「権威」の濫用、あるいは勘違いの「愛情」

2016年12月28日水曜日

雑記

t f B! P L
 以前にも書いたことがあるけれど、私は教会で熱心だった頃、おもに若い人たち(中学生〜高校生くらい)を相手に働いていた。プロテスタント教会用語風に言うと、「若い世代に重荷がある」みたいな感じだった。

 割と長い期間、その仕事をしていた。いろいろ体験し、良いこともあれば悪いこともあった(もちろん何が良くて何が悪いかは、一概には言えない)。
 それらの経験の中から、また他の教会の同業者(教会用語で言うところの同労者)の皆さんの体験談から、「あーこれには注意しなければいけないなあ」と思ったことが幾つかある。もう何年も前の話だけれど、今回はその中の一つについて書いてみたい。

 若者相手の話なので、教会で若者対象の活動(CS教師とかユースグループのリーダーとかいろいろ)をしているクリスチャンの方には、伝わりやすい内容かもしれない。けれど問題は、若者とか教会とかのみならず、「権威」が存在するあらゆる場において同じように存在していると思う。

■「権威」の濫用、あるいは勘違いも「愛情」

 まず事例を挙げてみよう。

・ある「親しみやすい」ユースリーダー

 ある教会のあるユースグループは中高生が多く、活気がある。そこのリーダーは年齢はけっこう高いけれど、見た目も感覚も若々しく、新しい若者がくると大概すぐ仲良くなれる。彼は礼拝以外の時間はだいたい若者と一緒にいて、しゃべったりふざけたり笑ったりしている。たいへん「親しみやすい」リーダーである。

 彼のユースグループにおける持論は「とにかく若者たちと一緒にいること」だった。共有した時間の分だけ若者たちの心に踏み込んでいける、という訳だ。だから彼は日曜はもちろん、平日もできるだけ若者たちと一緒にいようとした。放課後に教会に来る子がいれば相手したり、逆に会いに行ったり、あるいは週のどこかで簡単なイベントを企画したり、食事会をしたりと、非常に活動的であった。
 彼は若者たちに聖書を教えるのも熱心だった。集まりがあれば必ずと言っていいほど聖書を開き、「聖書はね」とか「神様はね」とか始めていた。個人的な相談にもよく乗っていた。時には求められなくても介入した。

 感謝祭とか年末とかの集会中、「日頃の感謝を伝えよう」みたいに牧師に言われて、皆それぞれ感謝したい相手の所に行く。すると彼のもとには(当然ながら)大勢の若者たちが集まる。で、皆から「感謝してます」「尊敬してます」「◯◯さんみたいになりたいです」とか言われる。彼は彼で「あー頑張ってきて良かった。でも全て神様のおかげだ。ハレルヤ」みたいに思う。

 と、ここまではよくある話。

 さて、当時はfacebookとかtwitterとかが流行り出した時期だった。「先進的な」教会(若者に力を入れる教会はだいたい「先進的」と言われる)は、もちろんそういう流行に敏感である。彼もさっそく複数のSNSにアカウントを作り、フォローとフォロワーを順調に増やしていった。

 彼がSNSに何か投稿すると、いつも若者たちから大量の「いいね」(あるいはそれに類するもの)が付いた。「そうですよね!」とか「アーメン」とかの肯定的コメントもきた。「祈りのリクエスト」を投稿すれば「祈ってます」コメントがずらずら並んだ。
 SNSでの彼は何というか、ちょっとしたオピニオンリーダーみたいだった。

 そんなこんなのある日、彼はSNS上で、自分のユースグループのメンバーである高校生Bのアカウントを発見する。Bはおとなしく目立たない子で、彼が特に力を入れて関わってきたメンバーだった。Bは以前から「SNSはやってません」と言っていた。
 そんなBのアカウントを見つけたので、「なんだ、Bも始めたんだ」と思った彼は、B宛に「友達リクエスト」(みたいなもの)を送った。当然承認されると思った。しかし、待てど暮らせど承認されない。もしかしたら気付いてないのかも、とか、滅多にログインしないのかも、とか考えたけれど、最後はBのアカウントそのものを見つけられなくなってしまった。
 以来、なんとなくBに声をかけ辛くなった。

 SNS関連で似たようなことが他にもあった。たとえば、引っ越して教会を離れたメンバーが、とたんにフォロワーから外れた。あるいはアカウントを持っているらしいメンバーが、SNS上でいっこうに見つけられない。逆にアカウントを持っていないと言うメンバーが、若者どうしの会話の中で発言している形跡がある(自分は見られない)。
 どれも彼が親しく関わってきたメンバーたちだった。

 確信がなく、また認めたくないという思いもあり、彼はそれら一つ一つを追求しなかった。しかし状況証拠的に、結論は一つしかなかった。

 彼は一部の若者たちから、実は避けられていたのだ。

■「権威」というフィルター

 彼が認めたくなかったのは、それが特に「親しい」関係、あるいは「よくお世話している」相手だったからだ。信頼関係ができている、親しくなっている、と思っていたメンバーたちだった。彼らは普段から、「◯◯さんには感謝しています」「◯◯さんのこと尊敬してます」みたいなことを彼に言っていた。

 それらの言葉が嘘だったかと言うと、嘘ではないと私は思う。感謝は感謝でちゃんとある。リーダーはいろいろ大変だろうとか、お世話になっているとか、若者たちは相応にわかっている。けれど同時に、相手が持っている「権威」を見ているのだ。

 誰にでも、「権威」のある相手に見せる顔と、そうでない相手に見せる顔とがある。
 たとえば見知らぬ老人にケチつけられても無視できる。けれどそれが会社の上司や学校の教師だったら、聞かなければならない。
 教会のユースリーダーに話しかけられ、「元気ないね」と言われ、「悩みがあるなら話してくれないか」と訊かれたら、何か話さなければならない。そしてそのことを(嫌でも)感謝しなければならない。

「権威」には「服従」がつきまとう。意思と関係なく。

 彼は誠心誠意、一生懸命に若者たちをケアしようとしていたと思う。しかし「権威」の性質についてよく知らなかったかもしれない。若者たちが自分に見せる好意、尊敬の念、感謝の意、笑顔は、彼自身に向けられたものであると同時に、彼の持つ「権威」に向けられたものでもあった。

 そもそも人間関係には、それがどういう関係であれ、ある種のフィルターが両者間に存在する。中でも「権威」は強力なフィルター効果を持っている。

 権威者のあらゆる「好意」は、それを受ける側にとっては、純粋な好意として伝わらない。
 たとえば、会社の上司から食事に誘われたとする。上司の方はただの気まぐれ、あるいは単純な好意で誘ったかもしれない。しかし誘われた部下はいろいろ考える。断ったらどうなるだろうとか、なにか意図のある誘いなのかとか、応じた方がメリットがあるのかとか。

 教会のユースグループでも、同じようなことが起こる。リーダーの好意、教会風に言うと「愛情」は、「権威」というフィルターを通してフォロワーたちに伝わっていく。だからフォロワーからの反応も、「権威」というフィルターを通して返ってくる。フォロワーからの感謝や尊敬や好意は、相手が
「権威」を持っているが故に送られるものかもしれない。相手がリーダーでなかったら送られない種類のものかもしれない。

 という訳で、教会で若者たちを相手にする人たちには、自分が「権威」を持っていることを自覚していただきたいと思う。

■最後に

 2016年最後の更新となった。
 今年は私事が忙しく、更新頻度が減ってしまって心苦しい1年であった。しかしどうであれ継続できたのは良かった。年が明けてもしばらく今の状況が続くと思うけれど、自分なりに書き続けていきたいと思っている。

 いつも読んで下さっている皆さんには感謝しかない。本当にありがとう。
 良い年を。

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