2017年7月28日金曜日

間違った人生、間違いじゃない人生

・彼女の人生は間違いじゃない

ミニシアターで公開中の邦画『彼女の人生は間違いじゃない』を観ました。
 震災から5年後の福島を舞台に、平日は市役所、週末はデリヘルで働く女性にスポットを当てた話題作です。久しぶりにミニシアターに行きましたが、けっこう混んでましたね。


 本作はドキュメンタリー調のフィクションですが、福島の「今」をリアルに切り取っているんじゃないかと思います。主人公の女性以外にもイロイロな立場・職業の人たちが登場して、群像劇を成しています。それぞれの置かれている状況が重くて、ちょっと言葉になりませんでした。「週末デリヘル嬢」というセンセーショナルな設定はさておき、この福島の「今」は、沢山の人に知られるべきだなあと思いました。

 主人公の女性、ミユキは仮設住宅で父と2人で暮らしています。津波で母と家を失いました。農業の父は放射能に農地を奪われ、補償金を毎日パチンコで食い潰しながら、無為に過ごしています。
 ミユキは市役所で働いており、経済的に困ってはいないようですが、週末のたびに上京して渋谷でデリヘル嬢をしています。危ない目にも遭いますが、辞める気配はありません。

 なぜ彼女は風俗で働くのか? というのが本作の大きな疑問なのですが、その答えはわかりません。読み取れるのは、震災時の体験がトラウマになっていることと、風俗の仕事を「どうしてもやらなければならない」と表明していることです。震災が(おそらく津波が)、彼女の何かをそのように変えてしまったようです。だから、彼女はイヤイヤながらデリヘルをしているのではありません。

 もしかしたら人との接触で「生きている実感」がほしいのかな、とも思いましたが、それも陳腐な言い訳な気がします。

 で、そういう彼女の生き方を「間違いじゃない」と作り手は言っているわけです。
 彼女だけでなく、震災で畑を失った人、原発で働くがゆえ嫌がらせを受けている人、家族がバラバラになった人、変な宗教にハマった人、補償金で毎日遊び歩いている人、自殺未遂を繰り返す人、そんな全ての人に、「間違いじゃない」と言っているのだと思います。

 なぜなら震災や津波、それらによる「喪失」が、彼らをそのように場所に追い込んでしまったからです。

 仮に「間違いだ」と言われたとしても、じゃあ一体どうすればいいの? 何が正しいの? 震災や津波で永遠に失われてしまったものは、どうすればいいの? という疑問だらけになります。
「間違いじゃない」と言われることが、わずかながら「救い」なのかもしれません。本当にわずかかもしれませんが。

 そしてこれは福島だけの話でなく、私たち一人一人が、今の自分の状況を「間違いじゃない」と言ってもらう必要があるんじゃないかな、と思います。
 人生は人ぞれぞれでしょうが、おそらく誰も「間違った人生を送ろう」とは思っていないでしょう。むしろ「間違いじゃない人生」を送りたい、と願っているはずです。でもイロイロあって「現状」になっていて、それは必ずしも自分が思い描いたものではないかもしれません。いろんな事情、避けられない事態、やむを得なかったことなどあったかもしれません。
 その結果としての「今」を「間違いだ」と、誰が言えるのでしょう。

 要は何が間違いで何が間違いでないかは、そう簡単には決められない、ということだと思います。数学の単純な計算問題ではないので。

WWJDを言うなら、まず配慮を

 こういう話を一部のクリスチャンにすると、
「みんな神様を信じるべきだ」
「罪を悔い改めないからそうなんだ」
「神様を受け入れれば祝福され、苦しみから解放されるのに」
 みたいに返されることがあります。

 彼らにかかると「神を信じるか否か」の二択になってしまいます。神を信じないのは一律「間違い」とされます。個人的な事情はほとんど顧みられません。うまく説明できないけれど風俗で働くしかないという切迫感、水を見ると反射的に泣き出してしまう恐怖感、死ぬしかない生きていても仕方がないという絶望感、といった心に対する配慮は、ないようです。
 被災者の一部がハマった新興宗教の方が、そのへんは上手な気がします。

 福音派・聖霊派ではよくWWJD(What would Jesus do ?)(キリストならどうするか考えて行動しよう、の意)なんて言いますが、たぶんキリストだったら、日本の被災者にいきなり「神様を信じるべきだ」とか「悔い改めなさい」とか言わないでしょう。キリストが宣教のはじめに「悔い改めなさい」と言ったのは、当時のイスラエル人たちが旧約聖書をちゃんと読んでいたからです。神様なんて知らない、聖書なんて知らない日本人に彼らと同じ知識はありません。

 聖書を読む限り、キリストは個人の事情に配慮していたと思います。井戸のそばでサマリヤの女に出会った時の対応なんかそうでしょう。姦淫の女に対する対応もそうです。彼女らの行いを責めたり、断罪したりはしていません。
 ひるがえって今WWJDを言う人たちを見てみると、どちらかと言うとパリサイ派や律法学者たちに近い気がします。簡単に「それは間違いだ」と言い放っています。もちろん全員ではありませんが。

 ある老牧師がいて、近所の人たちに、日頃から「キリスト教の神様」について話していました。
 あるご婦人はよく話を聞いてくれましたが、最後はいつも「うちは檀家だから」と言うのでした。檀家だからキリスト教を信じることはない、ということです。老牧師はそれを否定しませんでした。そのご婦人自身がどうにも身動きできない状態なのを、わかっていたからです。「そういうシガラミもありますからね」と笑顔で頷くばかりでした。
 でもこういう牧師の方が信頼できるし、もっと話を聞こうと思える気がします。イザとなったら頼ろうと思えるでしょう。「神を信じるか否か」と二択を迫れらるのとは、全然違います。

 先の映画のミユキにしても、デリヘル勤めを「罪だ」と言ってしまったら、もうそれ以上かかわることはできません。彼女は遠く離れてしまうでしょう。でも私たちは、キリストがそういう女性たちと親しくされたことを忘れてはなりません。

・苦しみは終わるのか

 映画は最後に、若干の希望を提示します。しかし状況が変わったわけではありません。「今福島はこうなんです」という現状報告が、最後まで淡々と並べられるだけです。何も終わらず、すべてが「途中」です。
 でも人生とはそういうものなんじゃないかなあと私は思います。もちろん時には劇的な解決とか、ドラマチックな展開とかもあるでしょう。でも大半は明確な答えのない、先がよくわからない、地道な毎日の積み重ねではないでしょうか。
 辛いことや苦しいことは、もちろん解決してほしいですが、そう簡単には行きません。

 ここでも一部のクリスチャンの方々は、「神様を知れば苦しみから解放されます」みたいなことを言います。
 でも私が知る限り、「神様を信じたから」というだけで問題がスッキリ解決した、という人はいません。問題がない(ように見える)人というのは、もともと健康に恵まれているとか、家庭環境が良かったとか、良い就職ができたとか、何かを努力して克服した経験があるとか、問題があってもそこまで気にしない性格だとか、成功体験が沢山あって自信に満ちているとか、そういうのばかりです。あるいはもともと「解決可能な問題だった」というだけです。どう考えても解決不可能な問題が、「神様を信じた」というだけで見事解決した、という例は見たことがありません。

 ごくわずか、本当にごくわずかですが、「治癒の見込みのない病気が不思議と治った」というケースなら知っています(詳細は別に機会があれば書きます)。ただ、それは必ずしも「本人や周囲の人間が信仰をもって祈ったから」と断言できるものでなく、「確実に神の介入だ」と断言できるものでもありません。
「癒し」に関してあまり期待してもらっても困るので現実を書きますが、「(本人あるいは周囲が)癒しを求めながら亡くなったクリスチャン」が圧倒的多数です。

 知り合いのクリスチャンの方々を見てもそうです。みな何かしら困難や課題を抱えたまま、信仰生活を送っておられます。良い時もあれば悪い時もあります。新約聖書をみても、初代教会の皆さんが、天国みたいなところで何の悩みもなくアンニョイに過ごしていたようには読めません。むしろ逆です。

「神様を知れば苦しみから解放されます」と主張する人たちは、たぶん「そうであってほしい」という願望を含んでいるんだと思います。実際彼らだって、何も問題がないなんてことはありません。
 
・まとめ

 というわけで映画『彼女の人生は間違いじゃない』は、福島の過酷な現実のみならず、私たちの人生にも普遍的に適用されるメッセージを伝えていると思います。すなわち人生には時として理不尽なことが起こるし、そうでなくても苦しいことがあるけれど、私たちはそれらとどうにかして付き合っていかなければならないし、その付き合い方の「間違い・間違いじゃない」は簡単には決められない、ということです。

 願わくば、互いに「あなたの人生は間違いじゃないよ」と言い合いたいものです。みながそのように配慮し合えるならば、この世界はもう少し生きやすくなるんじゃないかなあと、私は思います。

1 件のコメント:

  1. ずいぶん前ですが、電車の中で本を読んでいました。向かいに座っていた年配の女性が「あ・・・」といって私に近づいて、「失敗という名の人生はない、っていいですね」。
    その人は私が手にしていた本のタイトルをみたのでした。
    今にして思えば、その人もたぶん悩みを抱えていて、「自分の人生は本当にこれでよかったのだろうか?」と考え続けていたのだと思います。私がそんなタイトルの本を(ちなみに私は人生について悩んでいたわけではありません)図書館で借りたのも、そしてその本を手にその人の向かい側に座ったのも、神のご配慮だったのかもしれません。

    しかしWWJD(What would Jesus do ?ですか。
    これは新興宗教系プロテスタントの人たちには最も難しいといえるのではないでしょうか。震災ボランティアとして入ったときも、彼らは相手方がどのようにしてほしいのかを考えることがあまりなく、自分のしたいことだけをしているという感じだったわけです。(素人コンサートや「偶像崇拝を悔い改めよ~」な説法とか。もちろんこれは日本だけではなく、韓国はもちろんドイツあたりからやってきたグループもそうだったのですが)
    あの人たちの論理は「自らの欲するところは当然相手も欲するなり」です。このような論理になる原因は、新興宗教系プロテスタントの教義にアガペーの概念が存在しないというのが一番大きいからかもしれません。聖職者自身がアガペーの概念を理解できていないのですから、信者たちも絶対に理解することはないでしょう。

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