苦しんで成長する?

2023年4月24日月曜日

教会生活あれこれ

t f B! P L

 聖書の「苦しみにあったことはわたしにとって幸いでした」はあくまで「わたし」の話であって、他の誰かのことではない。だから「あなたは苦しみを通して成長できましたね」みたいなことを他人に言ってはいけない。

 「苦しみを通して成長した」のが客観的事実だとしても、「結果的に良かった」と肯定できるのは本人だけだ。それは苦しんだことを無駄にしたくないからかもしれないし、起こった出来事に何らかの意味を見出したいからかもしれない。しかしもちろん苦しみたかったわけでなく、そういう形で成長したかったわけでもないはずだ。


 なのに「苦しんだことで成長する」という共通認識になってしまうと(一部のキリスト教会では既にそうなってしまっているけれど)、今苦しんでいる人に「乗り越えなきゃいけない」「これを通して成長した姿を見せなきゃいけない」というプレッシャーを負わせることになる。残酷なことだ。苦しみは必ずしも乗り越えられるものではないし、必ずしも成長を促すものでもないのだから。むしろ苦しんでそのまま潰れてしまうこともある。信仰の有無や強弱は、実のところ関係がない。


 そもそも「苦しみにあったことはわたしにとって幸いでした」は詩篇の中のダビデの独白であって、神様がそのように考えろとオーダーしているのではない。それは今風に言うと根性論のようなもので、キリスト教信仰と同列に考えてしまうと危ない。聖書には苦しむ人の姿がたくさん描かれているけれど、だからと言って苦しみが肯定されているわけではないのだから。


 苦しみを通して得た「成長」が本当に成長と言えるものなのか? も考えるべきだ。実はキリスト教会でしばしば使われる「成長」や「信仰の成長」、「霊的成長」といった概念そのものが曖昧模糊としている。それは(何らかの苦しい出来事を)経験したことで知見が増えて、「二度と同じことはしない」と学んだだけかもしれない。それはそれで「成長」と言えるかもしれないけれど、少なくとも「信仰の成長」ではないし、「霊的成長」でもない。

 苦しい経験を通して「メンタルが強くなった」という話も聞くけれど、それは苦しみを避けるために、なんとか順応するために自らが作り出した「歪み」みたいなものかもしれない。本当はそんなものあるべきでなかったのかもしれない。実際には「メンタルが強くなった」のでなく、心のある部分が(疲弊しすぎて)麻痺してしまったのでは? という印象を持つこともしばしばある。


 苦しむことは生きている以上避けられないかもしれない。しかしだからと言って「良いもの」であるかのように扱うべきでないと思う。「苦しんだ人ほど良い笑顔をする」などの肯定的な言説は迷信でしかない。少なくとも他人に対して、さもキリスト教信仰であるかのように「苦しみの価値」など語ってはいけない。

QooQ