例外でなく、日本でも近年、重大な性犯罪が起きています。

 だからすごく根本的な部分で、また「MeToo」から程遠い話なのですが、まず教会内で被害が起こらないように、ということから考えなければなりません。ちょっと気が遠くなる話ですけれども。

第2段階
 次の段階は、被害者の方々の「話を聞く」ことだと思います。場所が教会である必要はありませんが、クリスチャンが関われればいいなと思います。

 セクハラ・性犯罪の告発に絶対必要なのは、被害について耳を傾ける人間がそばにいることです。つまり誰かが積極的に、被害を受けた方の話を聞こう、支えよう、守ろう、としなければ、ほとんど何も始まらないということです(1人で告発できる人はまずいません)。教会がそういうことを組織的にやっていければいいのですが、まあこれは実際には難しいかもしれませんね。

 でも教会としてできなくても、1人1人のクリスチャンが、そういう意識を持つことはできます。
 もし身近なところにそういう被害に遭われた方や、遭われたかもしれない方がいましたら、ぜひ声を掛けてみて下さい(どう声を掛けるかはまた配慮が必要です)。その人が安心できるようにしてあげて下さい。無理に話を聞き出す必要はありません。福音を伝えようとか、聖書っぽい助言をしてあげようとか、そういうのも要りません。ただそばにいて、その人が話したい時にちゃんと聞けるように、待っていて下さい。

第3段階
 次は、被害を受けた方の告発をサポートすることだと思います。これはもちろん本人が「告発する」と決めた場合のアクションですが、中には本人が自分で決められない場合もあります。援助する人が、「これは告発すべきだよ」と強めに勧めてあげた方が良い場合もあるでしょう。

 サポートの内容はケースバイケースですが、たとえば警察や弁護士事務所、被害者センター、マスコミ等に一緒に行くとか、代わりに相談するとか、そういう実際的な行動になると思います。
 被害を受けた方は、その度合いにもよりますが、判断力や行動力が低下していて、自分1人で動けないことが多いです。だから代わりに細かいことを考えたり、細かい手続きをしたり、スケジュールを組んだり、ということをやってくれる人がいたら、すごく助かるでしょう。これは被害者のアドボケーター(代弁者)になるということでもあります。

 そういった手助けを、教会なりクリスチャンなりができたらいいなと私は思います。それがキリストに倣う行動のはずですから(だからと言って強制するつもりはありませんよ)。

 さて、現状を無視して理想だけ書くと、以上のようになります。
 現実には、日本の教会は、第1段階をクリアできていれば万々歳かもしれません。第2、3段階はまだまだ有志のクリスチャンや、そういうことを専門に扱うキリスト教系団体の仕事かもしれません。そもそも「そんなことは教会のすることじゃない」とか言われるかもしれません。

 でも私個人は、教会とは本来そういう機能を持つべきだと思っています。
 皆さんは、どうお考えでしょうか。

ブルー・クリスマス

 そういうアグレッシブな活動で積極的に「MeToo」に関わっていくのと反対に、もうちょっと静かな、控えめな方法もあると思います。

 北米の一部のキリスト教会は、「ブルー・クリスマス」という機会を提供しているようです。グリーフ・ケア(悲嘆に暮れる人々に対するケア)の一環として、大切な人を亡くした人々が集える「内省と祈り」のクリスマス礼拝を行っているそうです。
 つまり派手に騒いだり盛り上がったり、明るい雰囲気で楽しんだり和んだり、という趣旨の集会でなく、何と言うか「悲しみを悲しむための時間」を持つ、ということだと思います。

「そういうのは礼拝ではない」とか言われそうですが、多くの教会の礼拝に「喜び」の要素があるのだから、同じように「悲しみ」の要素があってもいいと思います。

 このブルー・クリスマスはあくまでグリーフ・ケアなのですが、今後その対象が拡大されて、様々なハラスメントや虐待・犯罪の被害に遭われた方々も集えるようになったら良いのかな、と私は思います。前述のように「クリスマスどころじゃない」と感じている方々の中には、騒々しいパーティとか笑える出し物とかでなく、ただ静かに「悲しみを悲しむための時間」を求めている方もいると思いますから。

 もちろん被害に遭われた方々の回復の道程(完全な回復、という意味ではありません)は、人ぞれぞれです。ペースも方法もそれぞれです。抱いている感情(怒りや憎しみ、悲しみ、恥など)も様々です。だから静まって内省することを、万人が求めているとも思いません。

 ですが(たとえば)「悲しみ」を「悲しみ」として表すこと、感じること、吐き出すことも大切です。感情を押し込めても、根本的な解決にはなりませんから(時にはそうやって問題を先延ばしにすることも必要ではあります)。
 武田鉄矢の『贈る言葉』にも、こんな一節がありますね。
「悲しみ 堪えて 微笑むよりも、涙 枯れるまで 泣く方がいい」

 現実はそんな簡単には行かないでしょうけれど、このように「MeToo」とブルー・クリスマスが繋がっていければ、あるいは被害に遭った方々の、慰めになるかもしれません。

 だから教会運営に携わっている皆さん、「楽しいクリスマス」だけでなく、「悲しいクリスマス」も企画してみてはいかがでしょうか?

教会の社会における使命とは

 こういう話をすると、「教会がそこまでする必要があるのか」とか「教会の役目はそんなもんじゃない」とかいう意見も出ると思います。
 また、教会は世の中の時流にどこまで対応すべきか、という話も出ると思います。今回で言えば、「MeToo」に対して教会は対応すべきか否か、積極的に関わるべきか否か、みたいな。

 考え方はいろいろあるでしょうけれど、クリスチャンがそういう活動(被害者を支える活動)に関わらないでどうするんですか、と私は思います。
 もちろん日本の教会はいろいろ大変で、あれもこれもできないのが現状だと思います。だから何が何でもやってくれ、という話ではありません。

 でも、虐げられた人たちに心を向けること、関わること、支えることが、キリストの教えの中心ではないのかな、と私は思います。礼拝や、様々なイベント、あるいは教会の運営自体が大変で、それどころではない、ということだとしたら、それはどこか本末転倒な話ではないかな、と私は思います。

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