2017年6月9日金曜日

宗教で自己実現して何が悪い・・・?

 最近、個人的にのっぴきならない事がありました。詳細は書きませんが。それに対処すべく、あちこち連絡したり、あれこれ手配したり動き回ったりの数日間でした。ちょっとブログどころではなかったです。
 まだスッキリ解決したわけではありませんが、とりあえず一息ついたので、これを書いています。
 以上、更新が遅れた言い訳です。

・隠れシャーマンあらわる

 ところで面白い記事を見つけました。以下にリンクを貼ります。

“隠れシャーマン”が増加中。若い女性が続々崇拝、ヨガの次にきている「シャーマン教」って?

 いわゆる「無神論」な若い女性たちの一部は、既存の宗教には否定的だけれど、それでいて「超自然的な存在」そのものは信じているようです。そしてヨガや水晶玉やタロットカードや占星術や、呪術や魔術や降霊術やシャーマニズム等といった、オカルティズムに傾倒している人が、少なくないようです。
 中でも今は「シャーマン」がきているようです。それも専業でなく、週末とか仕事帰りとかの隙間時間を生かした「隠れシャーマン」が増えているとか。

 それが実態としてどれくらいの人数なのか定かでありませんが、これは「ある」だろうなあと思います。いわゆる「スピリチュアル系」と似たようなものかもしれませんが。
 人間にはもともと超自然的なものを求める心が与えられている、というようなことが聖書に書かれています(箇所はご自分で探して下さい)。だからキリスト教とかイスラム教とか仏教とか信じてなくても、「人間を超越したもの」という意味の「神」という概念なら、わりと多くの人が持っているのかもしれません。
 頑固なまでに無神論を主張する人でも、死の間際になると「神様」と口走ってしまうこともあると聞きます。

 余談ですが「生命の神秘」について考えてみると、より「神様」という考え方がシックリきます。たとえば人間の体なんかは、とても複雑で、かつバランスのとれた構造に仕上がっています。こういうものが「自然発生的に」出来上がるとはなかなか考えられません。何かの意図がそこに働いているのでは? そこに超優秀な設計者がいるのでは? と考える方が、むしろ「自然」な気がします。
 そのような意味で、私たちは「人間を超越したもの」の存在を、どこかで意識しているのかもしれません。何かの宗教を信奉しているかどうかに関わらず。

 で、隠れシャーマンです。具体的にどんな活動をするのか知りません。たぶんクリスチャンの人が見たら眉をひそめるような内容もあるかもしれません。でもその方法論、たとえば祈祷とか瞑想とか肉体的修練とか、そういうのはそれ自体が目的となっている訳ではないようです。それよりストレス軽減とか、メンタルやフィジカルの管理とか、コミュニケーションスキルの向上とかの「自己啓発」が目的になっているようです。
 だから究極的なところで言えば、その目的を達成できるなら、シャーマンでもヨガでも、実は何でもいいんだと思います。「ご利益」にあずかれさえすれば。

 要は宗教でも何でもいいから利用できるものは利用して、自己実現したい、ということだと思います(そしてそれは悪いことではありません)。

・キリスト教も自己実現に使われている

 と、いうようなことを書くと、たぶん真面目なクリスチャンの方は、「宗教を自己実現に使うなんてけしからん」というような感想を持たれることでしょう。
 
 でも私に言わせれば、キリスト教だって、多くのクリスチャンが自己実現のために利用するツールとなっています。純粋に神様を愛したいとか、神様にお仕えしたいとか、綺麗なことはイロイロ言えますが、その実態は必ずしもそうではありません。そういうケースを沢山見てきましたから。

 だから「自己実現のために隠れシャーマンやってます」と臆面なく言う方が、よっぽど正直ではないかと私は思います。「キリスト教は自己実現のための宗教ではありません」と言いながらやっていることは自己実現、という方が、はるかに不誠実ではないでしょうか。

「神に語られた」と言って信徒たちを利用し、いくつもの事業を展開して有名になりたいだけの牧師とか、高額な借金を教会に負わせて豪華な牧師館を建てたい牧師とかの方が、えげつなく神を利用しています。最高スペックのノートパソコンを教会のお金で購入しても結局ワードとパワポしか使えてない牧師とか、わざわざツヤツヤキラキラのスーツで他教会の集会に行く牧師とか、どれだけ見栄を張りたいんでしょう。そういう人たちが講壇に立って誠実そうに話しても、全然誠実には見えませんけれど。私には。

 隠れシャーマンを批判するのは簡単ですが、そういうキリスト教の実態について考える方が先ではないかと私は思います。隠れシャーマンと呼ばれる彼女らがシャーマンを選んだのは、既存の宗教(キリスト教など)に魅力を感じなかったからでしょう。こう言うと「宗教は魅力の有無でするもんじゃない」という意見がきそうですが、じゃあ逆に魅力が全然なかったら、あなたはなんで神様を信じたのですか? という話です。誰だって何らかの魅力を感じたから、クリスチャンになったはずでしょう。

・宗教で自己実現して何が悪い

 そもそもの話ですが、キリスト教(というか宗教)で自己実現を考えて、何がいけないのでしょう。
 キリスト教を信じた理由やキッカケは人それぞれでしょうが、(言い方は悪いかもしれませんが)何らかの魅力やメリットを感じたはずです。「信じれば救われる」とか「信じれば天国に行ける」とかいう単純な理由だったかもしれませんし、キリストの教え(山上の垂訓など)に感動したのかもしれません。そのように生きたいと願ったのかもしれません。いずれにせよ、それが自分にとって「益」であったはずです。

 つまり「よりよい自分」となるために、キリスト教を受け入れたはずです。そしてその意味では、クリスチャンなら誰もが、自己実現のためにキリスト教を信じていると言えます。

 たとえばですが、教会でゴスペルを頑張っている人たちは、「ゴスペルを通して神様に仕えたい」と願っていると思います。と同時に「そのような自分でありたい」とも願っているはずです。あるいは「教会の活動を通して誰かの役に立ちたい」と願っている人は、「そのような自分でありたい」とも願っているはずです。つまり「奉仕」には、それがどのような形であれ、どうしたって自己実現が含まれるのです(繰り返しますが、それは悪いことではありません)。

 すると、クリスチャンも、隠れシャーマンである女性たちとあまり違わないことがわかります。違うのは、彼女らが正直に「シャーマニズムを通して自己実現したい」と言っているのに対して、クリスチャン(の一部)は「宗教で自己実現なんてけしからん」というウソをついている点です。自己実現したいのを隠して綺麗事ばかり並べるクリスチャンにくらべれば、隠れシャーマンの方がよほどポジティブで、好感が持てるのではないでしょうか。

 まとめ。
  宗教には自己実現が含まれています。だから宗教で自己実現を図るのは悪いことではありません。悪いのは自己実現という願望を隠して綺麗な宗教家を気取ることです。

2 件のコメント:

  1. 隠れシャーマンなら別に今に始まったことではありません。沖縄には「男の女郎買い 女のユタ買い」という言葉があり、女は昔から霊関係が好きなものです。(付記 沖縄にはユタに十字架つけただけの新興宗教系プロテスタントが多い)
    ついでにいえば、新興宗教も昔から圧倒的に女が好きなものでした。昔なら真如苑あたりに行っていた女性たちが、今はヨガ系やスピリチュアル系にいっているだけのことです。
    プロテスタントはなんでもありの世界ですので、完全に自己申告でやっていいわけです。それで沖縄のようにシャーマン文化の濃厚な土地は、教祖が絶対神になっている新興宗教系プロテスタントが蔓延しやすい土壌があります。
    本土は沖縄ほどではありませんが、それでもシャーマン的な教祖(いいかえると電波系基地外)がいることはいます。
    こういう教会は、教祖も教祖ですが、こんな教会に通う信者も信者です。どっちもどっちでしょう。

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  2. 教会で牧師や役員から不愉快な思いをしてからは、神様を賛美する信仰より自己を守るための信仰へと変わったかもしれません。「自己実現のために隠れシャーマン」なのかも

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