「神様どうぞ導いて下さい」にまつわるアレコレ

2016年12月14日水曜日

「神の導き」に関する問題 雑記

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「神様どうぞ導いて下さい」
 みたいな祈り方について、今まで何度か書いてきたけれど、まとめ的に書いてみたい。
 ちなみに「神の導き」について興味のある方は、「『神の導き』に関する問題」というラベルで過去記事を参照していただきたい。

■ 「神の導き」についての考え方まとめ

「神様どうか導いて下さい」という祈りは福音派や聖霊派の教会でとっても多く聞かれる。日常用語と言ってもいいくらい多く聞かれる。類義語として
「祝福がありますように」
「お語り下さい」
 などあるけれど、それらと合わせてこの文言は、その系統のクリスチャンの集まり(祈り会など)では必ず複数回登場する。

 そこまで頻繁に使われるセリフなので、ほとんど「挨拶」と考えていいのかもしれない。そして挨拶であるなら、わざわざ記事として取り上げる必要はない。たとえば「おはよう」という挨拶の言葉についてアレコレ論じても、言語学のような専門分野以外ではあまり意味がないだろうから。

 しかし当該の系統のクリスチャンを見ていると、どうやらそれらは単なる挨拶ではない。本気で「導いて下さい」と言い、本気で「お語り下さい」と言っている。そして具体的な「神からの答え」を求めている。とても挨拶では済まない。

 彼らは、「クリスチャンとして神様から具体的な導きを得なければならない」と考えている。教会でそう教えられ、牧師や先輩たちもそうしているから。
 だから「神様、Aですか、Bですか?」みたいな祈りをして、たとえば「Aです」みたいな答えが返ってくるのを真剣に期待している。

 それの何が問題なのか。「導き」を求めてはいけないのか?
 それに答えるにあたり、いくつか考えるべきポイントを挙げてみたい。

■どの程度詳しく?

 第1に、神様はどの程度詳しく、人を導かれる方なのか、という点。

 たとえば「いつも神の導きを求めています。それに従えば間違いありませんから」と言う人がいるけれど、だからと言って、文字通りいつも「導き」を求めているわけではない。たとえば彼は「A社とB社のどちらに就職すべきでしょうか?」みたいな祈りはするけれど、目の前にコンビニが2軒あっても「このセブンとローソンのどちらに行くべきでしょうか?」みたいな祈りはしない。たぶんポンタカードを持っているならローソンへ、ナナコカードを持っているならセブンへ行くだろうけれど。

 これは茶化して書いているようだけれど、とても大切な点だ。「就職とコンビニでは事の重大さが違う」という反論があるかもしれない。けれど、まさにその反論が問題の根幹を含んでいる。すなわち、事の重大さを決めるのは誰なんですか? 神様ですか?  それともあなたですか? という問題。
 そして、事の重大さを決めるのがあなた自身で、「これは導きを求めなければならない」と考えて祈ったのだとしたら、逆にそれ以外のことはどうでもよく、自分で好きに決めていい、ということになる。つまり、「神の導き」を求めていると言いながら、導かれたい部分は自分で決めている、ということだ。かなり矛盾している気がする。少なくともそれは「人生を神に委ねている」とは言わない。

 その矛盾を解消するには、私たちは文字通りどんな些細なことでも「導き」を求めなければならなくなる。先のコンビニの例で言えば、セブンかローソンか明確に示されるまでそこを動くことはできない。もっと言えば、立つのも座るのも神の許可を得なければならない。朝起きたら先に洗顔するか、それとも排泄を済ませるかを尋ねなければならない。「神の導きを詳しく求める」とは、突き詰めれば、そういう話になる。

■どう判断する?

 第二の問題点は、その祈りの答えが間違いなく神からのものだと、どうやって判断するのか、という点。

  よく、「心に明確に◯◯と語られました」みたいなことを自信満々に言う人がいるけれど、それは全く根拠になっていないと思う。なぜならそれは主観でしかないから。
 実例として、神から◯◯と語られたはずの人が、結局うまく行かなくて途中で諦める、なんてことが本当に多い。で、◯◯はどうしたの? と尋ねると、「今度は××と語られたんです」みたいなことを言う。でもそんなこと言い出したら、いくらでも何とでも言えるんじゃないかな、と私は思う。
 経験的に、そういう人は結局××も途中で諦めるし、その後もあっちこっち右往左往することが多い。本当に語られたのかと疑いたくなる。

 残念ながら、そういう実例には事欠かない。書こうと思ったらクリスチャンの右往左往する情けない話ばかり延々と続けることもできる(しないけど)。
 だから主観的に「神に語られた」とか「◯◯と示された」とかと言う人を、私はなかなか信用できない。間違いなく本当だった、これは神様からとしか考えられない、というケースはほとんど皆無だから。

 単純な話、「神に◯◯と語られた」が真実かどうか見極めるには、◯◯が実現するかどうかに掛かっていると思う。他にそれを証明する方法があるだろうか。「神に語られたと言うのを疑うなんて不信仰だ」とか言う人がいるかもしれないけれど、そういう人は聖書をちゃんと通読した方がいいと思う。そして聖書に登場する「真の預言者」と「ニセ預言者」の比率を比較することをお勧めする。圧倒的に後者が多いのに気づくだろうから。

■そもそもの話

 第三に、少なくとも新約聖書において、「Aですか、Bですか?」みたいな祈り方は一切見受けられない、という点。
 たとえばだけど、ペテロは使徒の中でも一番「バンバン導かれてそうな人」の一人だろうけれど、ある時から異邦人と距離を取るようになった。そしてそれをパウロに咎められた。それはペテロにとって失敗だったはずだ。「バンバン導かれていた」なら、そんな目に遭わなかっただろうに。

 これはつまり、使徒であれ誰であれ、自分の行動は自分で選択した、ということに他ならない。

 そもそもの話、神様はどこまで「具体的」に、人を導かれるのだろうか? 神様は私たちの「Aでしょうか、Bでしょうか?」みたいな問いに明確に答えられるのだろうか? 仮に答えられるとして、どのような方法で答えられるのだろうか? そしてその答えを得る段階において、いかにして人間の側の「勝手な判断」を排除できるのだろうか?

 神様が人を具体的に事細かく導かれるとしたら、つまり神様があーしろこーしろと人に命令しまくるとしたら、人間に「自由意志」を与えた神の意志との間で自己矛盾を起こしている気がする。これは人間の側からすれば、何であれ自由に選ぶよう言われたにもかかわらず、いざとなると細かく命令されて動けない、みたいな状態だ。

■私はこう考える

「神の導き」とは、求めるものでなく、既に「ある」ものだと私は考えている。
 神様が私たちを愛しており、私たちを導いている、ということが聖書に書かれている。だから私たちは神様に現に愛されており、現に導かれている。感じても感じなくても(もともと信仰とは「感じる」から持つのではない)。その愛され方、導かれ方、その結果としての自分のこれまでの人生、今の生活などが自分にとって納得のいくものであってもなくても、その事実は変わらない。今もこれからも、神様は私たちを導く。だから「導いて下さい」と祈る必要はない。べつに祈ってもいいんだけど。

 また自分の行動は自分で決めるべきだ。もちろんその選択の基礎に聖書的な価値観があるべきだけれど、「神にこう言われたから」と最終的に神に責任転嫁するべきでないと思う。自分の選択なのだから、自分で責任をとるのは当たり前であろう。

「神様どうぞ導いて下さい」という祈りには、「自分はちゃんと導かれているんだろうか」という不安が現れていると思う。あるいは何を選ぶべきかわからない、自信がない、という不安が現れていると思う。でもそうだとしたら、「神様を信じている」とは言わない。神様は私たちを愛しているし、導いている。その結果が自分にとって都合が良ければ「導かれている」、悪ければ「導かれていない」とするのは自分勝手な考え方だ。と私は思う。

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