2015年12月29日火曜日

カルトっぽい教会を離れた後の話・6

 私の教会が解散を決定するには諸事情あった。
 前にも書いた通り、その事情はひどく入り組んでいて、1人の人間の視点からその全体を捉えることはできないと私は思っている。だからその事情を私が書こうとしても、それは私の視点の話であって、他の当事者からしたら「そうではない」という話になるかもしれない。そして他の誰かがその事情を説明しようとしても、今度は私が「そうではない」と言うことになるかもしれない。

 ただ解散に至ったプロセスの中には、たぶん信徒の9割以上が同意するような明確な事柄もいくつかあった。信徒なら誰でも知っているような、翻しようのない事実である。

 その一つは牧師の独裁と、それを支える為の牧師の多くの嘘である。牧師は「神の言葉」を借りて信徒に様々な強制・命令を繰り返してきた。そして命令通りにできない者には暴言を浴びせ、暴力をふるい、従わない者は追放し、力のない者は無視した。親切にすることで牧師自身が注目を浴びるような相手(たとえば気の毒な境遇の病人とか障害者とか)は丁寧に世話をして、内外の賞賛を獲得した。また架空の「霊の戦い」を捏造し、架空の戦いと架空の勝利をでっち上げ、中心的なメンバーを同労者という名の共犯者に仕立て上げた。また会計上の不正もあった。返済の目処の立たない借金を「神からの使命」として信徒らに押し付けた。他にもイロイロあって挙げたらキリがない。
 要は神の名を借りた牧師のやりたい放題な教会であった。

 であるなら、それは牧師一人の問題なのではないか、牧師が替わればいいのではないか、という意見はもっともに聞こえるかもしれない。牧師一人を替えれば済む話で、なにも解散させなくても良かったのではないか、と。
 しかしその教会は、もはやその牧師(とそのやり方)なしには成り立たなくなっていた。中心的な信徒は皆そのやり方に洗脳されていた。だから仮に牧師を追放し(そんなことはそもそも不可能だったけれど)、その中の誰かが代わりにリーダーになったとしても、それは頭を取り換えただけのヘビみたいなものだったと思う。毒があることに変わりはない。

 もう一つの事実は、他教会の牧師から聞いたものだった。

 教会の今後について考えていたとき、私たちは他教会の何人かの牧師に相談しに行った。当時はまだ、解散は明確に決まっていなかった。なんとそのうちのある牧師が、私の教会のルーツを詳しく知っていた。そして丁寧に説明してくれた。まるで映画みたいなドラマチックな展開だったのを覚えている。

 30年ほど前、ある地域でペンテコステの教会群が栄えた。教勢は伸び、若い信徒がどんどん増えていった。いくつもの枝教会が建ち、次第に他地域へと拡大していった。しかしそんな中、トップの牧師の不正が発覚した。よくある女性問題と金銭問題である。 そして芋づる式に発覚したのが、若い信徒たちを酷使し暴力で支配する実態だった。彼らは牧師の暴言や暴力を、「信仰の訓練」と信じて疑わなかったという。だから牧師の不正が発覚し、いろいろな嘘が明るみになったことで、自分たちが虐待され利用されていたことに気付いた。そして多くの若者たちが教会を離れていった。傷つき、あるいは怒り、あるいは絶望し、あるいは神から離れて。
 そしてその混乱の前に枝教会として派生したのが、私の教会であった。

 そして話は現代になるのだけれど、私の教会もそれとまったく同じ問題を起こしたのだった。わかりやすく言うと「歴史は繰り返す」である。

 そのことを話してくれた牧師はこういう表現も使った。
「らい病の家」
 レビ記14章の後半に書かれている話だ(新改訳聖書ではらい病はツァラアトと表現されているけれど、 そこは本筋から離れるので特に言及しない)。

 すなわち家にらい病の患部が現れたなら、しかるべき処置をしなければならない。しかしそれでも再度患部が現れるなら、それは「家につく悪性のらい病」であって、家も土も全部壊して処分しなければならない、というような話。
 つまり、かつてあった教会がらい病を発症し、現代の枝教会も、らい病を発症した。だからその教会群は「らい病の家」であって、完全に取り壊さねばならない、というような話なのであった。

 そのらい病の話の是非はともかくとして、「同じ歴史を繰り返した」という点が私には衝撃だった。まあ教会の仕組みとか、リーダ―シップの在り方とかが同じなのだから、当然といえば当然かもしれない。リーダーが替わっても同じような問題が起こるのは必然だったのかもしれない。
 であるなら、この教会は果たして存続していいのだろうか? 辞めるべきではないだろうか? 私たちの中にそういう考えが浮かんだのも当然だっただろう。

 これはあくまで、その牧師から聞いた昔話である。解散の決め手になった訳ではない。しかし解散に向かわせる一つの要因だったのは間違いない。

 以上の通り、私の教会が悲劇的な歴史を繰り返してしまったのは事実である。そのことはクリスチャンの皆さんにはよく知っておいていただきたいと思う。私たちは歴史を大切にし、そこから学ぶべきだ。以前起こった問題は、その後ちゃんと改善されなければ、また起こる。そういう話だ。

 もちろん、これをどこかの教会で偶然起こったアクシデントと捉えるか、繰り返される歴史の中で起こった必然と捉えるかは、皆さん次第である。

2 件のコメント:

  1. 読んでいて思うに、その親教会も枝分かれした教会も「教え」が同じであるから、同じ問題を繰り返すのではないだろうか。
    小牧者の弟子訓練をしていた教会が同じ体質になり、同じ様な問題を起こし、同じく牧師崇拝主義・信徒の階級制になっていった様に。
    権力を求め、この社会と同じ力比べをする体質は、キリスト教の本質と真逆と言えます。

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  2. 「新興宗教系プロテスタントがなぜこんなにもカルト化しやすいのか?やはり教義的になんらかの問題があるのでは?」

    このような問いに対してしばしば「それは教義的に問題があるのではありません。あくまでシステムに問題があるのです。」という回答が返ってくることがあります。
    昔は私も「問題は教義にあるのではなく、システムにあるのではないか?」と思っていたのですが、最近は「これはシステム上の問題も当然あるが、教義上の問題もあるのではないか?」と思うようになってきました。
    システム上の問題というのは、わかりやすくいえば新興宗教系プロテスタントの世界では、教祖様の専制独裁が簡単になされてしまうシステムになっているということです。信徒会がしっかりしていないといいましょうか、信徒会に聖職者を管理する権能を持たせないので、民主主義という概念が育たないようになってしまっているということでしょうか。
    ならそんなシステムを許してしまうのはいったい何なのか?ということになります。
    私が考えるに、そんなシステムを構築して許してしまっているのが、教義なのだということなのです。
    これは宗教改革が起こってプロテスタントが誕生したときに出てきた「万人司祭」という考えに端を発しているのではないかと思うのです。「万人司祭」というのは、嫌な言い方をすれば、「何をやってもいい。」ということなのです。
    だから「ここはオレ様版北朝鮮だもんね。オレ様は偉大なる金日成首領様だから、何をやったっていいんだぜイェーイ!」となっても全然OKなのです。

    (ちなみに伝統宗教系プロテスタントでは、こういったことにはなりません。新興宗教系プロテスタントと同じように「万人司祭」ではありますが。)

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