2015年12月6日日曜日

Born again にまつわるあれこれ

Born again とも「ボーンアゲイン」とも「新生」とも呼ばれる現象があると、プロテスタントの一部教派で言われている。たぶん「聖霊体験」とか「聖化」とかと意味的に近いのではないかと思う。私が普段から問題として取りあげている聖霊派ではこれは日常用語になっていて、

「私は Born again したクリスチャンです」
「私の Born again は○年○月○日でした」
「あなた、 Born again してますか?」
「Born again するには××が必要です・・・」

 みたいな話がよく聞かれる。
 で、決まって引用されるのがヨハネの福音書のニコデモのところである。「水と御霊によって生まれなければ・・・」ってとこ。

 彼らの理解によると、この「水」は洗礼を意味していて、「御霊」はいわゆる聖霊体験を意味している。つまり聖霊体験をすると「生まれ変わる」ことができて、それが要するに Born again なのだと。

 じゃあ「聖霊体験」って何だって話になると思うけれど、これがどうも曖昧である。「異言」(異言モドキ)が話せればそれが聖霊体験の証拠だ、と言う人がいるけれど、彼らは無意味な音をバラバラ言うのが「異言」だと信じているので信憑性に欠ける。またすごい勘違いだと思うけれど、「新生したクリスチャンはもう罪を犯さない」みたいなことを言う人もいて、じゃあ生きた人間が新生されるなんて絶対不可能ではないだろうか。それが本当ならば。

「クリスチャンになる前の価値観が大幅に変容して、今は聖書的価値観を持つに至っている」みたいな状態が「新生」だと言うなら、まだ理解できる。そういうことはあるだろうからだ。
 けれどそういうプロセスを踏まず、あるタイミングで一瞬にして、不思議な力の作用によって全てが変えられてしまった、みたいな高尚な体験談を自慢げに話される人もいる。私はそれははっきり言って怪しいと思う。なぜならそういう体験談を主張する人に教会生活や私生活上の問題が散見されるからだ。それが「新生」だとしたら、いったいどこが「新しい」のだろうか。

 私が思うに Born again の問題点は3つである。ちなみに私がここで取り上げる Born again は先の聖書箇所が言う「水と御霊によって」とは全然関係なく、Born again しましたか? としたり顔で言うクリスチャンたちの Born again についてである。

・問題1:そもそも Born again ってどんな状態ですか

 どんな状態になったら新生したと言えるのか。あるいはどんな体験をしたら新生したと言えるのか。
 先に述べたように「異言」を語れればいいのか。でもその場合、その異言は本当に聖書が言う「異言」なのか? もし仮にそうだとして、じゃあ「異言」を語る牧師やクリスチャンらが過去に大勢犯罪を犯しているのは、どう説明してくれるのだろうか。
 あるいは Born again とは不可逆的な変化でなく、可逆的なのだろうか?
 そういうことをあれこれ質問してみると、答えはたぶん教会によって、あるいはクリスチャンによってイロイロである。つまりどれが本当なのかわからない。人によって変わることが果たして聖書の支持する普遍的な真理なのか、大いに疑問。ではないだろうか。

・問題2:Born again されたかどうか誰がどう判定するのですか

 「私は Born again した」
「あの人もついに Born again しましたね」
 とか言う人がいるけれど、その判定はいったい誰が、どんな基準でするのか。どこかの牧師? だとしてどんなルールに従って判定するのか。
 たとえばチェック項目が10個あって、1つだけチェックが入らなかったとする。その場合、新生したとは判定されないだろう。でもその場合、9個までチェックが入ったのはどうしてなのだろう? それは「新生していなくてもチェックが入ってしまう項目」ってことにならないだろうか。

・問題3:Born again ってブームじゃないですか?

 普段そんなこと一言も言わないのに、礼拝後や祈祷会後の雑談でたまたま Born again の話題が出ると、途端に「ああ私、Born again してますから」みたいなことを言いだして、ご自分の「Born again 体験」をとくとくと語る人たちがいる。
 その話の中で、 Born again はクリスチャンにとって絶対必要だ、新生しないと本当に救われたことにならない、Born again するには○○しなければいけません、みたいなことを言うのだけれど、いやいや、そんな大事なことなら普段から言おうか? たまたま思い出したみたいに話すのやめようか? って言いたくなる。
 そういうあれこれを見ていると、結局それって一つのブームじゃないかと思ってしまう。

 以上みてきたように、 Born again は定義がはっきりせず、判定方法もはっきりせず、思い出したように時々語られる事柄ってのが諸教会での現状だと思う。
 うーん・・・、本当に必要なんですかそれ?

1 件のコメント:

  1. 私が初めてBorn againと言う言葉を聞いたのは、キリスト教入信当時の36年前です。チャールズ・W・コルソンと言う、昔のニクソン米大統領がウォーターゲート事件で逮捕され失脚した当時何かの要職にあった人で、要は「キリストによって新しく生まれ変わった」経験を本にしたもので、そのタイトルでした。
    所謂聖霊体験とはどう違うのか?今流行りのカリスマ・ペンテコとの関連はどうなのか?
    については良く分かりませんね。
    横文字を使うのが今の若い人のステータス?なのかどうか・・・。

    本の内容はほとんど覚えていません。

    当時は日本バプテスト連盟の教会に所属していましたし、福音派(OMF)教会の宣教師が伝道拠点を置いて「福音センター」と称した所に、高校生の集会があるので出入りしていましたが、様々な教会の男女がいました。
    そうした経験から「洗礼」(バプテストでは浸礼と呼ぶ)を受けた後に、またはその前にでも、生きた信仰・聖霊の存在・聖書に書かれている事をそのまま信じる等などの流れの中で、ごく自然にそれが真実なのではないか、と思うようになりました。
    最も当時は高校生ですから、憧れとサークル感・男女の出会い(笑)と外国の雰囲気に惹かれてでしょうけれど、自分が行くようになったバプテストとはかなり違うのはかんじていました。
    現在は、ブラザレン系から離れて独立した教会に所属していますが、ある意味で固く、ある意味でやわらかいとは思います。自分の意思は曲げずに、違うと思った事には参画せず、牧師の講壇からの説教を真に受けず、つかず離れずの日々ですね。
    あくまで「宗教」としてのコミュニティに繋がって、人との関わりを重視すると言いますか、自分の出来る事をすると言いますか。
    いずれにしても、宗教に自分の人生を引き回されるのは二度とごめんですね(笑)

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