2017年6月19日月曜日

「福音の三原則」では語れないもの

・ふくいんのさんげんそく?

「福音の三原則」とも「救いの三原則」ともいう言葉があります。一部のキリスト教原理主義的な人がよく使っています。SNSなんかでも、この言葉を連呼しているアカウントを見たことがあります。

「福音の三原則を信じ受け入れないと救われない」
「福音の三原則をちゃんと押さえているかどうかでその人の信仰がわかる」

 みたいなことが言われています。
 個人が個人の立場で発言するのは基本的に自由なので、べつにそれ自体にどうこい言うつもりはありません。
 ただこの三原則、内容は、

「①キリストは私たちの身代わりに十字架で死なれた」
「②死んで埋葬された」
「③3日後に復活された」

 らしいです。でも、なんで福音をわざわざこの三原則に絞る必要があるんだろう? というのが私には疑問でなりません。なぜなら福音と言ったら、天地を創造した神様とか、人間の原罪とか、なんでキリストが私たちの身代わりになったのかとか、キリストの復活は何を意味するのかとか、復活してその後どうなったとか、そのへんまでちゃんと理解しないと、いわゆる「福音」の知識としては不十分だと思うからです。どうしてその中の一部分である死、埋葬、復活、だけを取り上げて「三原則」と名付けなければならないのでしょう? アシモフの「ロボット三原則」の真似がしたかったのでしょうか?(そんなわけない)

 おそらくこの三原則の根拠は、コリント第一の手紙15章3~4節にあるのでしょう。上記の①~③が「最も大切なこと」として書かれているからです。 そこを否定する気はありません。

 ただこの文脈は、読んでいただければわかりますが、4節はまだ話の途中です。5節に繋がっていて、「(キリストが復活後に)弟子たちに現れたこと」というのが上記の①~③に続く④として位置づけられています。だから文脈として区切るならば、三原則でなく四原則とすべきでしょう。あくまで文脈として区切るならば、ですが。
 いずれにせよ、「福音」がこの三原則あるいは四原則で完結するわけではありません。
 また、パウロ自身もそういう書き方をしていません。
 もちろん、「それが福音の重要な部分である」ことは間違いないでしょう。私もそれには同意します。けれど、だからと言って「それが福音の全てだ」とはなりません。だから「その三つさえ受け入れれば救われる」というのは「?」です。前述の通り、福音はもうちょっと広い範囲で語らないと正しい理解にならないからです。

 だから、繰り返しますが、なんでその一部分だけ取り上げて「三原則」などと大袈裟に表現しなければならないのか、ちょっと理解できません。わかる人がいたらぜひ教えていただきたいです。


・怒れる神、許しの神

 そもそもですが、
「この三つを信じ受け入れなければ救われない」
 という言い方自体が疑問です。

 なんというか、厳しく窮屈な感じがします。余裕がありません。キリストのメッセージは明確な「愛と許し」なのに、これでは愛されていない、許されていない気がします。
 その三つが間違っている、と言いたいのではありません。それらは福音を構成するうえで必要でしょう。でもそういう風にガチガチに「救いの条件」として表現することで、「愛と許し」のメッセージとの整合性が、取れなくなる気がします。

「あなたがたは神に愛されている。赦されている。でも福音の三原則を信じなければ、救われない」
 もしキリストが真顔でそう言ったとしたら、この人もしかして両極性障害なんじゃね? と私は勘繰るでしょう。言ってることが正反対だからです。
 たとえば、あなたに子供がいるとして、あなたはこんなこと言うでしょうか。
「わたしはあなたを愛しているよ。でもあなたがこの三つのルールを守らないなら、もう愛しませんよ」

 もしそう言うとしたら、その「愛」というのは、条件付きです。神が人を、あるいは親が子を、一方的に愛する「愛」ではありません。「これらのルールを確実に守るなら愛してあげよう」みたいな話になってしまいます。
 でも新約聖書を読む限り、イエス・キリストが相手に条件付きで接した、という記述はありません。しいて言うなら、取税人や娼婦といった社会的に不利な立場の人々に積極的に関わった、とは言えましょう。でもそこに「福音の三原則を信じているかどうか」という視点はなかったはずです。むしろそういうことを十分に理解していない人々を、積極的に愛したのではないでしょうか。

「○○しないと救われない」
「○○しないとダメだ」
 このような言い方は、旧約に登場する「情け容赦ない神」のイメージを想起させます。敵を皆殺しにし、罪を犯したイスラエル人を容赦なく抹殺した「怒れる神」のイメージです。
 一方で「あなたは無条件に愛されている」「無条件に許されている」というセリフは、新約のイエス・キリストを想起させます。罪を犯した人たちを許し、彼らの身代わりになることを決めたキリストの、「許しの神」のイメージです。

 さて、いわゆる「キリスト教」はどちらでしょう。「怒れる神」を崇める宗教なのか、「赦しの神」を崇める宗教なのか。
 前者だとしたら、「福音の三原則ガ―」という厳しい条件がお似合いでしょう。愛も許しも不要で、ただ「ルールを守っているかどうか」だけが判断基準となるからです。でも後者にはその考え方はそぐいません。

・キリストの愛はルールを越える

 ヨハネの福音書8章1~8節をぜひ読んでみて下さい。
「姦淫の女」の話として有名なので、ご存知の方も多いでしょう。
 ここでキリストは重要なことを言っています。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」

 キリストは決してルール(律法)を軽視していたわけではありません。姦淫の女に対して明確に「石を投げなさい」と言っていますから。律法によると、姦淫の女は石打の刑に処せられる、とあります。
 でも同時に言っているのは、「罪がないなら石を投げなさい」ということです。つまり「あなたがたは皆同じ罪人なのですよ」「彼女だけが特別罪が重いのではありませんよ」と言っているのです。だから彼女に石を投げることは、結果的に自分自身に向かって石を投げることだ、ということです。彼女を罰するならば、めぐりめぐって自分自身をも罰することになる、ということです。

 そしてこの「罰」のスパイラルを抜け出す方法として、あるいはルールを越える方法として、キリストは「許し」を提示しているのです。 クリスチャンの方には今さら言うまでもないことですけれど。

 繰り返しますが、「福音の三原則」として挙げられている三点が、福音を理解するうえで大切なのは間違いありません。何度も言いますが、そこを否定しているのではありません。
 そうでなく、キリストの視点(あるいは愛)は、きっとそういう原則理解や原則厳守を越えているんだ、と私は思うわけです。

 たとえばですが、精神発達障害を持った人や、脳に後天的なダメージを負った人は、(その程度にもよりますが)十分な思考力や判断力を持てないことが多いです。「福音の三原則」なんか、理解できないかもしれません。じゃあそういう人々は、決して救われないのでしょうか? キリストは彼らを愛していないのでしょうか?
 でも理解力のない人をキリストが愛さないとしたら、私たちだっていずれは、その愛から漏れることになるのですが。私たちの多くは、老齢になれば理解力を失っていくので。

 キリストが十字架につけられた時、両隣にも罪人がいました(ルカの福音書23章)。一人はキリストを罵り、もう一人はキリストを神と信じました。キリストは後者の罪人に向かって、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言いました。つまり彼は、「救われた」と言えるでしょう。
 でも厳密なことを言えば、彼は「福音の三原則」を信じたのではありません。ただ十字架にかかっているキリストを見て、「この人は神の子だ」と悟ったに過ぎません。そしてキリストはそれを良しとされたのです。原則がどうとかいう話は関係ありません。

 だから福音に三原則とか四原則とか付けても、それでキリストの意図を十分に理解したことにはなりません。むしろ誤解してしまうかもしれません。
「福音の三原則」を声高に主張するのであれば、そのへんのこともじっくり考えてみてはどうかと私は思います。


4 件のコメント:

  1. 福音の3原則、はじめて聞きました。あえて、3原則と言うのを僕なりに表現するならばこうなりますね。1,神を愛しなさい、なぜならば私をつくったのは、神だから。2,私自身を愛しなさい、なぜならば私をつくったのは神だから。3,私自身を愛するがごとく、人々を愛しなさい、なぜならば神の子であるイエスの教えだから。つまり私は、世のため人のために生きます、ということだ。

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  2. ものみの塔聖書冊子協会の教えはこうです。
    「無条件で救われるなんてとんでもない!」
    「信じるだけで救われるなんてありえない!」

    新興宗教系プロテスタントもこのあたりはそっくりじゃないですかね。
    「これが理解できない人は救われない!」
    「働かない者は救われない!」
    「献金しないと救われない!」

    異端と新興宗教の違いこそあれ、「何かにつけて条件つき」という教えは、似ている部分がなきにしもあらずです。

    そのくせ新興宗教系プロテスタントはいつもこういいます。
    「われわれは『正統(福音的・聖書主義)』だから、ものみの塔聖書冊子協会とは違う。」

    しかしどこが違うのでしょう?せいぜい三位一体や輸血を認めないことだけじゃないですか?両者の違いは。
    そういえば終末論とか、反知性主義とか、信者が人生を教団に布施してしまっているところもそっくりですよね?

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  3. 伝統的な教会にも、問題点があると思います。それは「聖書66巻は神の言葉である」という教理です。実際には、大昔の決まりだから現代に適用できないこともある。というのは信徒も聖職者も「暗黙の了解」になっているみたいですが、建前上は「聖書の神性」「絶対性」を言い続けてます。
    ここに、新興プロテスタント教団に利用される「隙」を与えてるのでは無いでしょうか?
    カトリックは、聖書解釈は、聖職者の役割としているみたいですが、万人祭祀と「聖書66巻は神の言葉」が結びつくと何でもありになってしましかねません。

    伝統的なプロテスタント教団には、信仰・非信仰の両面で仲良くさせて頂いてるのでなかなか批判は躊躇するのですが。
    特に、旧約聖書の律法規定とかは礼拝でも「聖書」扱いされてませんね。
    レビ記は、ユダヤ教祭祀のためのマニュアル本だと聞きました。
    キリスト教の聖典とし機能してませんよね。?
    間違い・異論あったらぜひ知りたいので反論してください。全然、好意的に受け取めますので。

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    1. ありがとうございます。
      私が当記事で取り上げたかったのは、「福音の三原則を信じなきゃ救われない」=「自分はそういう原理原則に詳しい、特別な人間なんだ」という「信仰自慢」についてですね。

      たしかに、現在編纂されてある聖書に絶対性はないと思います。時代的、状況的に合わない箇所もありますし、たとえばレビ記のいけにえの規定など、現代においては適用されないものが沢山あります。
      新約聖書においてさえそうです。たとえばパウロの書簡にどれだけ普遍性があるかという点でも、女性が全員帽子を被っているわけではないし、教会で黙っているわけでもないので、現代には適用されないものが沢山あります。
      そのように「ある箇所は尊重し、ある箇所は無視している」のが現状だと思いますので、聖書の全巻、一言一句に至るまで絶対性があるとは言えないと私は考えています。

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