ダビデに次いでイスラエルの王となったソロモンは、優れた「知恵」を持っていたと書かれています。第一列王記3章にはそんな彼の「名裁き」が記されています。皆さんご存じだと思いますので要約しますと、こんな話です。
2人の遊女AとBが一緒に住んでいて、同じ時期に子供を産んだ。ある朝Aが目覚めると、自分の子供が死んでいた。しかしよく見るとそれはBの子供だった。Bが自分の子供と取り替えたに違いない。AはBと生きている子供を連れて、ソロモンの裁きを受けることにした。
ソロモンの裁きの場。AもBも、生きている子が自分の子だと主張する。そこでソロモンは言う。
「子供を半分に切って二人に与えなさい」
子供の本当の母親(ここではA)は子供を哀れに思い、どうか殺さないでくれと頼む。しかし偽の母親(ここではB)は殺してくれと頼む。その二人の反応を見たソロモンは、Aに子供を返す。めでたしめでたし。
すごく賢い判断だなあと思うのですが、ここで私が注目したいのは、AとBが相反する主張をしていて、一見するとどちらが正しいかわからない状況になっている、という点です。
よく裁判の傍聴に行く友人がいるのですが、彼いわく、「大抵の(民事)裁判はどちらの訴えも正当に聞こえる」だそうです。
弁護士や検事などの専門家が周到に作り上げた論理的な訴えですから、たぶんそういうことになるのでしょう。あるいは(裁判の種類にもよりますが)どちらの訴えにも一理あり、一方が完全に正しくてもう一方が完全に間違っている、なんて状況自体が少ないからかもしれません。
あるいは殺人事件であれば、悪いのは明らかに犯人でしょう。しかし「量刑をどうするか」という点になると、いろいろ意見が分かれそうです。「この犯人にはこんな事情があったんだ」と情状酌量するにしても、じゃあどれくらい酌量するのが妥当なんだ、本当に酌量すべきなのか、という話になります。
物事はそう簡単に白黒分けられない、ということだと思います。
私の教会では「何が御心なのか」がたいへん重要視されました。もちろん神の御心が大切なのは言うまでもありません。けれど「必ず御心だけを選ばなければならない」「御心は常に一つだ」と信徒にプレッシャーをかけるのが、教会のあるべき姿でしょうか。
それは本来なら白黒つけられないものに(白黒つける必要のないものに)、無理やり白黒つける作業ではないかと思います。
たとえばある高校生は「あなたが○○大学で勉強している姿が見える」と牧師に言われ、暗に「○○大学に進学することが御心だ」と言われ続けました。ではその子は△△大学や××大学、あるいは就職や留学や世界一周旅行を選んではいけないのでしょうか? 神様はそのように初めから進むべき道を一本に決めておられ、私たちに選択権はないのでしょうか?
いいえ、私たちには多様な可能性があるはずです。つまり「御心」はそこにもここにも、沢山あるはずです。神様はどれか一つ「だけ」しか私たちに用意しておられないわけではないでしょう。エデンの園には沢山の良い実がなっていました(逆に、禁止されたものが一つだけでした)。
沢山ある良いものを、わざわざ一つに絞ってしまう必要はありません。沢山のものの中から、選んでいいはずです。そして私たちがどれを選んでも、神様は「良し」として下さると私個人は信じています(もちろん常識的な、良心やモラルに沿った選択肢の中で、ということですが)。
その選択も性急にするのでなく、また一面的に捉えるのでなく、できるだけ広く俯瞰して、ゆっくり時間をかけて、見ていけばいいと思います。もちろんAかBかの二択を迫られることも人生の中にはありますけれど、そうでないことも沢山ありますから。
ですから「御心を選ばなければならない」とプレッシャーをかけられている方がいらっしゃったら、どうぞ安心して下さいと私は言いたいです。
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本記事はメルマガ第53号(キリスト教と二元論)から抜粋、編集したものです。
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