衝撃的なニュース
このところ、恐るべきニュースを立て続けに聞きました。
1つは大相撲の巡業中、土俵上で倒れた男性の救命に当たっていた女性(看護師)に対して、「女性は土俵から降りて」というアナウンスが繰り返された、というものです。
土俵は神聖は場所で、女人禁制だ、というのがその根拠だったようです。そのアナウンスをした行司にとっては「人命救助」より「相撲のルール」の方が大切だったようです。結局は相撲協会が「不適切だった」と謝罪しましたが。
これには「急なことでパニクった行司が、判断を誤っただけ」という擁護意見もあるようですが、咄嗟の判断には、その人の「本音」が含まれているものです。つまり「女性は穢れている」と普段から考えている、と。
もう1つのニュースは、ある保育園で働く女性保育士(既婚)の「妊娠していい順番」が決められていた、というものです。「人手不足だから急に妊娠されたら困る」という事情があったようですが、これは重大な人権侵害ですね。経営の苦しさもわかるのですが、だいぶ狂ったルールと言わざるを得ません。今までよく誰も文句を言わなかったな、と思いました。
これらは明らかな女性差別だと思うのですが、残念ながら、こういうのは日本では伝統的に見られます。
たとえば職場でのお茶出しは女性の仕事、みたいな雰囲気があります。女性だけが妊娠出産でキャリアが断たれたり、そもそも賃金ベースが男性と違ったりもします。子育てや家事は女性の仕事、みたいな習慣も根強いです。
キリスト教会での差別
そして残念ながらキリスト教会にも、こういう性差別はあります。
たとえば教会の炊事関係の奉仕は、ほとんど女性にだけ割り振られていますね。教会のキッチンに男性信徒が立つところ、見たことありますか? かく言う自分も炊事関係は苦手なので、人のことは言えないのですが(汗
また女性の牧師も少ないですね。牧師の世界は圧倒的な男性社会ですから、女性牧師は少なからず肩身の狭い思いをされているようです。
日本社会において、あるいは教会においてもそうですが、「男性優位」に基づく女性差別がデフォルトになっている気がします。たぶん女性のほうが、それをリアルに感じておられるのではないでしょうか(男性として申し訳なく思います)。
あるいは、教会で差別されるのは女性だけではありません。
たとえば献金を沢山払えるかどうかで、牧師の態度が露骨に変化することがあります。大口の献金者は牧師にとって「金ヅル」ですから、それはそれは大切に扱われます。逆に払えない人は、ほとんど無視されます。
あるいは能力が高く、いろいろな奉仕ができる人も重宝されます。逆にできない人、非協力的な人は排除されます。
見た目の良い人も重宝されます。でもそうでない人は無視されます。
また一定の障害を持った方々も大切にされます。牧師が彼らを助けることで、牧師自身が賞賛されるからです(感動ポルノを利用するわけです)。でもそういう「うまみ」のない障害者は見捨てられます。
海外からのゲスト、特に白人層も大切にされます。あるいは内外の有名牧師、人気のミニスターなどもそうです。でもそういうネームバリューのない牧師、宣教師は相手にされません。
教会の子供たちも、その親のステイタス(牧師とか、役員とか、平信徒とか)によって差別されています。
まだ他にも沢山あるでしょうけれど、このように実に多くの差別が、教会にも広がっています。もちろん教団教派によって事情は違うでしょう。けれど見えないところ、普段意識されないところ、当たり前と思って麻痺しているようなところに、差別というのはあるものです。
聖書はなんと言っている?
では聖書、特に新約聖書は、この点についてどう言っているのでしょうか。
福音書を読む限り、キリストは人を偏り見ない方でした。彼は当時差別的な扱われていた取税人や娼婦、らい病人、サマリヤ人などに積極的に関わっていました。
「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」
というのはガラテヤ人への手紙3章28節の言葉です。これが実現しているならば、もはや地上に差別はなくなっているはずです。でも今まで見てきたように、実現されてはいません。
さて「御心が地で行われる」ようになる日は、いつ来るのでしょうか。
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→4月8日発行のメールマガジンにて、さらに詳しく書いています。
新約聖書を読みますと、12使徒は全て男性ですね。でも、よくよく読むと女性の弟子が活躍していることは一目瞭然ですね。マグダラのマリアをはじめとして。
返信削除福音書が編集される段階で、男性中心の叙述がなされたのでしょう。初期教会を見ても、男性、女性のそれぞれの長老が協力して運営していたことが分かりますね。
最後の晩餐を行ったとされる場所も、福音著者マルコの母の家だと伝えられていて、見学の名所になっていまして、僕も見学しましが。女性が中心的な役割を果たしていたのでしょう。男性中心の教会へと変わったため、神父は男性のみとなったのでしょう。
人手不足ということもあり、多分第3バチカン公会議では?女性神父の公認が認められると考えています。女性牧師はすでにプロテスタント教会では実現していますので、歴史的には男女平等に向かいつつあると言えるでしょう。
各教会内における、男女差別、貧富による差別、などなどは、世の中がそうであるがごとく、当然存在するでしょう。
アメリカのプロテスタント教会でも、貧乏人が通うのは**教会で、中産層は**教会、上流階層は**教会というように分かれていると聞きますし、教会事態が階層化しているようですね。日本ではどうでしょうか。
おっしゃる通り、キリストの宣教や初期教会においては、女性たちが活躍していたようですね。それが徐々に男性中心にシフトしてきた結果が、現代の有様だと思います。
削除ところでカトリックで女性神父が登場したら、大きな話題になるでしょうね。どんなふうになるのか、見てみたい気もします。
男性のシスターとかね、(笑)
削除『けれど見えないところ、普段意識されないところ、当たり前と思って麻痺しているようなところに、差別というのはあるものです。』 ・・・仰るおりだと思います。
返信削除人間の本性は極限状況のなかで現れるとよく言われますが、 いつも安全地帯の快適な環境にいると本当の自分が分かっていないかもしれません。
普段私たちは教会で普通の市民生活を送っている「真っ当な?」人たちと接しています。ときどき考えるのですが、もし教会にボロボロの身なりの悪臭漂うホームレスの人が入って来たら自分たちはどう対応するだろうか? 社会から疎まれ蔑まれているアルコール中毒や薬物中毒、精神を病んだ人に対してキリストのような態度が取れるのだろうか?・・・私は自信がありません。
クリスチャン・ノンクリスチャン含めて、そういう人たちのいる地区へ自ら飛びこんで支援している人たちが日本にも世界にもいます。有名になる為でもなく、お金の為でもなく、日々地道に活動しています。心から尊敬します。
それを考えると、自分が神に従って立派に生きてますとはとても言えないですし、ノンクリスチャンを見下すなどは以ての外ですね。
教会にホームレスの方や精神疾患の方が来られたらどうするか、というのは、クリスチャンが最も試されるシチュエーションの1つだと思います。普段「愛しやすい人たち」と接している分にはわからない難しさがありますから。クリスチャンはみんな、そういう経験をした方がいいんじゃないかと私は思います。
削除自分より立場の弱い人間や嫌いな人間をどう扱うかに、その人の本性が現れる、とも言います。ですからそういう経験を通して、本当の自分を知ることもできると思います。
こんばんは。
返信削除教会内には差別はあります。
社会的に弱者の人を自分たちの教会には相応しくないと。
結局差別を受けた方は教会に来なくなりました。
イエスは世間から差別され疎ましく思われる者を友としたのに。
敬虔なクリスチャンという言葉がありますが、休まず礼拝に出て
進んで奉仕し正しい方が当てはまるのでしょう。
自分たちのカラーにあわない者は排除するのですね。
初めて教会に行った時はとても親切でウェルカムなのですが
月日が過ぎるうち、やっぱり、ここも人間の集まりなのだと
感じ、期待しただけに、落ち込みました。
おっしゃる通り、教会は人の集まり、人の組織にすぎませんね。だから信仰だなんだと言っても、最後は人間対人間の話になります。だから差別や不平等、贔屓が存在するのは、当然といえば当然かもしれません。
削除教会内の差別は残念ながらあると思います。それはどちらかと言えばノンクリスチャンに対してのものも少なからずありました。ノンクリスチャンはかわいそうな人で自分たちは正しい人みたいな感じです。以前にも述べましたがLGBTの人への差別や偏見はかなりの物でした。私にもそういった友人がいますので、まるで自分を否定されたような気がしたのを覚えています。私が教会を離れた理由の一つです。
返信削除教会によって差があるとは思いますが、私の知っているところでもLGBT差別は酷いものがありました。
削除彼らは「(LGBTは)罪だと聖書に書いてあります」と平気で言います。どこに書いてあるんですか? と尋ねると大概すぐには答えられないんですが(それだけ真剣に考えていないということだと思います)。
LGBTのことだけに限りませんが、「自分たちは正しい」「他は間違っている」という思考になってしまっているんだと思います。