「教会を転々とする人」はよく「信仰が不安定だ」とか「自己中心的だ」とか言われるけれど、本当のところは安心して教会に定着できない立場に置かれている(教会が暗に求める<人間像>に合わないとかで)ことが多い。それでも教会生活を諦めていないのだから、むしろ信仰が強くてしっかりしているのだと思う。
小規模な教会が多い日本のプロテスタントにおいては、その教会に上手くハマれる人たちが(おそらく無自覚的に)支配的になりやすい。そしてその人たちと上手く付き合える人間が定着しやすい。そのできあがった閉鎖的なコミュニティに合致できない人は、明に暗に居づらい思いをして、結果的に「教会を転々とする」ことになる。
なので「教会を転々とする」ことと「信仰心」は基本的に関係ないし、「自己中心的」だから「教会を転々とする」のでもない。むしろ「自己中心的」なのは、教会において一定の権力を振るい、自分に合わない人間をそれとなく排除しようとする「教会に定着している信徒」たちではないだろうか。
もちろん「クレーマー気質のモンスター信徒に教会が振り回される」ケースは、なくはない。けれど経験的にはごく稀だ。むしろそういう稀少例を取り上げることで「加害者(教会側)が被害者ヅラする」構図を作っている面がある。自分と合わない新来者を来づらくさせ、来なくなったらその人の問題点をあれこれ指摘し、「あの人には大変な思いをさせられた」と話すのだ。「勝てば官軍」とはこのことではないだろうか。
だから「教会を転々とする人」は、正確には「教会を転々とさせられている人」だと思う。キリスト教会は神がそのコンセプトを作ったかもしれいないが、運営するのは人間だ。だから人間らしい問題が日々起きているし、弱い者が常に虐げられ、排除されている。「神を悲しませている」のはいったい誰なのか。
