井の中の蛙、大海を知る蛙

2021年5月11日火曜日

教会生活あれこれ

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 自分の教会は単立のペンテコステ派だった。まわりには熱心な人が多く(ペンテコステ派がみんな熱心かどうかは分からない)、いつも信仰のことであれこれ話したり、祈ったり、聖書を読んだりしていた。勉強熱心だった。

 しかしそれだけ熱心なのに、「信仰書を読むとかえって混乱するから読まないようにしている」という声が割と多かったように思う。実は自分もそうだった。信仰を深めるための信仰書が、なぜかかえって邪魔になるのだ。


 当時はその理由がよく分からなかったけれど、たぶん「教会で教えられたことと異なる(時に反する)ことが書いてあり、そのギャップが埋められず、脳がバグっていた」からだと思う。


 自分は「井の中の蛙クリスチャン」だった(略すとイノクリ)。ペンテコステ派の教えが全てだった。そして根拠なく「クリスチャンはみんな同じ信仰を持っていて、同じように聖書を解釈している」と勝手に思い込んでいた。他にどういう教派があるかすら知らなかった。だから自分が理解しているのと違う「キリスト教」を突きつけてくる信仰書をどう受け止めたらいいのか、分からなかったのだろう。


 自分が(教えられて)信じているものを維持するには、他の情報(他教派の話や信仰書の内容など)を締め出さなければならなかった。


 そんな自分だったが、今はキリスト教のいろいろな教派や、他の宗教の話を聞くのが楽しい。少しずつ視野が広がっていくことに喜びを感じる。たとえば仏教の浄土真宗には「煩悩」という概念があるけれど、聞けば聞くほどキリスト教の「罪」と重なる。イスラムは「所属モスクへの献金」という考え方が薄く(そもそも「モスクに所属する」という考え方がない)、たとえば金銭的に困っている同胞のためにみんなでクラウドファンディングのようなことをすると聞く。クリスチャンは所属教会への献金(と献身)が優先されるから、そういう個人的な人助けは仕組み的に難しい。わたしはイスラムの、困っている人をダイレクトに助ける精神により魅力を感じる。


 ペンテコステ教会で頑張っていた頃の自分は、今の状況に(いろいろな宗教の人と関わる状況に)耐えられないかもしれない。「異教徒の悪い影響を受けてしまう」などと反感さえ持つかもしれない。しかしそれは言い換えれば、自分の信仰に自信がないからではないだろうか。


「信仰の安定」を目指して自分が信じる教えに集中すると、「井の中の蛙クリスチャン」になりがちだ。その井戸から飛び出して大海を知ると、世界の多様性に圧倒されて、自信をなくしてしまうかもしれない。どちらが良いかは人それぞれだろう。わたしは海の広さに圧倒されつつ、自由に泳いで行ける蛙でありたい。


追記


 「ではどのように大海を知ったらいいですか」と疑問に思う方には、ツイッターなどのSNSをお勧めしたい。簡単に他教派、他宗教の人たちの発信を見ることができる。きっと大海を知る第一歩となるだろう。

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