・キリスト教って宗教じゃないの?
今回は次のセリフについて、私見を述べたいと思います。
「キリスト教は『宗教(religion)』でなく、『神との関係(relationship)』です」
これは聖霊派や福音派の教会でよく聞くセリフです。名言や格言みたいに扱われていますから、聞いたことがある人も多いでしょう。SNSなんかでも時々見かけます。昔、私の教会でも何度か聞いたことがあります。当時は単純にそうだよなあと感心していましたが。
これは、「キリスト教は他の宗教とは違うんだ、本物の神との生きたコミュニケーションなんだ、リアルな関係性なんだ」という主張でしょう。我らがキリスト教を、宗教なんかで括ってくれるな、ということですね。そう言いたい気持ちはわかります。
でもですね、「神との関係なんだ」と言うのはいいとして、「宗教ではない」と言うのはいささか語弊があると思います。だって宗教ですから。それを違うと言うのは自由ですが、一般の認識はそうではありません。
たとえば図書館や書店で「宗教」のコーナーに入ると、だいたいキリスト教とイスラム教と仏教の本が同じ棚に並んでいます。社会系の教科書を開くと、その3つが「世界の三大宗教」と呼ばれています。トロント(カナダ)の大きめな書店に入った時は、キリスト教の本だけで何列もありましたが、それでも「宗教」のコーナーでした。
つまり一般社会では、キリスト教は間違いなく「宗教」なのです。当たり前ですが。
それに、「キリスト教は宗教じゃない、神との生きた関係だ」と言ったところで、未信者の人からしたら宗教でしかないです。「宗教じゃない」というのは「中の人」の言い分です。「中の人」がいくら何を主張したところで、外から見たら「いえ、だから宗教ですよね?」「それは宗教をやっている人の言い分ですよね?」という話になります。そうではありませんか。
ところで、そもそもの話ですが、なぜ「キリスト教は宗教ではない」とわざわざ宣言しなければならないのでしょう。キリスト教が宗教だったら、何か不都合でもあるのでしょうか。
「宗教」とは何でしょう。その定義とは何でしょう。ちょっと調べてみましたが、「百科事典マイペディア」のものがわかりやすかったので紹介します。
「一般に宗教とは、超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度をいう」
えーっと・・・、やっぱりキリスト教って宗教ですよね?(笑
・キリスト教があれば、他の宗教はいらないの?
という宗教の定義がどうであれ、このセリフの問題の根幹は、「キリスト教は宗教か否か」という点ではありません。ぶっちゃけた話、それはどちらでもいいです。前述の通りキリスト教は一般的に宗教として括られていますし、その方がわかりやすいですけれど、べつにそうじゃなかったとしても構いません。
本当の問題は、「宗教でなく神との関係だ」みたいな、「自分たちにしかわからない言語」を使ってしまう点だと私は思います。
「キリスト教は宗教でなく神との関係だ」なんて外部の人が聞いたって、意味がわからないじゃないですか。そういう言語をわざわざ使うのは排他的と言わざるを得ません。そうではありませんか。
誰かと話をしたいと思ったら、相手がわかる言語で話さなければなりません。お互いに理解できる言葉で話すのが、コミュニケーションの基本だからです。これまた当たり前なことなのですが。
また、このセリフの背後には、「キリスト教は特別で、本物だ。でも他の宗教はどれも紛い物だ」という考え方が隠れていると思います。繰り返しますが、そう言いたい気持ちはわかります。しかし、これは恐ろしい考え方でもあります。何故なら他の宗教を全て排除しようとしているからです。
日本には幸い「信教の自由」という権利がありますが、その意味がわかるでしょうか。伝統的なものから怪しいものまでいろいろありますが、どの宗教を信じても良い、信じなくても良い、という意味です。そこにはキリスト教も含まれています。なのに何故クリスチャンだけが、他の宗教はダメだと言い、信じる自由を奪うのでしょうか。
私が常々感じるのは、キリストの教えは愛と寛容であるはずなのに、当のクリスチャンと言われる人々からそれが感じられない、ということです。もちろん皆が皆ではありません。素晴らしい方々もいます。でも中には、聖書を振りかざして他者を押しのける、実に不寛容な人たちがいます。
そういう人がよく、この「キリスト教は宗教じゃない、神との関係だ」みたいなことを、したり顔で言うのですが。
・キリスト教ってそんなに特別なの?
自分の信じる宗教は他の宗教とは違うんだ、自分の宗教こそ本物なんだ、と思いたいのは皆同じです。どの宗教の人もそう思っています。たとえばイスラム教の皆さんは、アッラーと自分との関係こそ本物だと信じています。仏教の皆さんは、悟りを得て解脱することこそ最高の目標だと信じています。他の宗教も、それぞれの教理に沿ったゴールなり目標なりを設定していて、それぞれ本物だと信じています。
だから「キリスト教だけは『宗教』という枠組みから外れた、特別なところにある」と主張するのは、クリスチャンがそう言いたくなるのは当然ですが、いささか手前勝手と言わざるを得ません。
また多神教ならともかく、一神教である限り、どうしても「神と自分との関係」が重要になってきます。その一対一の関係がリアルでなければ、信じる意味がないからです。そしてそれはキリスト教に限ったことではありません。一神教なら(たぶん)どこでもそうです。
たとえば、前述のイスラム教がそうですね。イスラム教徒の皆さんはアッラーを信仰し、その教えを守って生きています(熱心な人ならば、でしょうが)。それはもちろん「良い裁きを受けたいから」というご利益主義的動機もあるでしょうが、基本的にはアッラーとの「個人的関係」を重視しているからです。だから彼らにとって、それは「宗教」でなく日常生活の一部なのかもしれません。
であるなら、「宗教でなく神との関係だ」というのはイスラム教も同じだということになります。なぜキリスト教だけが、他の宗教を押しのけて「宗教でなく神との関係だ」と主張できるのでしょう。
あるいは、スピリチュアル系の話になりますが、「守護霊様」を信じている人々もいます。彼らは組織に属するのでなく、個人個人で、それぞれ「高次の存在」との繋がりを信じています。たぶん彼らにとってそれは宗教でなく、より個人的な何かでしょう。
ということは「宗教でなく神との関係だ」と言えるのは、むしろ彼らの方になります。
あるいは実際の治療の現場では、アルコール依存症の方々が社会復帰するための、「12のステップ」というのがあります。その中に「自分なりに理解した神(Higher Power)に自分自身を委ねる」というステップがありますが、これは考え方としては、上記の「高次の存在」に近いと思います。つまりここにも、「宗教でない神との関係」があるわけです。
何が言いたいかというと、キリスト教を「特別」だと思っているのは、クリスチャンだけだ、ということです。
これは最終的に、他の宗教に対してどういう態度を取るべきか、という話になるでしょう。すなわち他の宗教を全て排除しようとするのか、あるいはどの宗教も尊重し認めていくのか、という個人個人の選択になります。わたしはそこにクリスチャンとしての、というよりむしろ人間としての品格が出ると思うのですが、さて皆さんはどう考えるでしょうか。
・英語の掛け合わせはありがたいの?
「宗教」(religion)」でなく「神との関係(relationship)」である、というのは見てわかる通り、religionとrelationshipを掛けたものです。英語圏的な発想ですね。誰が最初に言ったのか知りませんが、英語を使ってうまく掛け合わせたからといって、それが聖書の真理というわけではありません。
このセリフを初めて聞いた頃は、私も単純にそうだよなと思って感動しました。だから偉そうなことは言えないのですが、教会で講壇から語られることを、何でもかんでも鵜呑みにしてはいけないと思います。よくよく考えてみて、本当なのかな? とか、これの背後にはどんな考え方が潜んでいるのだろう? とか、じっくり吟味することをお勧めします。そうすることで、最初は見えなかったものが、徐々に姿を現してくるかもしれませんから。
最後にオマケですが、英語の掛け合わせなら私にも作れます。今パッと考えたのですが、こんなのはどうでしょう。
「私たちは主にあって拒絶(rejection)を乗り越え、喜び(rejoyce)を得ることができます!」(眉唾)
なんかそれらしくないですか。使いたい人がいたらどうぞ自由に使って下さい(笑
「キリスト教は宗教じゃないんですよ」
返信削除よく教会で言われていました。他の宗教は人間が神に近づこうと努力するが、キリスト教は神が人間に近づいてくれたからだそうです。そういう細かい事情はどうあれ、「神」を求めている以上キリスト教は宗教であると言わざるを得ないと思います。それにしては、自分たちがまさに努力して神に近づこうとしているファリサイ人のようなことをしているので何とも滑稽だなと思っています。
他宗教、特に仏教を目の敵にしていましたね。「仏教の問題点」というセミナーまであったほどです。キリスト教が真実で、その他は偽物だと言いたいようです。「仏像は壊しても大丈夫だ」、「あの人たちは間違っている」とよく言っていましたから。仏教徒たちも真剣に信じているというのに随分不寛容なものです。他の宗教を尊敬できないのに、愛や親切について説くのもおかしな話だなと。真理は自分たちしか知らないと思いたいのでしょうかね。教会に居ればいるほど、どんどん排他的になっていきます。つまりどんどん不寛容になっていってしまうのです。しかも自分たちがそれに気づいていないのが厄介なのではないでしょうか。
他宗教の問題点を内部で声高らかに叫ぶのは大いに結構ですが、私はそれが神社油まき事件のような攻撃に発展するのではないかという点について、危惧しています。
reiさん
削除おっしゃる通りです。
「他の宗教は神に近づく努力が必要」
「キリスト教は神が人間に近づいてきてくれた」
というフレーズを好んで使う教会があります。でもそういう単純な二元論ですべての宗教を一括りにまとめようとするのが、そもそもおかしいと思います。他の宗教に対する尊敬も、理解も全くないのではないでしょうか。
キリスト教は確かに「神が人間に近づいてくれた」かもしれませんが、同時に人間の側も、考え方や行動を改めて神に近づく努力をする必要があるはずです。他の宗教も単純に「努力するだけ」「修行するだけ」ではないはずです。
そういった複雑さをすべて排除し、単純に白黒つけようとするところが、本当に浅はかだと私は思います。
「彼らは間違っている」というのも、その人たちがどんな思いで(仏教なら仏教を)信仰しているのか、どんな背景があるのか、どんな悩みや葛藤があるのか、といった部分をすべて無視しているとしか思えない発言です。おっしゃる通り、不寛容ですね。そういう人たちがキリストの愛とか許しとか、よく言えるなあと。
神道は宗教ではない。日本古来からの習俗だ。氏神様だ。だから全員氏子なのだ。みんなのための神様だ。私の住んでいる地区の自治会、約1000世帯、うち神社の氏子数160世帯。自治会のある役員が自治会から氏子総代を出してくれ、俺は総代を皆のためにやっている、年間6万円以上の出費がかかる、自治会でその費用を出してくれ、という要望が昨年出されました。神社に対しては、諸行事に自治会から年間数万円を出しているではないか、それ以上出せないという意見が多数で否決されました。神社は特別だという意識が田舎ではまだまだあるのです。その他、宗教ではないといいつつ、実質宗教団体の実践倫理**など、我が家に朝起き会の勧誘にも来ますよ。
返信削除神道にせよ他の宗教にせよ、それぞれの歴史や営みや事情があるのですね。キリスト教会の中にずっといて、そういった事情に関心を向けなくなることで、クリスチャンはだんだん排他的になっていくのかもしれません。
削除他の宗教を攻めるためでなく、理解するために、そういった勉強会みたいなものを教会で開いたら良いかもしれません。実際には難しそうですが。
カトリック=ラテン神道
削除英国国教会=英国神道
ヒンズー教ーインド神道
ユダヤ教=イスラエル神道
宗教という日本語は、色んな意味で使われる使い勝手のわるい明治時代に生まれた人工日本語ですね。
宗教団体:信仰行為:民俗信仰とか色んな意味合いで使われてますね。
宗教学の世界では「占い」や「おまじない」も宗教なんだそうですね。
儒教や朱子学、共産主義を宗教に分類する学者もいるみたいで。
⇒医学・物理・のような実験・実証可能な自然科学以外の、何らかの目に見えない価値に、価値を認めてすがる対象を崇めるのは「神」の名称を使っていなくても「宗教」!
都会では、会社教が頑張ってますね。w
なるほど、今は「会社教」なる新手もあるのですね。すると学校の部活動なんかも、下手すると宗教みたくなってしまうかもですね。あと自己啓発教とか。無意識のうちにも何かにすがってしまうのが、人間の性かもしれません。
削除キリスト教と浄土真宗はとっても似てると思いますけどね。それに宗教はつきつめていくと、生活においては隣人愛を説いてます。
削除イスラムでも教師によっては神の愛を説く人もいますしね。
キリスト教でもカトリックは、神と人との共同作業を重視しますし、正教会は、神が人になったのは、人が神になるためと教えています。
昭和天皇のご生涯は無私の心そのもので、日本人のためにご自身を犠牲されました。それはイエス•キリストと比較にならないものであったと思います。
キリスト教はキリスト教の視点で宗教を理解し、浄土真宗は浄土真宗の視点で、イスラムはイスラムの視点で、それぞれの視点で宗教を理解すれば、自然と目指すところは同じだとわかると思います。
むしろ、キリスト教が宗教と呼ばれていることを喜ぶべきと思いますけどね。
そのうち、宗教ではなくカルトと呼ばれるようになるかもしれないので。
他宗教を一口にダメだと言う人たちは、一度宗教学を学んでみたらいいかもしれませんね。
削除仏教には「生臭坊主」といった常套句があるように、一般的日本人には「免疫」があります。お坊さんを全員、聖人と思ってる日本人は少ないでしょう。w、キリスト教は、メディアや戦前の社会活動家の影響で「何となく良さそうなイメージ」だけを持ってる人が多い印象が、ありますよね。
削除タケシ映画「教祖誕生」に少しだけキリスト教が出てきます。カルトを考える意味でラストシーンは必見です。
確かに仏教は(というか坊主は)日本人にとって身近ですね。「坊主憎けりゃー」みたいな慣用句もありますし、「坊主だからって聖人とは限らない」というのは当たり前のこととして認識されていると思います。
削除キリスト教は、一部のカルトっぽい教会群を知らない大部分の人たちには、どちらかと言うと良いイメージがあるかもしれませんね。結婚式なんかでもチャペルがよく使われますし。
それだけ、キリスト教がいまだ日本に浸透していないということなんですかね。
ところで「教祖誕生」俄然見たくなりました笑
韓国のアニメ映画「我は神なり」も面白そうですね。
「教祖誕生」は映画も面白いですが、ノヴェライズ版も面白いですよ。どちらも夢中になってしまうくらいです。自分が一番印象に残ったセリフは「神様は人間の最大の発明品」ですか。
削除韓国のアニメ映画「我は神なり」も見たいと思いますが、日本では簡単に見られませんよね?
韓国は新興宗教系プロテスタントが市場を席巻している状況ですので、やはりこのような映画は、韓国でしか作られないものと思います。
韓国人もよーくわかっているのです。巷にある十字架は、ただの新興宗教でしかないと。
ビートたけしは日本ですので、やはり新興宗教系神道の形で、新興宗教を描きましたが、韓国人の監督は、同じように新興宗教を描くにしても、プロテスタントで描くというのが興味深いと思います。
https://youtu.be/aYxTPt2_TqY
削除「我は神なり」YouTubeに予告編上がってますよ。(;^ω^)
エンターテインメントとしても良くできてそうな感じですね。
予告編教えていただいてありがとうございます。
削除「我は神なり」は2013年の作品ですが、今年(2017年)の10月にようやく日本でも上映されました。私は興味がありましたが、結局行けなかったです。村人たちを騙すカリスマ牧師と、そのウソを見抜いたけど誰にも信じてもらえない悪人と、思考停止に陥った村人たちの、救いない話みたいですね。
見るのにも覚悟がいりそうです笑
キリスト教は宗教です。過去の信徒たちが宗教として確立してきたことも事実ですし、それを否定するのはどうかと思います。歴史的にここまで継承してきた人々がいた訳ですし。
返信削除Not religion but relationship このフレーズは百回以上聞きましたね。海外かぶれの牧師が大好きな格言です。使う時は、間を取りながらドヤ顔で発音するのがポイントです。
ある牧師とそこのユースパスターは、この生きた神様との個人的な関係をもつという表現を使って、霊性の高さを主張していました。「早天祈祷会でこんなことを主から個人的に語られました。やはり主と関係を築き仲良くなることが大切なのです」「主は私に、『娘よ』とハッキリとおっしゃいました。私は神様に甘えて甘えて心が解放されました」とか言うので、信徒は彼らを尊敬の眼差しで見ます。どれも確かめることができませんが…要は言った者勝ちです。
ある若者がこの牧師にどうすれば神と個人的な関係が築けるか質問しました。すると、見下す感じで「君はまず毎朝『聖霊様おはようございます』と言うところから始めなさい」と言われました。なんだ、お前はただのベニーヒンかぶれかよって話です。
また、他宗教の方々については、行いによって救いを得ようとする愚かな人たちだという見方をしていました。「他の宗教には愛がないんだよね〜」自分たちには愛があると言いたいんでしょう。彼らの言動から感じられるのは自己愛です。言うこと聞かない信徒には冷たくなりますし、悔い改めないならもう来なければ?となりますから。
私的にこういう教会に合う言葉でパッと浮かんだのは、relationship but ... refuses people ですね。嫌なら簡単に人を排除しますから。
神様との親密さをアピールする人いますね。神様とデートしたとか食事したとか、ハグされたとか、何時間も話したとか。間違いなくベニーヒンの影響だと思いますが、結局「信仰自慢」にしかならないことには気づかないみたいです。
削除そういう人が上に立ってしまうと、従う人たちもみんな染まってしまって、延々と悪循環になってしまうのも問題の1つだと思います。
「他の宗教をには愛がない」と簡単に言ってしまうのも浅はかだと思いますね。実際に見たことないだろうし、見ても一部分しかないだろうに、それで全部を決めつけてしまうとは、何とも軽率だなあという感想しかありません。
>>「キリスト教は『宗教(religion)』でなく、『神との関係(relationship)』です」
返信削除ものすごく良く聞くのでびっくりしました!やっぱり同じ事を言う人は一定いるのですね。
この言葉に続いて、神様とデートしたハグした…なんか良く聞きます。正直、「宗教ではなく関係なんだ!!」と熱弁されると
(あ…関わるの辞めよ…。)って思います。
何と言うか…個人的な感情が入るんですけど
神様と食事した、デートした、ハグした。だから??
もっと目の前にいる生身の人間を大事にしましょう。と言いたくなります。
やはりどこも同じようなことを言っているのですね。
削除ペンテコステ派に限って言えば、ペンテコステ親交会のカンファレンスで毎年、主だった牧師たちがこぞって(最新の?)海外情報を仕入れて帰っていきます。だから同じ情報が全国的に広がっていく、という現象がありますね。たぶん今回の記事で取り上げたセリフも、そういう経緯で広まったものと思いますが。
おっしゃる通り、神様との親密さを強調する人は関わりづらいです。よっぽど自分のことが好きなんでしょうね(苦笑
神のために
返信削除神の御心を求める
神の言われる事を第一とするetc.
ほら聖書に書いてある
クリスチャンであるならばそうすべきだ
神に任せれば最善の道が備えられる
聖書を使って講壇から週毎に宣う事は、思考停止させて宗教ビジネスで「信仰」と言う商品に金を出させるためのものでしかありません。
別にカルトと言われる宗派・教派でなくとも、穏健な福音派であっても同じ事。
これが唯一の真理
この道しかない
聖書は誤りなき神の言葉
世の中には沢山の商売があり、勿論目に見えない商品もありますね。電気・ガス・保険など。
しかしそれらは、目には見えませんが確かに保証されたものですし、利用することにより効果があり、結果それに相応しい代金が支払われる事になります。
しかしながら宗教とは如何でしょうか。
信仰の対象が目には見えても見えなくても、例えば天国や地獄があるとか、こう言う風に拝んだり祈ったら、直ぐにこう答えられたとか。
ぼやかしまどろっこしくし、何を言いたいのか分からない説明でお茶お濁し、はっきり「信仰」と言う商品の効果・効能を説明出来ない(出来る訳がない)のでは、悪徳商法と何ら変わらず、詐欺師と言えます。
誠に残念ながら、キリスト教も西洋で設えられた宗教の一つであり、星の数ほど分派を繰り返し、沢山の人の血が流されてそれらを肥やしに今があるだけで、天下にイエス・キリスト以外に救いなしなど、あ~勝手に何時までも言ってれば!と言う感じです。
>それに相応しい代金
削除音楽コンクールや映画とかには「定価」が設定されています。
キリスト教に限らない話ですが、宗教団体の「献金」は厄介です。
値段がついてないのは、結局高くつきます。
もし、礼拝一回3000円とか定価がついていたら、その値段で勝負できる説教者は、何人いるでしょうか?(いないとは言いませんが!)
たしかに、カルト化教会のわかりやすい悪どさはないですが、穏健な福音派も、構造的には同じものがありますね。詐欺的な意図があるかどうかは、また別の話だと思いますが。
削除礼拝にどれくらいの価値があるのか、というのは面白い視点ですね。人気の説教者とそうでない説教者との格差が広がったりするかもしれません笑
>キリスト教も西洋で設えられた宗教の一つ
削除島田裕巳さんはじめ、多くの学者先生が指摘されてるようにキリスト教は西洋の先進文化・舶来文化のシンボル的機能があります。
キリスト教が、中国やインドから来てたら、相手にされてなかったでしょう。欧米の高貴な雰囲気のシンボルなのです。
実際、戦前から戦後の貧しい時期においては欧米人宣教師の奉仕活動がキリスト教のイメージ向上に貢献しました!
だから「教会」と聞いて行ってみたら、アジア系外国人(差別の意味はありませアジア系の友達多いです。(;^ω^))ばっかりだったらり、静かな雰囲気を予想してたら、「絶叫と号泣」の嵐だったりすると面を食らうのです。
そこで「違う」と直ぐに絶縁出来ればよいのですが。
「十字架かかってるし、聖書使ってるからキリスト教だよなぁ~」と躊躇すると悲劇が待っています。
なるほど、私たちは「キリスト教そのものの」というより、「西欧の高貴そうな信仰」という印象を強く受けているのかもしれませんね。
削除仏教より先にキリスト教が伝来し、政治的観点で利用・拡散されていたらどうなっていたか? ちょっと考えてみたら面白いかもしれません。
イメージのギャップもあるあるです。教会はというと、とんがり屋根、パイプオルガン、ステンドグラス、ずらりと並んだ木製ベンチ、といういわゆるカトリック的なものを想像しやすいですが(私がそうでした)、何も知らずにプロテスタント教会に行ってみると、ビルのテナントの一室で、ドラムやギターがあって、ワイワイガヤガヤやっていて、というギャップに驚きます。それを「新鮮」と取るかどうかで、その後が変わってきますけれど。