クリスチャンは「お金」の話をすべきでないですか?

2018年12月21日金曜日

教会生活あれこれ

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 今回はクリスチャン的「お金」の話をします。

 教会によっては「お金」の話はタブーと言うか、あまり話題にするのもよろしくない、みたいな雰囲気があるかもしれません。厳しいところになると「主に仕えるか、富に仕えるか」みたいな究極の選択を迫られることもあると聞きます(私の教会もそんな感じでした)。クリスチャンには「清貧」というイメージもありますから、もともと「お金」の話とは縁遠い存在なのかもしれません。

 また教会生活をしていれば、どうしても「献金」が付いて回ります。どれくらい献金するかで信仰を量られる教会もあります。什一献金やら礼拝席上献金やら何やら、何重にも払わされる仕組みになっているところもあるでしょう。そして真面目な人ほど、そういうのを律儀に払っていることと思います。

 結果どうなるかと言うと、あまり裕福にはなれません。端的に言えば「清貧」になる人がほとんどです。それでもお金が有り余っているとすれば、それはよほど稼ぎがいいか、真面目に献金してないか、うまくやり繰りしているかではないかと思います。
 つまり真面目で律儀なクリスチャンほど、手持ちの「お金」が乏しくなっていく、ということです。

「それが何か?」と自信を持って言う方は、それはそれで素晴らしいと思いますね(本当に)。そういう方はその先は読まなくていいと思います(笑)。そうでない方だけどうぞ。

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 あるいは(こういうケースは少ないと思いますが)「献金すれば霊的にも物理的にも祝福され、何倍にもなるのだから、できるだけ献金した方がいい」と教えられた人もいるかもしれません。でも「祝福されるから」「何倍にもなるから」という理由で献金するとしたら、それは「献金」でなく「投資」ですね(ちなみに、実際に献金が何倍にもなったという人は見たことがありません)。

 逆に信徒から献金を「受け取る側」である牧師家庭も、事情は様々です。
 中にはとんでもなく裕福になって、家を新築したり、新車を買ったり、子供に海外留学させたりと、いわゆる「繁栄」を謳歌し放題な家庭もあります。一方でブランドのバッグを持って礼拝に出席しただけで「そんな贅沢して」と信徒から怒られた、なんて牧師夫人もいるそうです。ところ変われば何とやら、ですね。

 信徒が少ない教会になると、「会堂の維持が大変だから」等の理由で、信徒が頑張って献金しなければならない状況もあるようです。中には「私が支えないと」と率先して献金する信徒さんもいるとか。
 でも私に言わせれば、少数の信徒が一生懸命献金しないと維持できないとしたら、それは教会自体の問題です。会堂を持たないという選択肢だってあるでしょうし、運営方法を根本的に見直すべきでしょう。

 さて、クリスチャンは「お金」の話を極力すべきでないのでしょうか。

 私は、お金のことはちゃんと考えなければならないと思います。「そんなの当たり前だ」と言われそうですが、どうも当たり前になっていない状況もあるようですから、ここではっきり言っておきます(笑)。

 以前、あるNPOの方と雑談しました(その方自身はクリスチャンです)。NPOの運営で何が難しいですか? みたいな質問を私がしたら、その方は即答でこう言いました。「一番もめるのはお金のこと。お金のことは初めにはっきりきっちりしておかないとダメ」
 だいぶ実感がこもっていましたから、たぶん嫌な思いをしたのでしょう。詳しく聞きませんでしたが。

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献金しているのだから、多少貧しくても仕方ありません
神様が養って下さると信じてますから、貯金がなくても心配じゃありません
老後のお金? 神様が何とかしてくださるでしょう

 みたいに考えていませんか。
 私が思うに、教会に通っているクリスチャンが将来(老後などに)経済的に立ち行かなくなってしまったとしたら、全然「証」になりません。クリスチャンになると大変な目に遭うんだ、と周囲にアピールすることになってしまいます。

 かと言って、裕福になれ、と言っているのでありませんよ。そこそこでいいから、それなりに満足できる生活を維持するべきではないですか、という話です。
 だから献金はほどほどにしておいて、ちゃんと貯金することをお勧めします。人生あっという間です。貯金できる期間も限られています。教会や牧師のことを心配する前に、まず自分のことを心配して下さい。

 聖書は「自分自身を愛するように他者を愛しなさい」みたいなことを言っていますね。これは「他者を愛しなさい」の前に「自分自身をちゃんと愛しなさい」という命令でもあります。「お金」の面においてもそうすべきだと、私は思います。

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