【体験談】問われるべき牧師の「質」(HN:伊集院裕さんの体験談)

2017年11月7日火曜日

体験談

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 今回は、皆様からいただいた体験談を紹介させて頂きます。
 仕事柄、数多くの教会と関わってこられたHN:伊集院裕さんは、ある牧師の不正事件に遭遇します。そこで気づいたこととは。
 なお本文は伊集院さんから頂いた原文を私フミナルが編集加筆し、ご本人の了承を得て掲載したものです。

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・問われるべき牧師の「質」(HN:伊集院裕さんの体験談)

 私は一時期、キリスト教の関連企業で働いていました。仕事上、多くの教会と関わる機会がありました。各地で牧師の説教を聞き、そこの聖書解説や証を読んできました。

 その中の一つに、「弟子訓練」で有名なF教団がありました。複数の教会を抱え、いくつかの事業も展開する教団です。私は縁あって、しばらくそこの教会に通うようになりました。
 と言っても、あくまで部外者です。内情を深く知っているわけではありません。しかしそれでも「変だな」と思うことが多々ありました。

 たとえばそこでは「霊的」という言葉がやたら使われていました。彼らには普通のことだったかもしれませんが、何でもかんでも「霊的」「霊的」と言うのが、部外者である私にはなんとも奇妙に聞こえたものです。
 また教会の方針がコロコロ変わるのにも違和感がありました。一貫性がなく、あちこちフラフラしているように見えました。イベントが多いのもその影響かもしれません。次々とイベントが企画され、Aで盛り上がったかと思えば早くもBに、そしてBが終わればCに、その次はDに、絶えず新しい何かで盛り上がっていないと気が済まないようでした。そのたびにスタッフたちが振り回されて、可哀想でしたが。
「弟子訓練」も、ちゃんと機能していなかったようです。「弟子」となるのは外部から来た神学生や献身者ばかりでした。既にいろいろわかっている人たちが、活躍の場を求めて集まってくる、みたいな形です。訓練というより活動でした。

 そんなある時、F教団のG牧師によるセクハラ、パワハラ、金銭問題が発覚しました。そして被害を訴える教会スタッフたちと、それを頭から否定するG牧師との間で激しい応酬となりました。関わりのあったいくつかの教会も巻き込みました。

 教会スタッフたちは「牧師からこんな被害を受けた」と、具体的な被害内容を訴えます。
 それに対してG牧師は反論するのでなく、「彼らは性格に異常があって、信用できない人間だ」と主張します。いわゆる人格攻撃でした。潔白なら、根拠をもって反論すべきでしょう。なのに論点をずらし、問題をうやむやにしようとしているようにしか見えませんでした。
 部外者である私のところにも、教会から手紙が届きました。やはりG牧師がスタッフらをひどく中傷する内容でした。それを見ても、「G牧師の方が黒なのではないか」という疑念が、深まるばかりでした。

 外部の牧師たちが仲裁に入りましたが、どうにも決着がつきません。ついにマスメディアの報道するところとなりました。そして裁判に至りました。詳しい経過はわかりませんが、最終的に原告側(スタッフ側)の訴えが認められたとのことでした。やはりG牧師が黒だったのです。

 私は一連の顛末を見ても、特にF教団に失望しませんでした。はじめから期待していなかったと言った方がいいかもしれません。前述の通り「変だな」と思うことがあり、あくまで部外者として接していたからです。

 それよりも私が失望したのは、外部の牧師たちの対応の方でした。仲裁に入ったどの牧師(みな福音派や聖霊派でした)も、きちんと筋の通った判断ができなかったのです。G牧師の言い分もスタッフ側の言い分も、全て出揃っていました。情報不足で判断できないということはなかったはずです。なのに裁判に持ち込むまで、誰も白黒を付けられなかったのです。百歩譲って、法的知識がなかったことを考慮してみましょう。それでも普段から「真理を知っている」と豪語している牧師たちが、そんなザマでいいのでしょうか。だとしたらなんと薄っぺらい「真理」なのでしょう。私はそう思いました。

 それとも私が期待しすぎたのでしょうか。どこかに立派な牧師がいて、相手が同業者でも誰でも、白は白、黒は黒とはっきり指摘してくれるのを。根拠を明確にし、論理的に全てを説明してくれるのを。

 その件をキッカケに、私は仕事を辞めました。また福音派や聖霊派の牧師の多くに見られる、同様の「薄っぺらさ」に気づいて愛想が尽きました。沢山の教会を見てきた分、失望が大きかったのかもしれません。

 牧師たちは日頃から、礼拝説教や個人ブログ、キリスト教メディア等で意見を述べています。前述の通り「真理を知っている」と語っています。でも実際のところ、それらはよく考え抜かれたとも、議論によって磨き上げられたとも、反対意見に晒されて鍛えられたとも言えない代物です。牧師の個人的見解を、無批判なのをいいことに延々と垂れ流してきたに過ぎません。
 
 私は少なくとも150以上の教会を回りました。そして牧師の方々が書く記事に目を通してきました。そこでわかったのは、少なくともそれらの牧師は聖書を論理的に読めていない、ということでした。書いていることが総じて非論理的なのです。また飛躍や脱線ばかりです(それは説教も同じでした)。ある聖書箇所から、どうしてそのような話に繋がるのか全くわからない。そんなことが日常茶飯事でした。
 そういうことだから、イザという時に物事を正しく見極めることができず、適切に判断できない、何も解決できない、なんてことになってしまうのだと思います。
 昨今の牧師の「質」とは、その程度のものなのでしょうか?
 上記の件は、まさにこの点が露わになった事件だと、私は思っています。(終わり)
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 以上になります。

 F教団のG牧師による事件もさることながら、それを適切に対処にできなかった牧師たちの姿にガッカリした、という伊集院さんのお話でした。
 本文にはありませんが、仲裁に入った牧師たちの中には、G牧師に対して批判的だった人もいたそうです。けれどそういう牧師たちも、何が問題なのか明確にできず、G牧師と直接対峙することもできず、結果的に何もできなかった、ということでした。そこまで介入する気概がなかった、ということかもしれません。本人たちにはいろいろ反論や言い訳があるでしょうけれど。

 牧師の割に聖書を論理的に読めていない、説教が論理的でない、というのは私も大いに頷くところです。もちろん全員が全員という訳ではありません。けれど話を聞いていて頭の中が「?」だらけになることも、少なくなかったと記憶しています。
 論理的でない、話の筋道の通っていない牧師って、それだけで心配になります。上記のように何か問題が起こった時、適切に対処できないのは目に見えていますから。もっとも、初めから牧師にそういう期待をしていなければ、それでもいいのでしょうけれど。

 余談になりますが、一方で、説教にものすごく力を入れる牧師たちもいます。もちろんどの牧師だって説教には力を入れていると思うのですが、一部の牧師たちは、それこそ説教に牧師生命を掛けていると言っていいくらい「本気」です。
 彼らは感動的な演出を心がけます。笑いをとり、泣かせ、興味深い例話を用意し、画像や動画で注意を惹きます。最後はお涙頂戴の感動的な祈りで、献身を促し、献金を促します。ジェットコースターみたいな「エンタメ説教」です。そういうのが好きな信徒は大変満足しますから、「恵まれました」と言って帰って行きます。
 それくらい「本気」です。

 でもそういう牧師にしたって、F教団のような事件が起こった時、適切に対処できるかどうかはすごく怪しいと私は思います。

 牧師の「質」とは何か、考えさせられます。
 普段の言動や行動より、イザって時に何ができるか、できないかに、牧師の「質」が表れるのかもしれません。これはぜひ牧師の方々に読んで頂きたい体験談でした。
 提供して下さった伊集院さん、ありがとうございました。

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