元キリスト教原理主義者の雑感

2017年10月8日日曜日

雑記

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「預言」について、小難しいことを3回続けて書きました。なんだか頭が疲れましたね。読んで下さった方も疲れたんじゃないかと思います(ただの想像)。
 というわけで今回は息抜き的に雑感を書きたいと思います。どうでもいい話になると思うので大変恐縮なのですが。

1年という期間の重み

 早いものでもう10月ですね。今年もあと3ヶ月を切りました。ちょっと気が早いですが、今年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか。
 私個人はちょっとペースダウンして、今年はゆっくり過ごしました。何度か書いている通り、今年の3月でようやく学校が終わり、ちょっと休みたい気分だったからです。休むと言っても仕事はしなければならないので、まあ適当に働いていたわけですけれども。

 私が常々思うのは、「時間」は人間にとって最も貴重で、掛け替えのないものだということです。物や金銭はなんとか取り返すことができても、時間だけは取り返すことができませんから。有意義であろうがなかろうが、過ぎた時間はもう返ってこないわけです。当たり前ですけれど。だからできるだけ有意義でありたいと私自身は願っています。

 具体的には、何かを「積み上げる」ことが大切だと考えています。何かコレと思うものを、年月をかけて、コツコツと積み上げていくのです。
 私はこの3月に学校を卒業し、資格試験に合格しました(お祝いの言葉を頂きありがとうございました)。約3年間学習を積み上げて、資格をゲットしたわけです。これは素直に嬉しいことでした。
 ただ私が言っている「積み上げる」とは、資格とか学習とかだけの話ではありません。日々コツコツ努力することの全部に当てはまると思います。筋トレで筋肉や体力を蓄えることも、英会話教室で英語力を身に付けることも、毎日真面目に働いて職場で信頼を得ることも、すべて一朝一夕にはできません。ある程度の期間、コツコツ続けた結果として得るものです。
 その1回1回は大したことないかもしれません。英単語を10個覚えたところで、ほとんど何にもなりません。でも毎日10個ずつ覚えていったら、1年後には今読めない英文が読めるようになっているでしょう。その10個を大したことないと思うか、重要な一歩と思うかで、違ってくるわけです。

 1年間という時間は誰にとっても同じ長さですが、どう過ごすかは皆違います。無為に過ごすことできます(無為が悪いわけではありません)。逆に何かを積み上げることもできます。そして私は後者の努力が好きなわけです。べつに押し付けるつもりはありませんが。

 さて、2017年は、皆さんにとってどんな1年だったでしょうか?(やっぱり気が早い)

・私はすごい原理主義者でした

 2013年の3月からこのブログを始めて、はや4年半が経ちました。もうすぐ5年の節目になります。何年書いても文章が上達しないのが問題ですが(それこそ積み上げられてないってことですね笑)。

 カルト化教会というニッチすぎる分野ですけれど、皆さんから頂く反応はハッキリ2つに分かれます。賛成か反対です。カルト化の被害に遭われた方は概ね賛成してくれていると思います。応援のコメントも沢山頂いています。しかし反対するのがどういう人たちなのか、(あまり議論をしないので)イマイチわかりません。原理主義的な教会の皆さんなのでしょうか。
 私は「預言」や「異言」や「癒し」などの奇跡系体験には懐疑的です。また「終末」や「携挙」を強調するのに反対です。「霊の戦い」や「ダビデの幕屋の祈り」などはもはやキリスト教ではないと考えています。もしかしたら、そのへんが原理主義の皆さんの反感を買っているのかもしれません。よくわかりませんが。
 でも私自身、生粋の原理主義者でした。たぶんそのへんの原理主義者がビックリするくらい過激でした。だから原理主義の皆さんがどう考えているのか、何を大切にしているのか、よく知っています。当ブログではあえてそれらを批判的に書いていますので、まあ怒られても仕方ないのかもしれませんけれど。

 でも当ブログを読んで怒られる原理主義の皆さんは、私がもともと「仲間」だったことは心に留めておいて下さい。そして「何が」私をここまで変えたのか、そのへんに興味を持って頂けると嬉しいです。

・クリスチャンのブログとは何ぞや

 以前、当ブログにこんなようなコメントを頂きました。
「聖書の引用のない(クリスチャン)ブログはダメだ」
 その人いわく、聖書の引用が沢山あるブログは「良いブログ」だそうです。逆に引用のない(当ブログのような)ブログはダメなようです。
 ずいぶん乱暴な言い方だと思いますが、皆さんどう思われますか。

 単純に考えて、クリスチャンが書くブログに聖書の引用があるかないかは、そのブログの「目指すもの」によって変わってくるんじゃないでしょうか。聖書解釈を披露したいなら、当然ながら沢山引用することになるでしょう。でもそういう必要がなければ引用しないでしょう。それだけのことだと思いますが。

 それに聖書引用が多いからって、そのブログが「良い」かどうかはわかりません。聖書引用でビッシリになった記事を皆さん読みたいですか。私はあまり読みたくありませんが。

 私のブログはキリスト教カルト化教会をテーマにしています。だから読者はカルト被害者か、そいう教会にいる人か、あるいはそういうことに興味のある人になると思います。聖書を読んで知っている人たちです。だからあえて言及しなくても「わかる」だろうと私は想定しています。
 それに全く引用しないわけでもありません。どこそこの書簡を読んで下さいとか、こんなようなことが書いてありますとか、そういう形の引用なら結構しています。もちろん必要に応じてですけれど。

 あまり聖書引用をしない理由は他にもあります。カルト被害に遭われた方の中に、「聖書の言葉さえ見たくない」という人が少なくないからです。私もそういう時期があったのでよくわかります。だから聖書がどうこうという講釈はあまりしません。

 そういう諸事情を無視して、「引用が多い=良いブログ」「引用がない=ダメなブログ」と決めつけてしまうのは、なんとも浅はかじゃないかなと私は思います。
 繰り返しますが皆さんはどう思われますか。

 何だかんだ言いつつ、また小難しいことを書いてしまった気がしますね。大変失礼しました笑。それではまた。

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