「祈りハラスメント」にモヤモヤ

2021年5月25日火曜日

「祈り」に関する問題

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 教会から離れた人のために「教会に戻ってこれますように」と祈るのは、「愛」とか「寄り添い」とかではなく、自分(教会側)の願望の押し付けであることがほとんど。

 それは「戻ってきてほしい」と自分が思っているか、「戻ってきた方がその人のためだ」と自分が思っているから出てくる祈りであって、「その人のため」ではない。その人の気持ちや希望を、ちゃんと確認したのだろうか。


 わたしの場合「教会に属する気はない。属したいなんて1ミリも思っていない。むしろ属したくない」と明言しているのに、「彼が教会に戻れますように」とか「目が開かれますように」とか祈ってくれる人がいて(しかもそれを伝えてくる)、何と言ったらいいか分からない。


 しかも「目が開かれますように」というのも甚だ失礼な話だ。


 「祈りは良いものだし、善意で祈ってくれているのだから、そんなふうに言うもんじゃない」という意見もある。けれどそういう祈りはクソバイスの祈り版か、祈りハラスメントみたいなものだと思う(略すとイノハラ)。一方的に過ぎる。不快な思いをさせられても、「善意の祈りだから」と肯定しなければならないのだろうか。


 無遠慮な「善意」は、人を平気で攻撃する。


 もちろん何を祈るかは個人の自由だ。「Aさんが教会に戻ってこれますように」と祈ったっていい。けれど、「あなたが教会に戻れるよう祈っています」と直接Aさんに伝えるのは、暗に「戻ってこい」と脅すのに近い。それが負担になったり、嫌悪感を覚えたりする人は絶対に少なくない。


 また「祈りは最強です」と言う人もいるが、今すぐ助けられなければならない人には、何の役にも立たない。その意味で、最強でなく最弱だ。


 「祈った事は叶わなかったけど、それは御心に沿わない祈りだったから。神様はもっと大きなものを備えていた」みたいなセリフはもう一万回くらい見たし、聞いた。けれど「叶わなかった理由」を自分なりに考えて、納得しようとしているだけだと思う。同じ口が「祈りは必ず聞かれる」とも言うが、よく言えますね、としか。


 そのあたりの「自分はこうだと思ったけれど神様の願いはこうだった」とか、「自分に教えるために神様はこういうところを通されたんだ」とか、とにかく祈りも信仰も全部「自分軸」になっていて、自分(と周囲の人たち)に都合よく解釈してしまうのは、恣意的かつ自慰的でないだろうか。


 たとえば何かの差別問題にNOと言ってアクションを起こすなら、「祈って解決しましょう」とはならないし、「祈っても解決しなかったから御心ではなかった」ということにも絶対にならない。祈りを否定するわけではないけれど、祈りを万能視する傾向には違和感しかない。


 祈り自体は良いものだろう。けれど以上のような有害なケース(結果的に脅しになるものなど)も多々ある。あなたの祈りは誰かを苦しめ追い詰める、祈りハラスメントになっていないだろうか。

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