2017年7月20日木曜日

無駄かどうかは自分次第では、という話

・努力する人、笑う人

ちょっとトイアンナさんのコラムを引用させていただきます。

いいこと言うなあと思いました。私は。
婚活について書く気はありませんけれど、「努力する人」と「努力を笑う人」の話は、その通りだと思いました。

子供のころ、ファミコンが登場するちょっと前あたりですが、よく川遊びをしました。近所にあちこち川とか沼とかあったので。そこでメダカやドジョウやナマズやザリガニをよく捕ったものです。
ある日のこと、何人かの友人と一緒にやっぱり川で遊んでいました。その日はドジョウがターゲットでした。3人それぞれポイントを選んでドジョウを追います。私は一匹見つけたのですが、なかなか捕まえられず、水も濁ってきたので、諦めて別のポイントに移動しました。しばらくすると、Aくんが私のいた場所に移動しました。どうせ捕まえられないだろう、なんてイジワルなことを私は思っていたんですけれど。
 でもだいぶ長いこと、Aくんは頑張っていました。そしてついに捕まえました。私は簡単に諦めてしまったので、ずっと探し続けたAくんのその忍耐力には正直感心しました。同時に悔しかったんですけれども。

まさにAくんが「努力する人」で、私が「笑う人」でした。些細なことですが、努力は無駄じゃないんだなあと、子供心に思いました。今でもよく覚えている出来事です。

・クリスチャンも同じ

キリスト教界においても、この「努力する人」と「笑う人」がいるようです。

キリスト教は世界三大宗教の一つですが、ここ日本においては、ほとんど何の影響力もないくらい小さな宗教です(ですよね?)。チャペルでキリスト教式の結婚式を挙げるのは以前から人気があるようですが、かといってキリスト教に入信するわけではありません。クリスマスを祝う人は多いですが、教会に行くわけではありません。また大きい教会は大きいですが、どれだけ大きかろうがインパクトがあろうが、一般にはほとんど認知されていません(カトリックのいわゆる名所教会は別)。言わずもがな、クリスチャンは超マイノリティです。

だから「伝道」するのは大変なことです。
教会で「伝道集会」を開いても知り合いしか来ません。路傍に出て行くと胡散臭く思われます。たぶんクリスチャンの方で「正直言うと、伝道は苦手」という人は少なくないと思います(違います?)。

なのでキリスト教関連の団体も苦労しています。あらゆる団体の事情を知っているわけではもちろんありませんが、あれこれ考えたり工夫したり、日々努力されていると思います。私は教会のカルトっぽい状況やおかしいと思うことは批判しますが(ずっとブログで書き続けています)、そういう真面目に頑張っている人たちをバカにしようとは思いません。

でも中には、あからさまに「笑う人」がいるようです。
「そんなことしても無駄だ」
「そんなやり方じゃ意味がない」
「教会を世俗化してどうするんだ」
「信仰は個人で地道に営めばいいんだ」
などなど・・・。

でも聖書を読む限り、「伝道」はクリスチャンにとって大切な要素の一つと位置づけられているでしょう。いろいろな教派があるとはいえ、そのへんは共通なのではないでしょうか。
であるなら、「伝道」のためにあれこれ工夫するのは悪いことでなく、かえって推奨されるべきでしょう。なぜ笑ったりバカにしたりするのでしょうか。
「信仰は個人でやればいい」と言う人だって、誰かから「キリスト教について教えて下さい」と頼まれれば、教えてあげるでしょう。まさか「信仰は個人で地道にやるものだから」と言って拒否するのでしょうか。そんなはずはないと思いますが。

・無駄かどうかはわからない

それに、何が無駄で何が無駄でないのか、私たちにはわからないものです。 何が成功するか、何がうまく行くかわかりません。実は何が正しくて何が正しくないかも、ある時点では案外わからないものです。未来は想像はできても、見えはしませんから。
であるなら、無駄だとか無意味だとか、私たちは簡単に言うべきではありません。

それにそもそもの話ですが、他人の努力を笑う人には、「じゃああなたがやってみたら?」と返す以外ありません。自分がやってもいないのに、やっている人のことを笑う資格があるのでしょうか。ないと私は思いますが。

私が常々思うのは、「言うより行動すること」です。 いろいろ言っても考えても、行動に移さなければ意味がありませんから。
だから「やってみた人」「やって失敗した人」は、やらなかった人よりも尊敬に値すると私は思います。やらなかった人は、やって失敗した人をバカにすることはできません。彼はあなたの代わりに失敗してくれたのですから。

・諦めた時点で「無駄」になる

私が常々思うことのもう1つは、「とにかく継続すること」です。
どんな素晴らしい計画も、インパクトのあるプロジェクトも、続かなければ意味がありません。
逆にすごく地道な、小さな、意味があるように思えないことでも、あくまで続けているならば、それは「途中」であって「失敗」ではありません。詭弁に聞こえるかもしれませんが、体験的にはこれは事実です。

だから何か決心して行動した人は、諦めないで続けて頂きたいと、私は願います。
もちろん、「引き際」を見極めるのも大切なことではありますが。

それでも行動したことは決して無駄にならない、と私は考えています。もし無駄になるとしたら、それはあなたが諦めた時です。私があのドジョウを諦めた時のように。

3 件のコメント:

  1. >「伝道」のためにあれこれ工夫するのは悪いことでなく、かえって推奨されるべきでしょう。

    これもよしあしですけどね。聖書配布協力会を見ているとそう思います。
    ああいう脅迫するようなやり方が、日本には一番合っていると確信してやっていますよ。だからおどろおどろしいキリスト看板をいろいろ工夫して作っています。もちろん工夫すればするほど、不気味さは増すばかりでして、みなさんドン引きしまくっているわけで・・・(苦笑)。

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  2. インマヌエル2017年7月23日 10:36

    >聖書配布協力会を見ているとそう思います
    配布協会の方は、私が礼拝してる教会に来られたことがあります。主観的には、善意だと思いますが今の時代の日本には合ってないですね。
    貧しかった時代に、本が貴重品だった時代には有難がられたでしょうね。
    紙の浪費です。
    昭和の時代に、大学の入学式で配ってたのを私も貰いました。英語訳も読めるものです。
    今は、学校の門前で配るのが禁止されてるみたいですね。

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    1. >配布協会の方は、私が礼拝してる教会に来られたことがあります
      協力会が街宣車に乗って全国行脚し、時折キリスト教会にやってきて、法論を挑むことがあると聞いたことがあります。
      あそこは出家コミューン型で、オウムやヤマギシのような感じですか。孤児を大量に育てていて、教育と職業は自給自足でやっているようです。
      新興宗教系プロテスタントだけあって、一般的な学校教育を悪しきものとし、チャーチスクールやホームスクールを推進する活動をやっています。これはかなり悪影響の大きいものでして、子供を学校にやっていない新興宗教系プロテスタントの家が全国にあります(子供の教育を自給自足した結果、就職先もなく、親も娑婆でまともに生活できる自信を失ったらしく、一家で聖書配布協力会に出家したケースもあります)。

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