中高年の牧師に多い印象だけれど、話が通じない、結局こっちの話を聞いていない、声が届かない薄膜の向こうにいる、といった感覚を覚えさせられる人間がいる。コミュニケーションが成立していると思えない。そういう人間がどうやって「牧会」しているのか不思議だ。
もっとも、牧師は「牧会」なんてしなくていいし、むしろすべきでないと私は考えている。聖書に詳しいだけの(対人支援の)素人が、他人の人生にあれこれ口を出すべきでないからだ。
牧師は聖書に詳しいかもしれないけれど(そこが怪しい牧師もいるけれど)、現代社会に生きる様々な人たちの、多種多様なニーズに応える訓練は受けていない。牧師資格は各種儀式を執り行う資格であって、他人の人生に口を出す資格ではない(信徒もそれを牧師に許してはいけない)。もちろん信徒と牧師があくまで個人的な繋がりの中で、ある種の支援関係を結ぶことはあるだろう。けれどそれは牧師だから、信徒だから、という立場のみによって発生するものではない。
私が思うに、現代のプロテスタント教会は(もちろん各教派、各教会によって事情は異なるけれど)牧師に権限を与えすぎだ。それに応じて牧師の業務範囲も責任も増しており、キャパシティを越えてしまっている。バーンアウトする牧師も少なくない。薬剤に頼ってなんとか続けている牧師もいる。一方で精力的に活動する牧師もいれば、立場を悪用する牧師もいる。いずれにせよ、原因は牧師の権限が大きすぎるところにある。
だから私は勧めたい。牧師は週末に説教だけして、平日は別の仕事をした方が良い。教会の全責任を負わなくて良い(負うべきでもない)。信徒と同じように一般社会で働けば、日常のあれこれに追われる信徒たちの気持ちが、少しは分かるだろう。その方が、今よりずっと良い関係を結び得る。
ペンテコステ派や聖霊派の勘違いした牧師の中には「霊的権威」などとほざく輩もいるけれど、おかしくて笑ってしまう。それこそ目に見えない、実在しない「権威」だから。そんなものを振り回したところで何にもならない。そういう教会の牧師や信徒は早く目を覚ました方が良い。