牧師の仕事はトイレ掃除?
ある牧師がこんなことを言っていました。
「牧師の仕事は大変だよ。トイレ掃除みたいなものだからね」
ちょっと意味がわからなかったですね。牧師職とトイレ掃除とが、どう関係するのか?
でも話を聞いたら一応理解できました。要は、牧師は信徒の「心の排泄物」を処理する、「汚物係」だということでした。
牧師の仕事の一つは、たしかに信徒の相談に乗ることでしょう。その過程で、人間の「暗部」を見せつけられるのだと思います。憎悪とか、欲望とか、嫉妬とか、狡猾さとか・・・。そういった「心の排泄物」を日常的に処理するのを、「トイレ掃除」と表現したのかもしれません。そしてそれが「大変」なのだと。
牧師のバーンアウトの実態
それと似たような話を、他の牧師からも聞きました。
ある牧師は信徒を心配するあまり、不眠症になってしまったそうです。そして睡眠薬を常用するに至りました。なぜそこまで負わなければならないのか、私個人は疑問なのですが。
またある牧師は、中年を過ぎてから夫婦で意気揚々と開拓を始めたのですが、結果的にうまく行きませんでした。何年経っても人が集まらなかったのです。結局うつ状態になって、療養生活に入りました。その後、牧師は辞めたそうです。
他にも牧師を辞めてニューハーフ・バーで働いている人とか、開拓に失敗して辞めていった人たちとかがいます。
教会をどんどん大きくしていく牧師がいる一方で、日の目を見なかった牧師たちもいる、ということですね。このあたりが、教団に属さない(単立の)牧師たちの難しいところかもしれません。
牧師のバーンアウトに関する統計データは、おそらくないでしょう。どこかの教団は集計しているかもしれませんが、キリスト教界全体としてはわからないと思います。
でも私の感覚としては、決して少なくない気がします。むしろバーンアウトを感じても黙って耐える牧師もいるでしょうから、その数は実は多いのかもしれません(皆さんのまわりでは、いかがでしょうか?)。
介入しすぎて勝手に疲れている
私が思うに、プロテスタントの牧師は(傾向として)信徒に介入しすぎです。
仕事のことやら家庭のことやら、プライベートに首を突っ込んで、ほとんど余計なお世話でしかないのに勝手に労して勝手に疲れている、みたいな印象があります(もちろん全員ではないと思いますよ)。
牧師が信徒の悩みに押し潰されてしまうとしたら、(はっきり言うようですが)対人援助者として失格です。溺れる人を助けようとして、ライフセイバーまで溺れてしまうようなものだからです。誰かを助けようとするなら、まずは自分の身をしっかり守らなければなりません。
この問題の根本にあるのは、牧師が「対人援助の仕事をする立場なのに、対人援助の訓練を受けていない」ということだと私は考えています。
神学校のカリキュラムはその学校によって違うでしょうが、いわゆるカウンセリングの分野が全然足りないと、私は見ています。ほとんどの学校はカウンセリグの「テクニック」を学ぶだけで、基礎知識が抜け落ちてしまっています。
でも多くの牧師が、小手先のテクニックを学んだだけで、カウンセリングの何たるかを知ったつもりになっています。そしてインスタントな結果を求めています。本当は何年もかけるべきケースなのに(あるいは何年かけても結果を期待できないケースなのに)、短期間で「結果が出ない」「この信徒は難しい」などと、安易に判断してしまいますから。
また、自分自身を守る術を学んでいません。
カウンセリングで大切なのは、相手との距離を適度に保つことです。近すぎても遠すぎてもうまく行きません。そして相手の悩みや問題を「あくまで他人事」と割り切る必要があります。冷たく聞こえるかもしれませんが、そうしないと結局、相手や自分を傷つけることになるからです。
そういうことを学んでいないのですから、うまく行かなくて当たり前です。なのに「うまく行かない」と思い悩み、葛藤して、勝手にバーンアウトしてしまう、という現状があるように思います。
上記の「トイレ掃除」にたとえるなら、やり方がわからない汚物処理を勝手にやろうとして、勝手に失敗している、といったところでしょうか。
信徒は信徒、牧師は牧師です。他人は他人、自分は自分です。他人の排泄物は、あくまで他人の排泄物です。それを自ら被る必要はないし、被ったところで相手を助けることはできません。
と、いうようなことを理解していただければ、牧師業はもうちょっと楽になるんじゃないかな、と私は勝手に考えています。
(5月20日のメルマガにて、更に詳しく書いています。)
カトリックの神父さんに燃え尽き症候群が見られないのは、一人前の神父になるまで短くて数年かかること、見習い期間が長いこと、赦しの秘跡(告解、昔の懺悔ですね)システムがあるからでしょう。
返信削除開拓伝道することがない、各信徒の個別相談がないこと、これだけでも心的負担は少ないでしょう。たとえ、信徒から相談されても、できないことはできないと言えば良いわけですから。
先日も例年開催される講座について、担当者として、講演予定の神父さんに、講演内容に関する要望を伝え相談しました。要望は全て了承されましたが、それはその神父さんができることだったからでしょう。私もできると考えたから要望しているわけですが。
カトリックの神父さんの方が、精神衛生的に保たれているでしょうね。プロテスタントはそもそも牧師と信徒の距離が近すぎると言うか、牧師がなんでも背負い込む傾向にあると思います。伝統なのかどうなのかよくわかりませんが。
削除トイレ掃除?汚物処理? 牧師自分の汚物も処理できてないくせに、どこから目線?失礼にもほどがある。そういう人って もともとその召しでもないのに自分の判断で牧師になったんでしょ。そんな器じゃないってわかるのに、でたらめな預言でその気になって牧師になるひと結構いるんじゃないかな。上のすストーリーにでてくる牧師みたいに自分で背負って神様に預けきれないって、牧師以前の問題よ。
返信削除たしかに、「トイレ掃除」と言われたら信徒の方はいい気分ではありませんよね。
削除教団によっては、人数合わせのために信徒を牧師に昇格させるところがあります。そういうところは牧師の質も何もあったもんじゃありません。その被害にあうのは、いつも信徒なのですが(苦笑
確かに、プライベートから仕事から何にでも介入してきます。こっちからすれば余計なお世話。それが理解できないんでしょうね。冷たくあしらわれたら泣き出すし、本当めんどくさいです。牧師の前に対人関係トレーニングくらい受けてもらいたい。
返信削除神学の前にマナーを勉強してほしいなあって思う牧師がいますね。マナーと言うか一般常識と言うか。
削除礼拝に何度か通っただけで、私に断りもなく礼拝出席簿に自分の名前が印刷された教会がありました。
返信削除しばらく行かない期間があり、再び行ってみたら、週報の祈りのリクエストに、私の名前+「癒し」と書かれていてびっくりしたことがあります。
その牧師がガジマという人物に傾倒しているのを知り、関わってはいけないと思い離れました。
正式にその教会員になる手続きは一切とっていなかったのですが、教会には私と息子の名前および連絡先の削除、週報等に私たちの名前を載せないことを求めて「脱会届」を書留で送りました。教会籍というものを残したくなかったので。
一般常識<クリスチャンであること、
という偏った自称クリスチャンは、一般社会に対して奇妙に映るだけ。そういう人たちが、駅前でクリスマスキャロリングをした!トラクトを受け取ってもらえた!と言っても、自己満足だと思います。
自分が給料を受けている教会員のサポートを、トイレ掃除と表現するのは、変です。
カウンセリングにせよ、なんらかの対人援助職にせよ、適切な境界線と、相手のニーズの見極め、自分が何は提供出来て、何は出来ないか。当人が取り組むしかないことは何かをも、わきまえる必要がありますよね。
少し関わっただけなのに、週報に勝手に名前を載せられて、「祈りのリスト」に加えられてしまうこと、ありますね。「祈りが必要な人」だと勝手に思われているようで、釈然としません。たぶんやってる方は善意のつもりなんでしょうけれど。
削除自分たちを絶対的な「善」と考える教会は、「教会に来ること=善」「教会に来ないこと=ダメ」という二元論でしか考えないようです。だから数回来ただけの人が来なくなると、しつこくメールしたり、連絡したりします。完全に余計なお世話なのですが、彼らにとってはそれこそが善行だということになってしまいます。
一般常識を欠いた考え方なのですが、教会に長くいると、どうしてもそうなってしまう傾向があるようです。
人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、、の聖書の箇所とかがバーンアウトの原因の一つではないでしょうか? 知り合いの牧師の方は ”牧師とは玄関マットのようなもの、、人がその上に乗ってたとえ3センチでもいいから少し高いところに立って遠くを見てみたい時に使われる物”と表現されていました。牧師館に住んでいればちょっとそこまで来たから寄ってみた、、みたいな信徒さんに悩まされる事も多々あるようです。 心の病のカウンセラーにされて延々と同じ話を聞かされる。夜中に”今から死のうと思って自動車にはねられるのを待ってます”の脅しの電話。 礼拝に来て欲しいから信徒の家まで自動車でお迎え。家庭礼拝という名前の信徒の家での掃除やら料理。献金はろくに出してくれないのに有料のカルト宗教の雑誌が家にあったので唖然!そっちには出すお金あるんですか? 反対に献金をたくさん出しているという理由での牧師乱用。バーンアウト避けたいならば牧師夫妻揃って手に職持って牧師館以外のところに住めば如何なものかと、、 信徒からの献金で謝儀を受け取らない立場なら介入しすぎる事もなく思い切り聖書に従って羊の群れを導いて行けるのでは?? 経済的な自立はのめり込みからの解放と自由への道だと考えます。
返信削除たしかに、信徒側からの多大な要求によって牧師が疲弊してしまうケースもあるでしょうね。牧師の信徒への過干渉、信徒の牧師濫用、どちらも問題があると思いますね。
削除ところでお言葉ですが、牧師が「羊の群れを導く」のは違うと私は思っています。牧師はあくまで模範を示すものであり、先頭とかしんがりとかではないからです。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(Ⅰペテロ5章3節)模範になる事を心がければ自然と信徒との距離もバランス良くなり介入し過ぎる事も濫用される事の問題を改善出来るような気がします。 詩篇23を牧師のモデルと意識されていると見受けられる牧師さんに多く出会う機会がありますががこれは信徒の方々からの要望や期待がこれだからの結果なのでしょうか? 大荒れになった年総会で普段は控え目な20代の若者が”人は皆人生の中で問題や悩みがあると思いますがそれを解決できないからといって、それは牧師のせいでも教会のせいでもありません!”と発言されたのを思い出します。
返信削除新約にも「羊を牧する」という表現がありますから、「牧師=飼い主」「信徒=ペット」みたいな認識が広まっているのかもしれません。だから牧師の方が立場が「上」だとか、「権威」があるとか、そういう誤解が蔓延しているのだと思います。
削除でも本来的には、牧師も信徒も同列のはずです。ただ牧師の方が、より重い責任を負っているとは言えると思います。
キリスト教会に籍を置く者は、日曜にいけりゃそれでいい人、奉仕に力を入れてしまう人、牧師になんでも頼ろうとする人などいるかと思います。なんでも頼ろうとする人は、牧師依存につながりかねない。行政や学校にに相談に行くのも牧師に同行をもとめた人もいて自分でやれよとあきれましたね。
返信削除教会にはいろいろな人が来ますから、一概に言えませんね。
削除たしかに病的に他力本願な人もいて、あわよくば何でも世話してもらおう、やってもらおう、と目論んでる場合もあるから厄介です。でも来るなとも言えませんから、悩ましいですね。できないものはできないと、はっきり断ることも必要だと思います。
愛もなければ常識もない。ホントに神様からの召しだったのだろうか?
返信削除その器でもないのに仕事ないから牧師に自分から志願したのだろうか?
今では本人しか知る由もないが、愛がないのでうるさいシンバル教会のトイレメッセージ聞く価値もない。
シンバル教会のトイレメッセージ(笑)
削除うまい表現ですねw