「証(あかし)」がただの自慢話になっていませんか?

2018年4月5日木曜日

教会生活あれこれ

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 クリスチャンは、特にプロテスタントの一部では「証(あかし)」をすることが推奨されています。

 ところで「証」もわかりづらい教会用語ですね。要は「神様はこんな素晴らしいお方です」みたいなことを「証言」することです。
 英語で言うと Testimony ですね。特に英語を持ち出す意味はありませんが(笑)。

 私が知っている教会群では、「証」が盛んです。
 日曜礼拝の中で「証」の時間があって、信徒が持ち回りでみんなの前に出て話す、という教会もあります。あるいは定期的に「証集」なる文集を作って配布する教会もあります。信徒間の会話が、そのまま「証」みたいになっているところもあります。
 いろいろですね。

 皆さんは「証」をされたことがあるでしょうか。

  私が思うに、「証」を聞くとその人の信仰がわかります。
 神様についてどう思っているのか、今どんな課題があるのか、総じてどんな信仰を持っているのか、どんな人なのか、みたいなことが見えてきます。感心することもあれば、そうでないこともあります。
 もちろん、話が上手な人とか苦手な人とかいますから、それだけでは判断できませんが。

 さて私が「よろしくないな」と思うタイプの「証」は、いわゆる自慢話です。
「子供がこんなふうに苦労したけれど、最終的に一流大学に合格できました。今はこんな素晴らしいキャンパスライフを送っています。ハレルヤ!」
「就職のことで悩んでいたけれど、都心の大手企業に採用されました。今はこんな忙しい生活を送っています。でも、教会にもちゃんと来られてます。神様に感謝!」
「定年退職が決まっていましたが、なんと再雇用してもらえることになりました。しかもこんな厚待遇です。神様に不可能はありませんね!」

 そういうのは、「神様は素晴らしい」のでなく、「自分(たち)は素晴らしい」というお話です。信仰話っぽく見せてますけど、要は自慢話ですね。自分や家族に起こった「良い話」や「自慢のエピソード」を、神様にかこつけて披露しているだけで、「繁栄の神学」の匂いがします。

 近所に某マルチ商法の店舗があるのですが、通りがかりにチラッと様子を見ますと、きらびやかに着飾った人たちが、満面の笑みでお客を迎えています。まるで、ここに通えばあなたもハッピーになれます、リッチになれます、幸せになれます、と言っているかのように(実際に言っているかもしれません)。
 上記のような自慢話系の「証」と、同じような雰囲気です。臭いものに蓋をして、その上に良いものだけを置いておく、みたいな。

 そういうのは「証」ではないと私は思います。
 じゃあ何が「証」なんだという話になりますが、少なくとも私個人は、もっと「本当のところ」が聞きたいですね。
 たとえばこんなことで悩んでいます、先が見えません、でも神様は〇〇だと信じています、というような。

 知り合いに癌を患っていらっしゃる方がいますが、「これも神様からのもの」と信じておられるそうです。苦しいけれど、神様が共におられる、と。
 それこそ信仰ではないでしょうか。そしてそういうことを人前で話すことができるのは、本当に尊敬すべきことなのではないでしょうか。

 かと言って、いつも立派な「証」をすべきだなんて思っていません。状況は人それぞれです。
 でも少なくとも「証」をする時は、「聞く人がどう思うか」を意識した方がいいと思います。自慢話を喜ぶ人はおそらくいません。
 何を話すべきで、何を話すべきでないか。そのあたりの判断に、クリスチャンとしての「自制」が試されるのではないかな、と私は思います。

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