福音派の大きなカンファレンスで「ここでは先生と呼ばずにさん付けにしましょう」という<さん付けルール>が適用された、と友人から聞いた。新しい試みの一つだったらしい。けれど私は「またか」と思った。教会内の全てをコントロールできる立場にある牧師が「『先生』じゃなくて『さん』でいいよ」と言うのは実際に聞いたことがある。似た話をSNSで見たこともある。茶番でしかないと思う。
なぜ茶番かというと、「先生」が「さん」と呼ばれても依然として「先生」だからだ。そこにある権威、権力は何も変わらない。平信徒が自発的に「もう『先生』でなく『さん』と呼ぼう」と言い出して実践するなら権威の解体(の第一歩)と言えるかもしれない。けれど権威者の側が<さん付けルール>を「おふれ」として発布するのは、権威の別形態でしかない。要は「命令」なのだ。非権威者に与えられる、限定的な権威の移譲でしかない。
しかもその移譲は、権威者がいつでも自由に撤回できる。その意味では権威の移譲でさえない。権威者(牧師)が非権威者(信徒)を、謙遜ゴッコに付き合わせているのだ。
「先生なんてかしこまって呼ばなくていいよ。さん付けでいいよ」と牧師が言うのは、例えばIT企業のCEOがフォーマルな場にTシャツにデニムで来るのに似ている。それは「ラフ」とか「気楽」とか「フレンドリー」とかではない。最高権力者だからカジュアルな格好でも誰からも文句を言われないのであって、逆説的に権力を誇示しているのだ。若手たちはそれを見て「権力を手に入れれば好き勝手にできるんだ」と暗黙のうちに理解する。「謙遜」とか「へりくだり」とか、全然関係ない。
くわえて、<さん付けルール>は権力再集中のツールにもなる。
「さん」でいいよ、と気軽に言えるのはいつも権力を持っている人間だ。その要請自体に権力が働いていて、言われた側は従わなければならない(「命令」と書いた通りだ)。そして権力者を「さん付け」で呼ぶ、その居心地の悪さに耐えなければならなくなる。
それは「権力者の命令には何でも従わなければならない」という主従関係を強化する。牧師の権力を再集中させるのだ。なのに「さん付け」という、一見謙遜なやり方なのがいやらしい。
権力者の特権は、下の者に好きな時に権力を与え、好きな時にそれを取り上げることができることだ。カンファレンスで「さん付け」された牧師たちは、教会に帰ってまた「先生」と呼ばれていることだろう。だからそれは謙遜でなく、謙遜ゴッコなのだ。友人はそれを「白く塗った墓」と評していて、言い得て妙だった。
ふみなるさんの懸念は分かりますが、実際にそのカンファレンスの様子を見られていないのにここまで酷評するのはいかがなものでしょうか。主催者の方々の熱意を知っている者として、あまりにも断定的な評価に憤りをおぼえます。せめて「こう聞いて、こういう懸念をおぼえた」くらいの言い方にして欲しいです。
返信削除趣旨が読めていない上に、典型的なトーンポリシングです。恥ずかしくありませんか。
削除また私がしているのは「懸念」ではありません。権威者による有形無形の暴力についての解説です。
最後に、「熱意」があれば何をしてもいい、ということにはなりません。差別も暴力も「善意」に基づく場合があります。ここにコメントするならもっと勉強してください。