2018年3月14日水曜日

キリスト教信仰そのものが「偶像」になっていませんか?

 キリスト教は「偶像崇拝」を禁止していますね。
 モーセの十戒の第二戒「偶像を作ってはならない。それは拝んではならない」の通りです。
 ちなみにカトリック版とルーテル版の十戒にはこの項目はありません。たぶん第一戒に含まれてるんだと思います(違ったらごめんなさい)。

 だから教会に行くと、と言うか教会生活を始めると、やたらとこの「偶像崇拝」が問題にされます。教会によってはかなり厳しく注意されます(そういうのが嫌な人は行く教会を選んだ方がいいと思います)。

  モーセの時代の偶像崇拝としてわかりやすいのは、「鋳物の子牛」を作って拝んだことです。イスラエル民族はせっかく神の助けによってエジプトの奴隷状態から解放されたのに、その神を忘れて「鋳物の子牛」に走ってしまったのですね。怒ったモーセは(選択のチャンスを与えてから)子牛に従う者たちを、皆殺しにしました。
「偶像崇拝」は死罪に当たる、というわけです。

 ちなみに上記の話は旧約聖書の出エジプト記32章に書かれています。創世記からの流れで読むと大河ドラマみたいでなかなか面白いです。良かったらどうぞ。

 現代の偶像崇拝は「鋳物の子牛」より種類が増え、より複雑になり、わかりづらくなっている感じです。と言うかそのへんの解釈は牧師によって、教会によって、教団教派によっていろいろ違うでしょうね。
 ただ偶像崇拝に厳しい教会ですと、もうとにかく神様が第一でなければならない、聖書が第一でなければならない、信仰が第一でなければならない、という感じでだいぶ窮屈です。

 たとえば学生が部活に打ち込んでいるとこう言われます。
 「部活と神様、どっちが大切なの? 部活が偶像になってない?
  私のような映画好きで映画ばっかり見ている人はこう言われます。
映画が偶像となってしまっています。あなたの偶像を捨てなさい
 また、アイドルが好きだなんて言ったら大変なことになります。なぜなら「アイドル=偶像」だからです(私個人はアイドルには全く興味がありません)。

「偶像」というのは沢山あるんですね。趣味も特技も仕事も遊びも育児も介護もその他のどんなことも、「神様よりそれが大切」になったら、それすなわち「偶像」だと。要は心の問題だ、というわけです。
 とにかくそんな感じで、徹底的に、生活の中から「偶像」が排除されていきます。そういう教会だと「偶像警察」がまわりに沢山いますから、常に監視されてしまいます。だから窮屈だと。

 でも私個人の意見として言わせてもらえば、「大切なもの」に一番とか二番とか、順番を付けるのがナンセンスです。
 だって(一般的に言えば)仕事も大切なはず、日々の生活も大切なはず、健康も大切なはず、家族も大切なはず、個人的な趣味も大切なはずです。それぞれ種類が違うんだから、どれが一番とか二番とか、ないじゃないですか。

 それに「それが神様より大切になっていないか?」なんて、バカらしい質問だと思います。「大切さ」の度合いが、加点方式だか減点方式だかで、心の中で数量化されているんですか? そして神様が何点、仕事が何点、家族が何点、とかって順位付けされているんですか? もし仮にそうだとして、誰がその順位をジャッジするんですか? 他人の心の中の順位が完璧にわかるんですか?

 そういうのがナンセンスだと、私は思うわけです。

 それに私が見るところによると、「偶像警察」の皆さんは、「偶像探し」が「偶像」になってしまっています。意味がわかりますか。それは偶像だ、これは偶像だ、信仰はこうでなければならない、神を第一にするとはこういうことだ、という自分の中の信念が、そのまま「偶像」になっている、ということです。つまり、「キリスト教という名の偶像」だと。

 これはものすごくわかりづらい「偶像崇拝」ですね。一見すると「熱心なキリスト教信仰」ですから。
 だから他人のなりを見て偶像だ偶像だ言う皆さんは、自分自身が最悪な「偶像崇拝」に陥っていないかどうか、今一度考えてみることをお勧めします。

20 件のコメント:

  1. 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。って聖句があるからね。
    そこから「優先順位をつけることが大事なんです」と教えられていたな。
    でも人が心の中でどう優先順位つけてるかなんて外からは見えないから、結局礼拝への出席率、奉仕への参加率、献金額⁉なんかを見られて判断されることなる。
    それらが低いと「神の国とその義を第一にしてない!」と怒られちゃうのです。
    あとはやっぱり神社やお寺に行ったり、お墓参りでお線香をあげたりすることを偶像崇拝と言われるね。
    ところで、昔友人に勧められて見た台湾の恋愛ドラマの冒頭に、「偶像劇場」とテロップが出てきて(アイドルね)。それを見てすぐに鋳物の子牛やアシェラ像が頭に浮かんだ私はクリスチャンらしいのかも(笑)。

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    1. おっしゃる通り、人の行動には、その人の優先順位なり思惑なりが現れるでしょうね。だから「その人の行動を見れば、何を大切にしているかわかる」というのはある程度正しいと思います。

      ただ人は生き物ですし、日々の生活がありますから、その時その時で優先すべきものが変化していきます。また気分や状況も影響するでしょう。
      その意味で「神を第一としているかどうか」は、見た目にはわからない部分が大きいと思いますね。
      人間そんな単純じゃないというか。

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  2. これ、本当にカルト系教会のあるあるですね。
    とにかく、なんでも偶像礼拝にして、生活をガチガチにしてしまう。
    今思い返すと気持ち悪いのですが、こんなことをある牧師が公然と言っていました。
    「結婚相手は、あなたのこと以上にイエス様を愛している人でなければならない。あなたも、結婚相手のこと以上に、イエス様を愛さないといけない。」
    まさに、意味不明。そんな人いるんですかね。いたとしたら、マジで気持ち悪いです。
    Fuck the fake fuckin Christianity

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    1. お久しぶりです!

      結婚相手のくだりはよく聞く話ですね。
      「相手よりイエス様を愛すること」「相手でなくイエス様を見続けること」とか。実践している人がいるかどうか知りませんが(笑)。

      もっとも夫婦間の問題解決法の1つとして、「相手との間にワンクッション置く」という手法そのものは、有効なこともあるかと思います。

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  3. 偶像警察、めちゃくちゃいましたね。神様以外は全部偶像礼拝とみなされていました。
    そんな教職者の生活を見ていると本当に娯楽や趣味がほとんどありませんでした。よくノンクリスチャンに対して「人生楽しいのかな?」と言っていたのを聞いたことがありましたが、私からすればあなたの人生楽しいんですか?と聞きたくなります。

    結局彼らはやせ我慢しているだけだと思いますし、私の人生の楽しみを奪う神ならいらないです。

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    1. 見た目には「神様だけ」「聖書だけ」「信仰だけ」としている人が、蓋を開ければ欲望の塊だった、みたいなことが少なからずありますね。

      新約に登場するパリサイ人なんかも「自分が負えない律法を他人に背負わせている」と評されていますが、現在も同じことが起きていると思います。すなわち「きよい」教職者たちが「偶像崇拝を排除せよ」と下々に命じていますが、そう言う自分が誰より偶像にすがっている、という。

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  4. キリスト教信仰そのものが偶像崇拝。
    いやー良い表現です。
    本当にその通りです。
    大まかに種別化しますと、福音主義派・聖書信仰・カリスマ派・ペンテコステ派・聖霊派等のカルト的な教会では必ずと言って良い程、当たり前になっていますよね。
    何せどんな事があろうと、自分達がだけが正しいのですから、何を言っても始まりません。
    中でも私が一番腹立たしいのは、通夜・葬儀の席で、亡くなられた方に手を合わせる、焼香をする、と言った礼儀をも、偶像礼拝だと禁止する事です。
    こちらが幾ら理路整然と説明しても、思考回路がそもそも違うので、幾ら話しても駄目ですね。
    ご自分達が信仰している内容だって立派な偶像崇拝なのに、それは「真理」だから構わないのでしょうね。

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    1. ありがとうございます。
      たしかに思考回路が違っているのか、何を言っても無駄、みたいなところがありますね。それだけ盲信が強いのかもしれません。どうしたらいいか私にもよくわからないのですが。

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    2. 20数年前に、ブルネイ王国で、とある研究会があり参加しました。大学で開会式、会議、閉会式がありました。開会式は、ブルネイ王国の文部大臣が歓迎のあいさつをしました。
      イスラム国ですから、式の最初にコーランが朗読があり、集会参加者は、アッラーアクバルと唱和するわけです。
      欧米からの参加者もいましたが、さすがにアッラーアクバルと唱和するわけにもいかず、当惑していました。私は、むにゃむにゃとそれらしきことを唱えていました。まあ、これなども社会的礼儀の範疇でしょう。
      日本の葬式、通夜などは社会的礼儀ですから、仏式、天理教、などなど普通に参加すればよいのですよ。
      社会的礼儀を欠いたのでは、キリスト教徒とは言えませんよ。

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    3. たしかに焼香拒否などは礼儀に反した行為だと思いますね。決まりを守るためなら常識に反しても構わない、という身勝手な行動だと思うのですが、彼らにはそれが美徳というか信仰心の現れのようです。

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  5. ハミリオン2018年3月14日 22:05

    昔、私が通ってた教会は偶像に厳しいです。海に行ってマンガなどの偶像を焼却するイベントもあります。ジャニーズ禁止、マンガ禁止、お守り禁止など。
    クリスチャンからすれば神様が1番だと思いますが、現実は仕事(学校)、友達、家族、健康、自分の生活など他にも大事なものがあるのに、神様を1番に固定するのは無理があると思います。

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    1. 知り合いも、砂浜に行って好きだった雑誌類を燃やしたことがあると言っていましたね。単なる我慢大会にしか見えないんですけどね(笑)。

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    2. ちょっと前にうちの教会では買ってもらったアイポットを泣く泣く壊してたよ、うちの青年会。その他 CDとか、ゲームとかを自発的ではなく、強制的に。なんだかとても幼稚的な儀式に見えて。。。

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    3. せっかく高いお金を出して買ってもらったのに・・・。親はどんな気持ちなんでしょうね。

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  6. イエスは、「私よりも親、妻、子、兄弟を愛する者は、私にふさわしくない。神の国のために全てを捨てきることができなければ私にふさわしくない」と言いました。

    しかし、他方「私の持ち物は神のコルバーン(捧げ物)にするものだ」と言って自分の親に対して何もしようとしない人々に対して「両親を敬え」という十戒に反している、と言って戒めました。(マルコ7・9ー)

    親を愛するとは、親の意のままになることではありません。子供を愛するとは、子供の意のままになることではありません。国を愛するとは、政権の意のままになることではありません。

    イエスは、当時のユダヤ人や国を痛烈に批判しましたが、イエス自身は愛国心に燃え、ユダヤ人の民族的選民主義を信じておりました。だからこそ、破滅に向かう国に悔い改めを促し、ユダヤ人に神に選ばれた選民にふさわしい責任を果たすように呼びかけました。

    「神を愛する」とは、天国のために国や家族はどうでもいいということではなく、国や家族が破滅に向かっている時、国から「売国奴」と呼ばれ、家族から「親不孝者」と呼ばれようとも、ひとり十字架を背負って、国や家族が生きるべく働きかけていくことなのです。


    「キリスト教という偶像」に関して言えば、キリスト教とは、イエスの復活を信じる信仰です。

    それは、イエスは今も生きており、この世界に働きかけているということを信じる信仰なのです。

    なので、人を真実なキリスト者に変えるのは、人間ではなく、今も生きて働くイエス自身なのです。私たちの人生がどれほど無力なものでも、イエスは私たちをご自身にふさわしい者に生まれ変わらせることができる、ということを信じる信仰です。

    もし、クリスチャンが「私はイエスの復活を信じる」と言いながら、「私たちががんばってみんなをクリスチャンに変えなきゃ! 私たちががんばってこの国をキリスト教の国に変えなきゃ!」と言っているとしたら、彼らはイエスを身動きのとれない偶像のように考えているのです。ちょうど、偶像崇拝の宗教が偶像に人々をかしづかせようとするように、イエスを無力な偶像にしてしまっているのです。

    牧師がクリスチャンをつくるのではなく、教会がクリスチャンをつくるのではない。人間の力で人の信仰心をコントロールしようとする試みは、人間の力ではなく、神の力を信頼するという「信仰義認」に反する試みでしょう。

    人が神に代わって人をコントロールしようとするならば(エデンの園での悪魔の誘惑は、あなたは神のようになれる、というものでした)、キリスト教は、偶像崇拝の宗教と呼ばれても仕方ないでしょう。

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    1. いつも真摯なコメントありがとうございます。
      おっしゃる通り、「自分が頑張らなければダメだ」という発想は、神様を無力な偶像に閉じ込めることにもなると思います。神様に「自由に働いて下さい」と言いながら、結局自分の都合で引っ張りまわしているのではないでしょうか。

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  7. 偶像とは何かという事に尽きますね。偶像崇拝を一応全面禁止している宗教はと言えばイスラム教でしょう。しかし、まったく禁止かと言えば、どうでしょうかねえ。
    モスクには、像は飾られていませんが、コーランの一節などは飾られていますしねえ。
    ホメイニ氏のでっかいか写真などをイランの町中にはっていたのは、まあ偶像崇拝でしょうね。
    イスラム教の過激派が、仏像をはじめとして美術作品まで破壊するのは偶像礼拝の禁止行為でしょう。
    仏教にしても、お釈迦様は自分の像を造るなと言って亡くなられましたが、仏足石からはじまって仏像をつくって礼拝するようになったわけで。
    カトリックや正教では、イエス像、各種聖画が飾られていますねえ。
    たいていのプロテスタント教会でも、十字架は掲げられていて、十字架に向かって礼拝する、つまりは十字架を偶像化して拝んでいるわけですね。
    キリスト教の元のユダヤ教にしても、神殿が破壊されるまでは、神の像は造らないだけで、聖櫃などなどを安置して、拝んでいたわけですから、日本の神社とかわらないわけですよ。ご神体は山そのものとか、鏡、刀、石、などなどが多いですから、偶像を拝んでいるのかどうだか?
    偶像をゆるさないを徹底するなら、イスラム教徒になるか、ユダヤ教徒になれば良いのですよ。

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    1. 人は信仰の対象として「目に見える何か」がほしいのかもしれません。その気持ちはわかるんですけどね。

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  8. 何々を第一とせよという言い方なら、何でもありですね。現に日常的に見られますね。
    政治運動に携わるなら、政治活動を第一にせよ。企業に就職したらならば、自分の企業のために働くことを第一にせよ。
    家族を第一にした生活をせよ、子どもを第一とした生活をせよ、健康を第一とせよ、イエスを愛することを第一とせよ、きりがありませんね。
    教会活動を第一とせよも同様ですね。

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    1. 私が問題にしている人々は、この「第一にせよ」という考え方そのものを第一にしていて、必ずしも神を第一にしていない、と私は思うんですね。

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