クリスチャンの婚前交渉と不幸の関係(あるいは無関係)

2021年8月17日火曜日

教会生活あれこれ

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 キリスト教のプロテスタント界隈ではほぼ定期的に、交際や同棲や婚前交渉の是非が話題になります。罪なのか、罪でないのか、「悪いこと」なのか、「個人の自由」なのか、と。そして意見は分かれるばかりで、悩む人たちの悩みを深めるばかりです。

 クリスチャンの若者たちを婚前交渉から遠ざけさせるため、教会が長く言い続けてきたのは概ね次のような言説です。

「異性と二人きりになってはいけない」

「密室状態になってはいけない」

「手を繋いではいけない(身体的接触をしてはいけない)」

「出かけるならグループで出かけなさい」

「デートは祈りで始まり祈りで終わるようにしなさい」


 これらに「アーメン、その通り」と同意する保守派のクリスチャンは多いでしょう。神の宮である体を「きよく」保ちましょう、神様を悲しませてはなりません、「その時」まで待って最大の祝福を得ましょう、云々。


 しかしそこには、「二人きりになったり密室状態になったりしたら(必ず)婚前交渉をしてしまう」という決めつけがあります。若者たちを信頼してもいません。関係を異性間に限定する先入観もあります。行動制限としても人権侵害が疑われるレベルです。そろそろ教会は反省して、考え方を見直すべき時ではないでしょうか。


 交際や同棲や婚前交渉を一方的に、頭から否定し、禁止し、「結婚まで待てば祝福されるから」と無責任な約束をするのも問題です。結婚した先に地獄が待っていることがありますから(同棲することでそれを事前に防げるなら、同棲は決して悪いものではないと思います)。ちゃんと一対一で交際することで見えてくるものもあります。「こんなはずじゃなかった」という後悔を減らせるかもしれません。


 禁止に終始するばかりで、そういったことを具体的に、積極的に教えないのは、体裁や見栄えを気にしているからではないでしょうか。それは若者のことを本当に心配している態度でしょうか。


 不可抗力的に婚前交渉に至ってしまうこともあります。例えば男女のパワーバランスの違いも考慮しなければなりません。女性の方が断りきれなかった、というケースはよく聞きます。その場合、その男女の罪は(それが罪だと仮定して)同じ重さなのでしょうか。


 そして「した/していない」という表面的な「敬虔さ」は、若者たちを禁欲競争に駆り立てます。守れた子(あるいは、問題がないように見せることに成功した子)は「よくできました、素晴らしい」と褒められます。そうでない子は「罪人」とか「意思が弱い」とか言われます。それは能力や態度で序列を作る日本の学校教育の弊害を、そのまま教会に持ち込んだだけではないでしょうか。信仰の問題ではなくて。



 教会であれこれ禁止するのであれば、ちゃんとした性教育が前提にあってほしいです。聖書の話でなく、具体的なことを話し、疑問に答え、若者たちの一般的なことと同時に、個別のことにも対応してほしいです。そこまでできないのであれば、一方的に禁止するのは無責任だと思います。


 「結婚するまで待てば祝福される」という教会の約束を信じた子が結婚後に酷い目に遭っても、当然教会には相談できません(結果、教会で語られるのは結婚に成功したケースだけになる=生存バイアスがかかる)。「こんなはずじゃなかった」と後悔するのは本人です。キラキラした将来を約束した教会は、何も責任を取りません。そして同じような不幸を、今後も笑顔で量産し続けます。


 それが延々と続くとしたら、地獄は教会の中にこそあると思います。さて婚前交渉と、不幸を量産すること、どちらが問題でしょうか。

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