・『ワイルドスピード』シリーズについて少し
その『ワイルドスピード8:アイスブレイク』を劇場鑑賞したのですが、まあ面白かったですね。ド派手なアクションにくわえて、ヴィン様と仲間たち(ファミリーと呼ぶ。マフィアかよw)との絆の熱さに泣かされます。ファミリー1人1人にちゃんと見せ場があり、故ポールさんの出番までちゃんとあって、グッときました。ストーリーはとんでもないご都合主義が満載ですが、そこは大作映画だからいいんです(きっぱり)。映画ファンはごちゃごちゃ言わずに楽しみます。ちなみに今回はレビューではありませんので、詳しい内容には触れません。
・「昨日の敵は今日の友」現象
今回取り上げたいのは、そんな『ワイルドスピード』シリーズの定番となっている1つの現象についてです。その現象とは、「昨日の敵が今日の友になって、更なる強敵に立ち向かう」というものです。
シリーズを振り返ってみると、この現象はいくつも見られます。はじめはヴィン様とポールさんが敵どうしでした。でも4作目をキッカケに、2人は共闘することになります。次に5作目に初登場するドウェイン・ジョンソンはFBI捜査官として執拗にヴィン様を追いますが、6作目では結局共闘関係になります。その6作目の悪役ルーク・エヴァンスは一旦退場しますが、7作目の悪役ジェイソン・ステイサム大将とともに、8作目でヴィン様を助けることになります。
で、回を重ねるごとに悪役も強くなっていくわけです。8作目では、『マッドマックス』のフュリオサ将軍役が強烈だったシャーリーズ・セロン女史がラスボスとなっています(でも最後は逃亡したので、きっと何かの形で再登場すると思います)。
という、これがいわゆる「昨日の敵は今日の友」現象です。『ドラゴンボール』なんかと同じですね。
・「どんどん敵が強くなる」現象
この「昨日の敵は今日の友」現象は、どうしても「前作の敵が次回作で仲間になって、より強い敵に立ち向かう」という構図になります。だから敵をどんどん強くしなければならないわけです。前作のラスボスが初めから仲間になっているわけですから、当然と言えば当然ですが。
ラスボスは毎回「こいつは史上最悪のワルだ」みたいな紹介をされるのですが、上には上がいる、ということですね。「最強の敵」が可愛く見えるくらい、次回作の敵は「もっと最強」なわけです。その次も、そのまた次も(もはや最強じゃないw)。
でも、映画ならそれでも全然構わないです。脚本家たちがいろいろ考えて、より強い敵を作ればいいだけですから。
でもふと考えてみると、実は同じような現象が、一部のキリスト教会でも起きているのでした。
・「霊の戦い」に見られる「際限のなさ」
キリスト教プロテスタントの一部の教会では、「霊の戦い」と称する活動が行われています。
どんなことかと言うと、目に見えない「霊の領域」みたいなものがあって、実は現実世界に強い影響を及ぼしている。だから人間は知らず知らずのうちに「霊」の影響を受けている。それが「神の霊」であればいいけれど、「悪い霊」だった場合、いろいろと不都合な状況になってしまう。だから「霊の戦い」なるものをして、「悪い霊」を「打ち破って」、影響を受けないようにしよう・・・
みたいな考え方です。
少し前に話題になった「神社仏閣油撒き事件」も、基本的には「霊の戦い」と同じような考え方です。
でこの「霊の戦い」は「戦い」なので、当然ながら「相手」がいます。でも「霊の領域」の話だから、見えません。見えない相手に向かって「戦い」を繰り広げるわけです(だから「霊の戦い」と呼ぶわけですが)。
その相手が誰かと言うと、まあ簡単に言うと「悪魔」「悪霊」なのですが、牧師とかの指導者が「これは◯◯の悪魔だ」みたいな形で紹介してくれます。だから信徒の皆さんは、口ぐちに「◯◯の悪魔よ! 退け!」とか叫んで「戦う」ことになります。
ちなみに牧師がどこでどうやってその「◯◯の悪魔」の情報を仕入れてきたかは、まあ企業秘密ということにしておきましょう。気になる人はメールでも下さい。
わかりにくいと思うので、実例を(ちょっと脚色して)紹介しましょう。
たとえば「東京を悪魔から解放しなければならない」という話の時は、こんなストーリーが牧師の口から飛び出しました。
「実は江戸の初期、徳川家康と空海が、東京の何箇所かに結界を張った。それが今でも悪魔たちの足がかりになっている。だから私たちが霊の戦いでその結界を打ち破らないと、東京は解放されない」
また「日本を解放しなければならない」という話の時は、こんなストーリー。
「日本を縛る5人の巨人がいる。この巨人たちを1人ずつ、順番に縛らなければならない。その順番も神によって示されなければならない」
あるいは「東日本と西日本の『霊的分断』を癒し、和解をもたらさなければならない」という話もありました。こんなストーリー。
「関ヶ原の戦いによって、日本は霊的に、東西に分断されてしまった。だから今も、東と西で霊的な争いがある。私たちは十字架の血潮によって、この分断に和解をもたらさなければならない」
他にも沢山紹介できますが、もう十分だと思います。どれも似たようなものなので。
要は、Aを解放するために◯◯と戦い、次にBを解放するために××と戦い、次にCを解放するために△△と戦い・・・という感じで、延々と続くわけです。
何かの敵を倒したと思ったら、「実はこの背後にはホニャララという敵が潜んでいる」みたいな話になって、また戦わなければなりません。その次も、そのまた次も。そして敵はだんだん大きく、だんだん深く、だんだん不気味に、だんだん巧妙になっていくわけです。
あれ、『ワイルドスピード』シリーズや『ドラゴンボール』と同じだなあ、と思った皆さんは察しがいいですね。その通りです。
「霊の戦い」は延々と続くので、敵はどんどん強くならなければなりません。それが終わってしまったら困るからです。いったい誰が困るのか? それは察しのいい皆さんなら、もうおわかりかと思います。
いずれにせよ『ワイルドスピード』のような面白いシリーズはいつまでも(面白いままで)続いてほしいのですが、まあこれ以上のスケールアップは難しいでしょうし、製作サイドもあと2作で終わるようなことを言っていますから、残念ながら終わる時がくるでしょうね。でも「霊の戦い」のような活動は、個人的意見として率直に言いますが、早いところ終わってほしいなあというところです。
※ちなみに「霊」に関することを何でもかんでも否定する意図はありません。
>「実は江戸の初期、徳川家康と空海が、東京の何箇所かに結界を張った。それが今でも悪魔たちの足がかりになっている。だから私たちが霊の戦いでその結界を打ち破らないと、東京は解放されない」
返信削除まず最初に言いたいことがあります。
徳川家康と空海は同じ時代を生きた人間ではありません。空海の生きた時代は関東には何もありませんでした。空海の生涯を通じて関東に足を踏み入れたことはありませんので、江戸に結界を張ることなどありえません(平将門の乱は空海の死後ですので、空海の生きていた時代は怨霊になっていませんでした)。
新興宗教系プロテスタントは反知性主義をうたっているだけあって、一般教養程度の常識すら知らないというのは事実で、しばしば彼らの無知や頭の悪さはクリスチャンの間でも物笑いの種になっているくらいです。日本人なのに日本の歴史にくらいのですから、恥ずかしいといいましょうか、嘆かわしいといいましょうか。
結界は徳川家康と天海僧正が張ったのかもしれませんが、新興宗教系プロテスタントの人間は、本当になんにもわかっていないんだなあと思いました。結界は悪魔の足掛かりではありません。悪魔に足を踏み入れられないように張るものなのです。結界によって守られているのだということをわかっていないという時点で、新興宗教系プロテスタントの人間はだめだめです(風水に詳しい人の話では、都庁が龍脈を断ち切ったといわれていましたが、東京スカイツリーで復旧したのだそうです。東京スカイツリーが何をモデルにしたのかといえば、お印になった高野槇ですが、ひょっとするとこれも何かあるのかもしれません)。
ちなみにチンピラ新興宗教の人間が、どんなに頑張っても結界が打ち破られることなどありえません。江戸時代は江戸城で天海に代表される高僧が仏教式で祭祀を行い、明治時代になってからは天皇陛下が神道式で祭祀を行っています(実は宮中では多くのクリスチャンが陛下の祭祀を支えているのです)。
余談ですが
>キリスト教プロテスタントの一部の教会
プロテスタントといっても広いので、「新興宗教系プロテスタントの一部の教会」といった方がわかりやすいと思います。
コメントありがとうございます。
削除記事中で紹介している事例は多少の脚色をくわえていますので、「こんなような話」くらいに受け止めてもらえばと思います。固有名詞等は変更している場合が多いですので。あしからず。