牧師の仕事って「トイレ掃除」なんですか?

2018年5月23日水曜日

教会生活あれこれ

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牧師の仕事はトイレ掃除?

 ある牧師がこんなことを言っていました。
牧師の仕事は大変だよ。トイレ掃除みたいなものだからね

 ちょっと意味がわからなかったですね。牧師職とトイレ掃除とが、どう関係するのか?
 でも話を聞いたら一応理解できました。要は、牧師は信徒の「心の排泄物」を処理する、「汚物係」だということでした。

 牧師の仕事の一つは、たしかに信徒の相談に乗ることでしょう。その過程で、人間の「暗部」を見せつけられるのだと思います。憎悪とか、欲望とか、嫉妬とか、狡猾さとか・・・。そういった「心の排泄物」を日常的に処理するのを、「トイレ掃除」と表現したのかもしれません。そしてそれが「大変」なのだと。

牧師のバーンアウトの実態

 それと似たような話を、他の牧師からも聞きました。

 ある牧師は信徒を心配するあまり、不眠症になってしまったそうです。そして睡眠薬を常用するに至りました。なぜそこまで負わなければならないのか、私個人は疑問なのですが。

 またある牧師は、中年を過ぎてから夫婦で意気揚々と開拓を始めたのですが、結果的にうまく行きませんでした。何年経っても人が集まらなかったのです。結局うつ状態になって、療養生活に入りました。その後、牧師は辞めたそうです。

 他にも牧師を辞めてニューハーフ・バーで働いている人とか、開拓に失敗して辞めていった人たちとかがいます。
 教会をどんどん大きくしていく牧師がいる一方で、日の目を見なかった牧師たちもいる、ということですね。このあたりが、教団に属さない(単立の)牧師たちの難しいところかもしれません。

 牧師のバーンアウトに関する統計データは、おそらくないでしょう。どこかの教団は集計しているかもしれませんが、キリスト教界全体としてはわからないと思います。 でも私の感覚としては、決して少なくない気がします。むしろバーンアウトを感じても黙って耐える牧師もいるでしょうから、その数は実は多いのかもしれません(皆さんのまわりでは、いかがでしょうか?)。

介入しすぎて勝手に疲れている

 私が思うに、プロテスタントの牧師は(傾向として)信徒に介入しすぎです。
 仕事のことやら家庭のことやら、プライベートに首を突っ込んで、ほとんど余計なお世話でしかないのに勝手に労して勝手に疲れている、みたいな印象があります(もちろん全員ではないと思いますよ)。

 牧師が信徒の悩みに押し潰されてしまうとしたら、(はっきり言うようですが)対人援助者として失格です。溺れる人を助けようとして、ライフセイバーまで溺れてしまうようなものだからです。誰かを助けようとするなら、まずは自分の身をしっかり守らなければなりません。

 この問題の根本にあるのは、牧師が「対人援助の仕事をする立場なのに、対人援助の訓練を受けていない」ということだと私は考えています。

 神学校のカリキュラムはその学校によって違うでしょうが、いわゆるカウンセリングの分野が全然足りないと、私は見ています。ほとんどの学校はカウンセリグの「テクニック」を学ぶだけで、基礎知識が抜け落ちてしまっています。

 でも多くの牧師が、小手先のテクニックを学んだだけで、カウンセリングの何たるかを知ったつもりになっています。そしてインスタントな結果を求めています。本当は何年もかけるべきケースなのに(あるいは何年かけても結果を期待できないケースなのに)、短期間で「結果が出ない」「この信徒は難しい」などと、安易に判断してしまいますから。

 また、自分自身を守る術を学んでいません。
 カウンセリングで大切なのは、相手との距離を適度に保つことです。近すぎても遠すぎてもうまく行きません。そして相手の悩みや問題を「あくまで他人事」と割り切る必要があります。冷たく聞こえるかもしれませんが、そうしないと結局、相手や自分を傷つけることになるからです。

 そういうことを学んでいないのですから、うまく行かなくて当たり前です。なのに「うまく行かない」と思い悩み、葛藤して、勝手にバーンアウトしてしまう、という現状があるように思います。
 上記の「トイレ掃除」にたとえるなら、やり方がわからない汚物処理を勝手にやろうとして、勝手に失敗している、といったところでしょうか。

 信徒は信徒、牧師は牧師です。他人は他人、自分は自分です。他人の排泄物は、あくまで他人の排泄物です。それを自ら被る必要はないし、被ったところで相手を助けることはできません。

 と、いうようなことを理解していただければ、牧師業はもうちょっと楽になるんじゃないかな、と私は勝手に考えています。

5月20日のメルマガにて、更に詳しく書いています。

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