同性愛は罪だ、と言う前に考えてほしいこと

2019年2月5日火曜日

性的マイノリティ

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 クリスチャン界隈でしばしばこのようなことが言われます。
同性愛は罪です
 ツィッターでも時々この類の言葉を見かけます。それに「アーメン」というコメントが多数付くのもよくある光景です。

 この話題で私がよく持ち出すのが、ハリウッド映画『キングスマン』です。劇中にアメリカ南部の教会が出てきます。教派はわかりませんが保守的(原理主義的?)なところで、牧師が説教中にこう叫びます。
同性愛者どもを殺せ!
 それに多くの「アーメン」が続きます。たぶんデフォルメされているのでしょうけれど、きっとアメリカでもこういうのは珍しくないのだと思います。

 このようにキリスト教のある教派は、同性愛について非常に「厳しい目」を持っています。
 その是非はともかく、それが現状であるのは残念ながら間違いありません。

 ただ昨今は(国や市区町村の)同性婚を認める動きの中で、同性パートナーシップや多様なジェンダーについての理解が徐々に広まりつつあるようです。それ自体は喜ばしいことです。そのためか上記の教派の人々にも「穏健な発言」が見られるようになりました。
 ただ「穏健」と言っても、こんな感じですが。
「同性愛指向そのものは罪ではない。教会に受け入れるべきだ。しかし同性セックスは罪だから戒めなければならない」

 なんだか奇妙な話じゃないでしょうか。その「指向」は罪でないけれど、それを「行動」に移すと罪になる、というのは。じゃあ結局その指向そのものが「罪」なのではないでしょうか。

 ところで真面目な話、「同性愛は罪だ」というのは適切な表現ではありません。「罪か否か」の話でなく、「表現として適切でない」ということです。

 まず「同性愛は……」と書いているところに性自認・性指向に関する知識不足があります。私だって十分な知識があるわけではありませんが、性自認・性指向は複雑かつ多様です。

 私たちが一般的に(まったく勉強しなくても)認識しているのは、次の二つのケースです。

①生物学的に男性で、性自認も男性で、異性愛指向(つまり女性に性的魅力を感じる男性)。
②生物学的に女性で、性自認も女性で、異性愛指向(つまり男性に性的魅力を感じる女性)。

 これらが「普通」で、「正常」で、「自然」だと思いがちです。
 でも実際にはもっと多種多様です。

③生物学的に男性で、性自認も男性で、同性愛指向。
④生物学的に男性だけど、性自認は女性で、異性愛指向(見た目は同性愛)。
⑤生物学的に男性だけど、性自認は女性で、同性愛指向(見た目は異性愛)。
⑥生物学的に女性で、性自認も女性で、同性愛指向。
⑦生物学的に女性だけど、性自認は男性で、異性愛指向(見た目は同性愛)。
⑧生物学的に女性だけど、性自認は男性で、同性愛指向(見た目は異性愛)。

 これでもまだ途中です。更に両性愛や無性愛なども加わり、より複雑になります(すみません、私もちゃんとは理解できていないかもしれません)。
 だから「同性愛は罪」と言っても、「どの同性愛のことですか?」となります。上記の通り、見た目にわからない同性愛もあります。同性愛に見えるけれど異性愛、という場合もあります。生物学的には異性愛だけど、性自認としては同性愛、という場合もあります。その「有罪/無罪」の線引きは、いったいどこでするのでしょうか。またそれは誰が、どのように決めるのでしょうか。

 というような事情を理解していれば、「同性愛は罪」などと簡単に言えません。「知識不足」とはそういうことです。

 そしてもう一つ肝心なのは、「性のあり方のほとんどは、人生の中で変わったり、本人の意思で選んだりするものではない」ということです。「選ぶ」ものでなく、「気づく」ものです(人生の中のある時点で性指向が変わる、というケースも一部にあるそうです)。
 ですから、性のあり方で意図的に「罪を犯す」「神に背く」ことなど不可能なのです。

 あなたが異性愛者であるなら、このように考えてみて下さい。
「よし、今から神に背いて罪を犯してやろう。同性愛者になって、男性(女性)と恋愛関係になってやる」
 それで同性愛者になれるでしょうか? なれないと思うのですが。なれる人がいたら教えて下さい。
 同様に同性愛者も、自ら望んでそうなったのではありません。だから異性愛に変えることもできません。

 身体的にも心理的にも男性で、同性愛指向を持って生まれた人は、少年時代に男友達に魅力を感じてしまい、戸惑うそうです。他の男子のように女子に魅力を感じず、「自分はおかしいのか」と葛藤してしまうのです。でもそれはあくまで「気づいたらそうだった」ということで、自らの意志や選択ではありません。
 なのに大きくなって教会に行ったら、「同性愛は罪です!」と言われてしまうのです。そのような心境について、冒頭のように言う人たちは、考えたことがあるでしょうか。

「罪」とは何でしょう。私たちはどのように「罪を犯す」のでしょう。
 それはほとんどの場合、「罪だとわかっていて、自ら選んで犯す」のではないでしょうか。
 であるなら、自分が同性愛指向だと気づいた人は「選んだ」のではありませんから、「罪を犯した」とは言えません。繰り返しますが、「気づいたらそうだった」のです。あるいは「そうである自分自身を発見した」のです。

 生まれつきのもの、自分ではどうにもできないものを否定される気持ちが、わかるでしょうか。

 少なくともこの日本では、マジョリティとして生きる限り、「生まれつきのものを否定される」という経験はほとんどしません。「皆と同じ」である限り、何も言われません。だから余計に「生まれつきのものを否定される」気持ちがわからないのかもしれません。

 私は生まれつき左利きで、吃音があります。左利きであることは小学5年の時に、吃音であることは中学1年に時にはっきり認識しました。それぞれ「左利きなんておかしい」「なんだその喋り方は」と否定されたからです。でも、自分ではどうにもならないのです。好きでそうしているのではありません。どちらも「気づいたらそうだった」のです。

 でも周囲からは否定されたり、バカにされたり、これみよがしに真似されたりしました。なんとか自分で直そうとしました。長く葛藤しました。しかし無理でした。

 性自認・性指向のマイノリティも同じだと思います。自分ではどうにもならない部分を否定され、「駄目だ」と言われ、「気持ち悪い」と言われ、教会に行けば「罪だ」と言われるのです。その気持ちがわかるでしょうか。少しでも想像できるでしょうか。

 というわけで「同性愛は罪だ」という言説には、一つには知識不足があり、もう一つには人としての配慮の欠如があります。

「反知性主義」を掲げるのは結構ですが、「無知」はいけません。聖書以外の勉強も必要です。また「隣人愛」を掲げるのであれば、ご都合主義的に相手を選んではいけません。自分にとって愛しやすい人を愛するのは隣人愛ではありません。

 最後に、ツイッターでフォローしているケン・フォーセットさん(@kenfawcjp)のツィートを紹介します。
(以下引用)

三年前にオーランドのゲイバーで銃撃事件があったとき「十字架のイエスはあのとき、ゲイバーの中で死にゆく人達と共に居た」という趣旨の投稿をフェイスブックでしたら、福音派から袋叩きにされて複数のグループから追い出された。福音派のほとんどは十字架のイエスを知らない、と確信した時だった。

(引用終わり)
 私も同意です。ゲイバーで銃撃され、死にゆく人々の只中に、イエスもいたのです。共に血を流し、苦しみながら。
 私はそう考えます。

 さて皆さんは、どう考えるでしょうか。

(本記事はメルマガ第56号から抜粋・加筆したものです。)

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