「リフォユース500」みたいなカンファレンスのあれこれ

2018年3月24日土曜日

雑記

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「リフォユース500」のすごい点

「リフォユース500」というユース・カンファレンス(若者向けの集会)が、3月21日に青山学院大学で開催されました。私は行ってないんですけど、と言うか当日にそういう集会があるのを知ったくらい無関係だったんですけれど(笑)、盛況だったようです。

 参加された皆さんは、満足されたでしょうか? されなかったでしょうか?
 SNSを見る限りだと、賛否両論いろいろあるようですが。

 私は動画で少し見ました。なんか懐かしい雰囲気でしたね。若者たちが飛び跳ねてて、ステージでそれっぽい人たちが演奏してて、有名司牧たちがマイクを握ってて、大スクリーンに色とりどりの照明で、SNSでいろいろ呟かれてて・・・、頑張ってるんだなあと思いました(嫌味とか皮肉とかじゃありませんよ)。

 ああいうのを運営するのは本当に大変だと思います。裏方の方々には、よく休んでほしいですね。内情はまったく知りませんが、あんまり無理が掛かっていなければいいなと思います。

 ところで日本基督教団がああいう集会をやった、というのが今回の「すごいポイント」だったのではないでしょうか。
 これが聖霊派の急進的な教会群だったら、特に目新しいニュースではありません。「あーまたやってるな」くらいの話です。そうでなく「あの日本基督教団がやった」からすごい、と。  少なくとも、私個人はそう捉えています。

もう振り向かない?

 今回の「リフォユース500」に限ったことでなく、また「若者向け」に限ったことでもありませんが、この手のカンファレンスには「それで? 結局どうだったの?」と私は尋ねてみたいです(悪い意味ではありませんよ)。当初の目標は達成されたのか、次にどう繋げるのか、今後どこを目指すつもりなのか、という本質的な部分を聞いてみたい、ということです。

 と言うのは、聖霊派のこういうカンファレンスがよく「やりっぱなし」「反省なし」だからです。やったことに満足してしまい、何が良くて何がダメだったのかと、振り返らないのですね。「もう振り向かない」なんてコンテンポラリーな賛美がありましたけれど、いやいやこういう時はちゃんと振り返りましょうよ(笑)。

 でも誰も振り返らないので、「最高だった」「恵まれました」という打ち上げ花火が、一発上がっただけで終わってしまうのです。

 だから次のイベントでも、同じようなことが繰り返されます。良い面も悪い面も含めて。もちろん悪い面なんて繰り返さない方がいいんですけれど、なにせ前回の反省がありませんから、そもそも何が悪かったのかわからない、という有様です。

 そこが、聖霊派のカンファレンスの悪いところだと私個人は見ています。

目的がシフトしてしまう

 もう一つ、こういうカンファレンスで気をつけたいのが「次」です。
 次のカンファレンスをどうするか、ということです。

 もちろん単発だっていいんですけれど、それはそれで「じゃあなんでやったんだ」という疑問がなくもありません。私は。
 それより、やったからには続けた方がいいし、より効果的で、より大勢が関われるような方法を模索した方がいいと思います(あくまで「やるならば」の話ですよ)。

 でもこの手の集会は、続くことでむしろ「劣化」するのが少なくありません。
 もっとも、見た目には「劣化」などしていません。より大きな会場になって、より大人数になって、よりすごいパフォーマンスになって、前回より「盛り上がる」ことが多いです。一見、「劣化」とは思えません。

 でも最初にあったもの、本質的なもの、本当に大切にしたかったもの、という意味ではどうでしょうか。

 よくある例として、回が重なるにつれて「出演者どうしのパフォーマンス合戦」になったり、それ目当てのギャラリーだけが増えたり、とにかく「人を集めたいだけのイベント」になってしまったりします。つまり「続けること」や「大きくやること」に、いつの間にか目的がシフトしているわけです。
 これはけっこうリアルな話ですね。

配慮? 無配慮?

 あとそもそもの話なのですが、「激しい賛美を歌って踊って盛り上がる」というのはわかりやすい「派手さ」と「元気さ」ですし、そういうのが求められているのも事実でしょうけれど、それに頼りすぎるのもどうかと思います。

 と言うのは、そういうのを求めない若者、そういうのが嫌いな若者、そういうのに参加できない(したくない)若者たちもいるからです。「歌って踊って盛り上がる」のが前提になっていますと、そういう子たちを無条件に排除することになってしまいます。
「いや、うちは歌って踊れる元気な子だけがターゲットだ」と割り切っているなら、それはそれでいいんですけれど。

 昔、こんな話がありました。
 ある教会の子たちは、飛び跳ねて賛美するのが大好きでした。でも1人だけ、嫌がる子がいました。
 賛美の最中、その子は当然ながら居づらそうにしています。まわりが皆、飛び跳ねているからですね。
 するとある時、リーダー格の子がこう言いました。
「これからは、私たちもジャンプしないようにしよう。ジャンプが嫌な子もいるんだから」
 それを聞いた大人たちは拍手喝采だったそうです。「なんて配慮がきく子だろう」と。感動して泣いてしまう大人もいたとか。

 でもそれを聞いて、違うんじゃないかと私は思いました。だって、その子はこう思わないでしょうか。
「自分のせいで皆がジャンプしなくなってしまった」
 責任を感じて、余計に居づらくなって、教会に来なくなるかもしれません。

 もちろん、全ての子が満足するコンテンツなどありません。誰かの満足は、誰かの不満足にもなります。だから参加する側の忍耐やコミットメントも、ある程度必要になるでしょう。それは仕方のないことです。
 でもそういういろいろな事情が想定され、ちゃんと配慮された運営であるならば、たぶん大きな不満を残すことはないのではないかな、と私は思います(実際にはそれが一番難しいんですけどね!)。

 以上、ちょっと昔を思い出しながら、ユース・カンファレンスについて書いてみました。

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