キリスト教は「偶像崇拝」を禁止していますね。
モーセの十戒の第二戒「偶像を作ってはならない。それは拝んではならない」の通りです。
ちなみにカトリック版とルーテル版の十戒にはこの項目はありません。たぶん第一戒に含まれてるんだと思います(違ったらごめんなさい)。
だから教会に行くと、と言うか教会生活を始めると、やたらとこの「偶像崇拝」が問題にされます。教会によってはかなり厳しく注意されます(そういうのが嫌な人は行く教会を選んだ方がいいと思います)。
モーセの時代の偶像崇拝としてわかりやすいのは、「鋳物の子牛」を作って拝んだことです。イスラエル民族はせっかく神の助けによってエジプトの奴隷状態から解放されたのに、その神を忘れて「鋳物の子牛」に走ってしまったのですね。怒ったモーセは(選択のチャンスを与えてから)子牛に従う者たちを、皆殺しにしました。
「偶像崇拝」は死罪に当たる、というわけです。
ちなみに上記の話は旧約聖書の出エジプト記32章に書かれています。創世記からの流れで読むと大河ドラマみたいでなかなか面白いです。良かったらどうぞ。
現代の偶像崇拝は「鋳物の子牛」より種類が増え、より複雑になり、わかりづらくなっている感じです。と言うかそのへんの解釈は牧師によって、教会によって、教団教派によっていろいろ違うでしょうね。
ただ偶像崇拝に厳しい教会ですと、もうとにかく神様が第一でなければならない、聖書が第一でなければならない、信仰が第一でなければならない、という感じでだいぶ窮屈です。
たとえば学生が部活に打ち込んでいるとこう言われます。
「部活と神様、どっちが大切なの? 部活が偶像になってない?」
私のような映画好きで映画ばっかり見ている人はこう言われます。
「映画が偶像となってしまっています。あなたの偶像を捨てなさい」
また、アイドルが好きだなんて言ったら大変なことになります。なぜなら「アイドル=偶像」だからです(私個人はアイドルには全く興味がありません)。
「偶像」というのは沢山あるんですね。趣味も特技も仕事も遊びも育児も介護もその他のどんなことも、「神様よりそれが大切」になったら、それすなわち「偶像」だと。要は心の問題だ、というわけです。
とにかくそんな感じで、徹底的に、生活の中から「偶像」が排除されていきます。そういう教会だと「偶像警察」がまわりに沢山いますから、常に監視されてしまいます。だから窮屈だと。
でも私個人の意見として言わせてもらえば、「大切なもの」に一番とか二番とか、順番を付けるのがナンセンスです。
だって(一般的に言えば)仕事も大切なはず、日々の生活も大切なはず、健康も大切なはず、家族も大切なはず、個人的な趣味も大切なはずです。それぞれ種類が違うんだから、どれが一番とか二番とか、ないじゃないですか。
それに「それが神様より大切になっていないか?」なんて、バカらしい質問だと思います。「大切さ」の度合いが、加点方式だか減点方式だかで、心の中で数量化されているんですか? そして神様が何点、仕事が何点、家族が何点、とかって順位付けされているんですか? もし仮にそうだとして、誰がその順位をジャッジするんですか? 他人の心の中の順位が完璧にわかるんですか?
そういうのがナンセンスだと、私は思うわけです。
それに私が見るところによると、「偶像警察」の皆さんは、「偶像探し」が「偶像」になってしまっています。意味がわかりますか。それは偶像だ、これは偶像だ、信仰はこうでなければならない、神を第一にするとはこういうことだ、という自分の中の信念が、そのまま「偶像」になっている、ということです。つまり、「キリスト教という名の偶像」だと。
これはものすごくわかりづらい「偶像崇拝」ですね。一見すると「熱心なキリスト教信仰」ですから。
だから他人のなりを見て偶像だ偶像だ言う皆さんは、自分自身が最悪な「偶像崇拝」に陥っていないかどうか、今一度考えてみることをお勧めします。