2016年12月15日木曜日

「神様どうぞ導いて下さい」にまつわるアレコレ・その2

「神様どうぞ導いて下さい」にまつわるアレコレ、の2回目。

 前回は、昨今の「神の導き」を求める教会風景に対する違和感・疑問を項目別にまとめてみた。「神様どうぞ(具体的に)導いて下さい」と祈りたい人には、これらの疑問について冷静に考えていただきたいものだ。

 ただ、誤解のないように書いておくと、私は「神様どうぞ導いて下さい」という祈りを全面的に否定したいのではない。私が問題提起したいのは、「常に具体的に導いて下さい」という依存し過ぎた態度についてだ。神の手足となってロボットみたいに動くことが「信仰的」とか「霊的」とか考えられる傾向が一部の教会群にあるけれど、それはおかしいんじゃないんですか、と言いたいだけ。

 教会で教えられること、習慣化していること、皆がしているからすること・・・そういうのは一度疑ってかかってみた方がいい。疑うまで行かなくても、これでいいのかと考えてみた方がいい。

 そのうえで書くけれど、「導いて下さい」という祈りそのものは、「具体的に誘導してほしい」という意味でなく、また「実際的に◯◯になってほしい」という願望でもなく、もっと心情的な部分でなら、アリだと私は思っている。
 たとえば、大変な困難の中にいるとき、不安や葛藤が大きくて、押しつぶされそうになることが誰にもあるだろう。そういうとき、心の叫びとして「どうか導いて下さい」みたいな祈りが、湧き上がるように出てくることもあると思う。そういうふうに不安を表出しなければどうにかなってしまいそうな心理状態。そのように絞り出される「導いて下さい」にまで、私は違和感や疑問をぶつけたいのではない。

■私が昨今の「神の導き」観にこだわる理由

 私がこの手の「神の導き」観に強くこだわっているのは、私自身が苦い経験をしてきたからだ。

 私が所属していた聖霊派教会では、例に漏れず、この「神様どうぞ導いて下さい」が蔓延していた。口癖みたいに「神が導かれるならば」とか「導きを求めます」とか「神の導きに従いなさい」とか言われていて、まさに「導き」なしには何もできない、身動きできない状態であった。
 何かするにしても、しないにしても、「それは神に導かれているのか」という視点が付いて回る。牧師も先輩信徒も系列の偉い先生方もこぞって「お導きならば」と言う。

 当時、私たち信徒を苦しめた言葉の代表的なものが、「神の導きなのだから従いなさい」という類のものだった。必ずしも「従え」という命令形ではなかったけれど、 「神の導きに従うのが一番だよね?」「従わないなんて選択肢あるの?」「神の願いを無視して、祝福があると思う?」みたいな、(今思うと)半ば脅しのような、そもそも選択肢のない状況に追い込まれていた。

 でその結果、みんな牧師の命令にアレコレ従い続ける教会生活となった。昼夜をとわず突然ミーティングに呼ばれたり、急ぎの仕事を頼まれて徹夜したり、うまくできないと叱りつけられたりした(そのへんの苦労話は、また別の機会にできればと思う)。

 そこには、「神の導きをいつも求めなさい」という考え方の他に、「神の導きが最善なのだ」という考え方と、「牧師は神の一番の代弁者なのだ」という考え方が混在していた。だから、

「神の導きに従うべき」+「牧師は神の代弁者」=「牧師に従え」

 という絶対の方程式が成立していた。
 だから牧師は「これが神の導きだ」という論法で、実質的に信徒たちを操り、教会全体を操ることができた。しかも牧師自身「自分も神に従っているだけ」と表明しており、優しい面や親切な面もあったから、信徒の側には疑いようがなかった。

 だからそういう牧師独裁教会の場合、問題は「神の導き」観だけでなく、教会の構造的なものになる。けれど、それでもやはり「神の導き」をどう捉えるか、という点がポイントになってくる。で、「クリスチャンはいつも具体的に神の導きを求めなければならない」「神の導きに従うのが最善なのだ」という考え方になってしまうと、簡単に、おかしな方向へ流れて行ってしまう。

 だから私は「神の導き」についてしつこく書いている。

■主観的判断による「神の導き」の濫用

 話を戻す。そういう教会の牧師や信徒が言う「神様どうぞ導いて下さい」について。

 そこにある基本的考え方は、自分が「したい・したくない」かどうかでなく、神が「導かれている・導かれていない」かどうかが最重要である、というものだ。神が願われることをするのが自分たちの願いです、という、一見すると敬虔な姿勢である。

 でもそれを敬虔と判断するのは、早いと私は思う。

「神が願われることをするのが自分たちの願いです」と言うならば、まず「何が神の願いなのか」を明確にしなければならない。けれどその段階で間違ってしまうと、つまり「神の願い」を履き違えてしまうと、それ以降の全部を履き違えてしまう。そうなると敬虔とは言えない。

 経験的にも言えることだけれど、「神の願い(導き)」を判断しようとすると、どうしても自分(人間の側)の思惑が入りこんでくる。

 たとえば「インターネット伝道がしたい」と思ったとする。そして祈ってみる。聖書を読んでみる。牧師や先輩に相談してみる。そして「神の答え」を推し量ろうとする。いろいろ考えてみる。家にはネット環境があり、ウェブカメラもマイクもあり、特に追加の投資は必要ない。 すぐに始められそうだ。「平安」という感覚もある。誰も反対しない。それでどう判断するかというと、「環境的にも状況的にも整えられている。タイミングも良い。平安もある。これはゴーサインに間違いない」となる。あるいは「思いに確信がきた」とか、「強く語られた」とか言う。

 でもはっきり言うけれど、そういうのは主観でしかない。「語られた」と思いたいだけだ。
 それでもあなたは言うかもしれない。「いえ、間違いなく示されたのです」
 しかしそれはあくまで、あなたの「主観的確信」である。あなたがそう感じるのは「事実」だろうし、その部分では肯定も否定もしないけれど、「客観的真実」とはならない。
 それでもあなたが自分の主観を主張し続けるなら、私はこう言おう。「あなたのために祈っていたら、あなたのしようとすることを止めるよう神に示されました。これは間違いなく神の願いです。だから私は神に代わってあなたを止めているのです。神に従いなさい」

 さて、あなたはどうやって私の「主観的確信」を否定し、あなた自身の「主観的確信」を正当化するだろうか。どちらも「これが神の願いだ」という、似たような確信なんだけど?

 このように多くの場合、というかほとんど99%のケースで、「神の導き」は主観的判断でジャッジするしかない。だからいくら本人が「たしかに語られたんだよ。本当だよ」と言って、それを信じてあげたい心情はあっても、客観的に真実かどうか判断することは誰にもできない。「○○と語られました」は、その〇〇が実現するなどしてハッキリ確認されるまで、真偽は留保される。

 で、前回も紹介したけれど「○○と語られました」と言う人が、それを簡単に諦めて「今度は××と語られました」とか「やはり導きは△△でした」とか、次々と前言撤回していくケースが現実に多い。じゃあ初めの〇〇は何だったの? という話になるけれど、残念ながらそれこそ主観的判断だったんだと思う。簡単に言うと、気のせい。あるいは単なる願望。

「神様どうぞ導いて下さい」は敬虔な祈りに聞こえるかもしれないけれど、蓋を開ければ上記のような有様なことが多い。それは「神の導き」の濫用である。敬虔とは言わない。決して褒められたものではない。と私は思う。

■「これは自分の思いか、それとも神からの思いか」の問題

 よく「神の導きを求めたい」「神の御思いを知りたい」という流れの中で、「どれが自分の思いで、どれが神からの思いなのかわからない」と葛藤する人がいる。「自分の思い」で行動したくない、「神の思い」を行いたい、という真面目な方々であろう。
 でも前回の結論でも書いた通り、それ以前に考えるべき問題は、これだと思う。「そもそも神は具体的に、事細かく人を導くのだろうか。あれこれ命令してロボットみたいに人を使うのだろうか」

 ちょっと乱暴な言い方かもしれないけれど、あなたの心に浮かぶ「思い」は、1から10まで「自分の思い」でしかない。「神の思い」とか「悪魔の思い」とかではない。あなたの心の中のことなのだから、それはあなたのものなのである。
 よくこういう話のときにルカ22章を引っ張って来て、「あれはサタンがイスカリオテのユダを操ったんだ」みたいなことを言う人がいるけれど、聖書をちゃんと読んでほしい。そんなこと書かれていない。そしてこれだけはハッキリ言えるけれど、もしユダがサタンに操られてキリストを売ったなら、彼に罪はない。操られただけなのだから。彼は悔い改める必要も死ぬ必要もなかったことになる。でも事実はそうではない。彼は彼自身の意思でキリストを売った。だから「呪われるべきだ」と言われたのである。サタンに操られて、心神喪失とか記憶喪失とかいう状態で行動していたのではない。

 だから「これは自分の思いか」「これは神からの思いか」なんて悩む必要はない、と私は言いたい。全部「自分の思い」なのである。そしてそれは悪いことではない。神様はあなたの思いや考えを否定されない。そしてあなたが何を選ぶにしても受け入れられるだろう。その証拠に、たとえあたなが意図的に悪いことをしようとしても、神が突然稲妻のように現れてあなたの手を止める、なんてことはない。もちろん、その悪いことの結果と責任は、あなた自身が負うのだけれど。

 何が神の願いか、何が神の価値観かがわからなくなったら、聖書に戻ればいい。特にキリストご自身の言葉に戻ればいい。そしてそれらを起点にして自分の行動を考えればいいのである。繰り返すけれど「どれが神の思いか」なんて悩むのは時間の無駄だと思う。聖書を読んで神を信じているあなたが良いと思うことを行い、その結果失敗だったと思ったら(それが本当に失敗だったかどうかは別として)反省すればいい。そしてそこから学べばいいだけだ。「これは自分の思いか、それとも神の思いか」などといつまでも悩んでいるから、窮屈なのである。などと私は考えている。

3 件のコメント:

  1. ジョン・オートバーグという牧師が著書『The life you've always wanted』の中で,fumimaruさんと同じように「導きは『内部情報』ではない」と指摘していて,なるほど確かにと合点がいったことがあります。彼が言うには,多くの内部情報としての導きを求めるクリスチャンの考え方は「どの選択が,お金や幸せや成功に続くのかを事前に知りたいということに他ならない」ため,「外的な決断に関する導きではなく,内的な成長の導きをこそ求めるべき」だそうです。例えば,どうすればもっと正直な人になれるか,とか。律法主義になってはダメですが,クリスチャンとして導きの中に「自分自身が(fumimaruさんの言葉を借りるなら「自分の思いが」)」成長することを求めるのが健全なのかなぁと個人的には思ってます。
     失敗しようが成功しようが神様は変わらず愛してくださるし,その愛の中で生き生きとイエス様により近い者へと成長させていただきたいものですね...

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    1. Lilyさん
      コメントありがとうございます。

      たしかに、「どの選択が成功に続くのか事前に知りたい」という動機から「神の導き」を求めるというのもあると思いますね。いわゆる「繁栄の神学」の流れだと思いますが、全然敬虔な姿勢ではありませんね。

      Lilyさんのおしゃる通り、内的成長を求めることが大切かと思います。というかクリスチャンの成長って、そこが一番大事なのではないかなと思います。

      本の紹介もありがとうございました。

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  2. 「神様どうぞ導いて下さい」

    これでふと思い出したことがあります。聖心女子学院初等科だったと思いますが、入学にあたってこのような説明がなされたことがあるそうです。
    「私どもは、何が子供たちにとって最適にして最善かを、常に神に祈って決めております。もしそれがどうしても納得できないとお考えになるのでしたら、そのときはどうぞご遠慮なくお申し出ください。転校手続きは速やかにとらせていただきますので。」

    新興宗教系プロテスタントには、「神に導いていただきたく祈って、その結果このようなご神託を得た。」というのはありますが、「その結果が気に食わないなら、洗礼証明書もちゃんとつけたうえで、他の教会に移ったり、宗旨替えしたりする権利は、十分に保証する。」と言うことがないことです。
    「それがおかしいと感じたらそこから去る自由」というものがあってこそ、「神に祈り求めてこのようなご神託がありました。」という権利があるのではないでしょうか?

    泉アツノみたいに「こんなん出ましたけど?」とやったら、「それですべておしまい。決定に従わなければならない。逃げ道はなし。」というのは、明らかにおかしいと思うのです。

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