「異言を伴う聖霊のバプテスマ」についてnoteに書いたので紹介したい。
一部のクリスチャンが主張する「異言」の問題点はこれまでも書いてきた。改めて整理すると次のようになる。
・言語学的問題
「異言」が言語である限り、相応の言語体系がなければならない。しかし例えば「ダダダダ」とか「ララララ」とかいった単音(あるいは二音でも三音でも)の単純な繰り返しで、言語を成立させることはできない。日本語で「おはよう」を百回繰り返しても「おはよう」でしかなく、その四文字だけで日本語を成立させられないのと同じように。
・心理的圧迫
「異言を語れるようにならなければクリスチャンとして成長できない」という類の教えを日常的に受け、かつ「異言」が出るまで祈られ続けたら、律儀な人は「異言」をなんとなく喋ってしまうだろう。そこには本人の「成長したい」という願いも影響している。その手法は心理的圧迫であり、洗脳に近い。
・聖書からの逸脱
「異言」を主張する現場では、「最初は(先輩たちの)真似をすればいい」「赤ちゃんの喃語と同じで徐々に成長して行く」「長時間祈るほど霊的パワーが増す」といった教えが語られるが、そんなことは聖書のどこにも書いていない。
・間違った優越感
「異言で祈れる」と主張するクリスチャンはしばしば、「異言」を否定するクリスチャンを見下す。「霊的に開かれていない」「目覚めていない」「真理から離れている」などと一方的に決め付ける。しかし「異言で祈れる」という主張に根拠はない。にもかかわらず「自分は正しい」「この異言は正しい」と無条件に信じるあなたは、自分を神の位置に付けている(「自分を神の位置に付けてはいけない」とよく教会で語られるだろうに)。
・実を結ばない問題
クリスチャンはしばしば「実で判断する」と言う。「結果を見て良し悪しを判断する」という意味だ。であるなら、長年「異言」で祈ってきた牧師たちが不正会計をし、不貞をし、妻を殴り、信徒を虐待し、好き放題にしてきた「結果」はどう判断したら良いのか。それは本当に「異言」なのか。
私も20年近く「異言」と信じて祈ってきたが、教会解散を機に上記の問題点に気付いた。明らかに間違っていた。「異言」で祈らない今の方が当時よりはるかに健全だ。気付けて良かったと心底思う。
今「異言」と信じて祈っている人がいるなら伝えたい。今からでも遅くないから間違いに気付いてほしい。人生の時間を無駄にしないでほしい。20年近く無駄にしてしまった私からの切なる願いだ。