カルトっぽい教会を離れた後の話・8

2016年1月13日水曜日

教会を離れた後の話

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 私の教会は「賛美に恵まれた教会」「賛美によって打ち破る教会」と言われていた。

 エレキギターとかベースとかドラムとか、シンセサイザーとかサックスとかパーカッションとか、いろいろ変遷はあったけれど多くの楽器を使い、コーラスもズラリと並んで、スピーカーは大音量を流し、照明はグルグル回り、後半になるとスモークが漂い、さながらライブハウスであった。しまいには竪琴とか角笛とかが持ち出されて、ちょっとユダヤ回帰的でもあった。

 会衆側にいると、すぐ隣の人とも顔をくっつけて大声で話さなければ会話にならないくらいだった。初めて来る人はだいたい圧倒されて、「すごい(神様の)臨在ですね」とか評価する。中には涙を流して感動する人もいた。

 そこでは確かに何かが起こっているような気がした。誰もが神様に向かって叫んでいるし、手を挙げて、時には踊って、とにかく全力で賛美を歌っている。歌いながら感極まって涙を流したり、誰かの為に祈りだしたり、愛に溢れて隣の人をハグしたり、時には倒れたりと、とにかく情熱的でドラマチック。長い時は1時間でも2時間でも賛美が続いた。終わった時には冬だと会堂中の窓ガラスが曇り、窒息するくらい暑くて、皆クタクタになっていた。

 そこまで「すごい賛美」だから、確かに神様が働かれていて、何かが起こっている気がした。そうとしか考えられなかった。賛美が終わった頃にはすっかり「満たされた」感じがして、「心が一新された」感じがして、神様に近づいた感じがして、だからこれからもっとすごいことが起こるに違いないって感じがした。

 しかし結論から言うと、その教会は崩壊した。その「すごい賛美」がなされている間も、背後には牧師の沢山の嘘があり、信徒虐待があった。多くの信徒が「神様のために」と牧師の暴虐に耐えていた。 献金してくれた人の意志に反して高価な楽器や機材が買われていた。牧師にあえて耳障りな進言をする信徒は追放された。
 そういう虚構と牧師の個人的理想に支えられた「すごい賛美」であった。つまり「見た目」を繕うことはいくらでもできるので、教会だからとかキリスト教系団体だからとかで簡単に信用してはいけないって話。

 本題に戻ると、私の教会に来る人来る人、皆同じような反応だった(すごい賛美ですね)。内外の大物小物(おっと失礼)も同様だった。だから少なくとも聖霊派の狭い世界の中では、私の教会は「すごい賛美」をしていたはずだ。
 しかし解散後、私は教会を離れて(教会がなくなったのだから離れるというのもおかしいけれど)、「とにかくまともな社会生活を送ってみよう」と思った。普通に働いて、遊んで、いろいろ食べて、あちこち行ってみて、教会の狭い世界の中でなく、この広い世界の中で生きてみようと思った。それであるとき劇団四季のミュージカルとかクラシックのコンサートとか年末のカウントダウンイベントとかに行ったのだけれど、そこで一つ気付いたことがある。その大音響、群衆、そこから感じられる高揚感、興奮、そういった感覚のすべてに、すごい既視感があったのだ。そう、私の教会の「すごい賛美」と同じだったのである。

 もちろん、教会の賛美礼拝で叫ぶのと、カウントダウンイベントで10とか9とか叫ぶのとは厳密に言えば違うかもしれない。前者は神様を意識しているけれど、後者は特に意識していないからだ。だから目的が本質的に違うのはわかる。けれど、教会で体験した大音響とか群衆とか叫び声とか笑顔とかダンスとかからくる高揚感と、ミュージカルやコンサートやカウントダウンからくる高揚感を、私は全然判別することができない。まったく同じように感じたのだ。てことは教会のアレは何だったのだろう。

 そのヒントになる話として、賛美の歌詞の変遷について考えてみたい。たとえば詩篇。詩篇は歌として書かれたもので、もともとメロディがあった。そして読んだことがある人ならわかると思うけれど、かなり長い。内容は端的に言って「神がどんな方か」「神が何をなされたか」である。それに終始していると言ってもいい。だからメロディがなくても、詩篇は一篇一篇を一つのストーリーとして読むことができる。たぶん未信者でも内容を理解できる。

 ひるがえって現代のコンテンポラリーな賛美の歌詞を見てみると、詩篇との大きな違いとして、主語が変わっている。「神」から「私たち」へ。もちろん全部がそうなのではないけれど、かなり多い。「私たちは主を賛美します」「ほめたたえます」「ハレルヤと叫びます」とか。神様を主語にしたものは、パッと考えても少ない。「神がどんな方か」より、「私たちがどんな存在か」の方が重視されている。

 それにくわえて、内容の薄さがある。コンテンポラリーな賛美を一曲ランダムに選んでみて、その歌詞だけを見てみる。そこにどんなストーリーがあるだろうか。未信者が見ても内容がわかりそうだろうか。「私」から「神様」への、うっとおしいラブレターに成り下がっていないだろうか。
 一つ、ソラで書ける賛美の歌詞を紹介してみよう。

「あなたをたたえます
 あなたをたたえます
 主よ あなただけが賛美受けるべきお方
 主よ あなただけを私はほめたたえる」

  これは極端な例だけれど、ストーリーで言えばゼロだ。神様がどんな方か、まったく伝わらない。というか、神様という言葉さえない。「あなた」をいろいろに解釈したら大変なことにもなりそうである。

 べつにここで賛美の定義をしようとは思わないし、そういう神学的な議論をしようとも思わないけれど、たぶん多くの人が認める賛美の本質は、神様がどんな方かを神様に向かって表明することにあると思う。礼拝あるいは信仰の告白という面からみても、それは妥当であろう。 私がどれだけ神様を愛しているか、どれだけ賛美したいか、ということをいくら表明したところで、信仰する相手について何も言わない限り、それは信仰の告白にはならない。ただの愛の告白である(べつに神様に対して愛の告白をするのが悪いという意味ではない)。

 話を戻して「すごい賛美」の現場をみてみよう。楽器がズラリと並び、コーラス隊もズラリと並び、照明やスモークは荘厳な雰囲気を醸し出す。積み上げられたスピーカーから大音量が流れ、群衆は手を挙げ、狂ったように叫び、大声で歌う。でも内容は大部分が「私たちはあなたを愛します」「あなたを全力で賛美します」「たたえます」「あがめます」「ハレルヤ」「アーメン」「全地よ声をあげよ」「アイラブユー」
 うーん、何なんだろう。一般のミュージシャンのライブに参加するのと、どこが違うのだろう。
 それは確かに賛美礼拝なのだろうけれど、神様がどんな方かをたたえるのでなく、こうやって賛美できる自分ってすごい、という意味での賛美礼拝になっている気がする。

 だから「すごい賛美」で「満たされた」気になって、「心が一新された」気になって、何者かに変えられたような気がしても、それが本当かどうかはよくよく考えるべきだと私は思う。「神様のために」という気持ちに嘘はないとしても、その方法が間違っていないかどうかは、ちゃんと考えた方がいい。
 神様がどんな方かを告白する賛美礼拝か。あるいはただの自己満足のカラオケ大会か。もし後者だとしたら、間に合ううちに進路変更をお勧めする。

 以上、カルトっぽい教会を離れてみて気付いたことの一つ。

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