【小記事】クリスマスの「格差」

2017年12月26日火曜日

キリスト教系時事

t f B! P L
金銭以上に不足している「余裕」

 クリスマスを1日過ぎましたが、もう1回だけクリスマスの話です(すみません)。
 というのは、衝撃的な記事を見たからです。


 記事によると、シングルマザーの3割が「クリスマスなんて来なければいい」と思っているとのこと。1割は「サンタは来ない」と子供に明言しているそうです。
 クリスマスは、どうしても祝わなければならないものではありません。でも巷がそういう雰囲気になっていると、どうしても気になるものです。テレビをつけても買い物に行っても、クリスマスに遭遇します。華やかなパーティの話も聞こえてきます。「でもウチはそういう余裕がないから」という事情が、より鮮明になってしまうかもしれません。

 記事にある通り、やろうと思えば、百円ケーキと焼き鳥と折り紙のツリーで、ささやかなパーティもできるでしょう。でもかえって「格差」が意識され、惨めになるかもしれません。私が思うに、ないのは「数百円のお金」でなく、「精神的な余裕」の方ではないでしょうか。

 日本が全体的に貧乏で、皆ロクなクリスマスができないなら、誰もそんなこと気にしないと思います。あるいは「クリスマスをやる意義」を、今よりもっと真剣に考えるでしょう。そういう意味の「余裕」が、逆に生まれるわけです(皆が揃って貧乏ならば、という話です)。
 でも貧富の差が広がってしまって、できる家庭はすごいのができるけど、できない家庭はほとんどできない、となると、後者は追い詰められたような、余裕のない心境になるのだと思います。

「愚行録」に見る格差

 私は子供の頃、「1億総中流」と言われる時代を過ごしました。誰も彼もが「ウチは中流かちょっと上」と思っていた時代です。だから「格差」と言われてもピンと来なかったです。というか「格差」という言葉自体、ほとんど聞かなかったと思います。

 それがいつの間にか、変わってしまったようです。
 私が最近「格差」をマジマジと意識したのは、「愚行録」という映画を見た時です。
 かの妻夫木聡がダークな雑誌記者を演じるミステリーなのですが、ものすごい格差社会を扱った話でもあります。
 裕福でない家庭の子が一生懸命勉強して大学に入っても、いわゆる「外部生」なので、「内部生(裕福な家庭の子たち)」のグループには入っていけません。明確に、そして不文律的に、差別されるのです。内部生の子たちは海辺のテラスハウスでお酒を飲みながら、優雅にコース料理を食べ、水着になって遊びます。そこに呼んでもらえる外部生の子らは、何らかの「犠牲」を払わなければなりません(そこがこの作品のキモです)。
 ものすごく理不尽な感じがするのですが、それも現代日本の姿なのですね。だからこそ底辺でうごめく妻夫木聡や妹の満島ひかりの行動(逆襲)を見て、「いいぞ、もっとやれ」と背徳的に思うわけですが。



クリスマスの本当の意義とは

 もう1つ記事を紹介します。


 日本とイギリスの、クリスマスの過ごし方の違いについて書いた記事です。イギリスではケンタッキーが底辺層の食べ物だそうで驚きました。日本ではけっこう一般的だと思うのですが。

 もう1つ興味深いのが、イギリス人はクリスマスになると寄付やボランティアを率先してするようになる、という点です。普段は弱肉強食で生きているから、クリスマスくらいは分かち合おう、というわけです。日本は常に弱肉強食みたいだと思うのですが、どうなんでしょうね。

 ここで1つ考えたいのは、なぜクリスマスとなると、皆決まってチキンにシャンパンにケーキにプレゼントという「お決まり」をやりたくなるのか、という点です。教会で言うと毎年毎年、聖劇やキャロリングやキャンドルサービスを判で押したようにやる、みたいな話です。たまには変えてみて、全然違う方向に進んでもいいんじゃないでしょうか。

 たとえば上野公園で毎週毎週ホームレスの方々を集めて炊き出しをしている教会がありますが、そういうのを年に1回くらい手伝ってみたらいかがでしょう。だいぶ気分や考え方が変わると思います。べつにそれが良いということでもありませんが。

 というわけで、もう今年のクリスマスは終わってしまったのですが、クリスマスって何だろうと考えた次第です。

関連記事

「MeToo」とブルークリスマス

 

QooQ